第二十話 ヨスガの灯り
第二十話 ヨスガの灯り
ヨスガの町が見えてきたのは、日が少し傾き始めた頃だった。
ハルネのように、道の先から人の声が聞こえてくるわけではない。
大きな門があるわけでもない。
低い屋根がいくつか並び、その間から細い煙が上がっている。
遠くから見ると、町というより、道の途中にそっと置かれた灯りのように見えた。
「あれがヨスガ?」
カルマが尋ねると、シャナイが頷いた。
「ああ。大きな町じゃない。泊まる人間も、普段は多くない」
「じゃあ、宿も少なそうだね」
「少ないだろうな」
シャナイは町の方を見たまま言った。
「ただ、今日はどうか分からない」
その言葉に、パリーが少しだけ顔を上げる。
森を避けてから、パリーは何度か後ろを振り返っていた。
もう森は見えない。
それでも、森の方角を確かめるように、時々視線が戻る。
カルマはそれに気づいていたが、何も言わなかった。
言葉にすると、かえってパリーの不安を形にしてしまいそうだった。
三人は細い道を進み、ヨスガへ入った。
町の入口には、古びた木の札が立っている。
そこに刻まれた文字は少しかすれていたが、ヨスガ、と読めた。
道は狭い。
家々の壁は日に焼けていて、窓辺には干した布や小さな籠が置かれている。
人通りは多くない。
けれど、静かというには、どこか落ち着かない空気があった。
荷を背負った旅人が、道端で地図を広げている。
別の男は家の前で腰を下ろし、靴の紐を結び直していた。
町の人らしい女性が、水桶を抱えたまま、見慣れない旅人たちを気にしている。
「思ったより、人がいるね」
カルマが小さく言う。
「そうだな」
シャナイの返事は短かった。
パリーは手紙の入った袋を背負い直す。
その仕草に、カルマは気づいた。
「先に宿を探す?」
カルマが尋ねると、パリーは少し迷ってから首を振った。
「ううん。先に、手紙を届けたい」
声は小さかったが、はっきりしていた。
「ここまで持ってきたから」
カルマは頷く。
「分かった。じゃあ、届け先を探そう」
パリーは鞄から一通の手紙を取り出した。
封の端は少し擦れているが、丁寧にしまわれていたことが分かる。
表には名前と、ヨスガの町にある家の印が書かれていた。
「えっと……ナーヤさん、ですね」
「聞いて回るか」
シャナイが言う。
カルマは近くで水桶を抱えていた女性に声をかけた。
「すみません。ナーヤさんのお家を探してるんですけど、この辺りで分かりますか?」
女性は三人を見て、それからパリーの手元の手紙を見た。
「ナーヤ? ああ、坂の下の家だよ。赤い布が干してあるところ」
「ありがとうございます」
カルマが頭を下げると、女性は少しだけ表情を和らげた。
「手紙かい?」
パリーが少し緊張したように頷く。
「はい」
「そうかい。なら早く行っておやり」
女性は小さく言った。
「あそこは、ずっと待ってるから」
パリーの指が、手紙を少し強く握った。
三人は教えられた道を進んだ。
坂といっても、ほんの少し傾いた細い道だった。
その下に、赤い布が窓辺に干された家がある。
古いが、きちんと手入れされた家だった。
パリーは家の前で一度足を止めた。
息を吸う。
それから、扉を軽く叩いた。
「はい」
中から女性の声がした。
少しして、扉が開く。
出てきたのは、四十を少し過ぎたくらいの女性だった。
髪を後ろでまとめ、袖をまくっている。
夕食の支度の途中だったのか、手には布巾を持っていた。
「どちらさま?」
パリーは一瞬だけ言葉に詰まった。
けれど、逃げるように目を逸らすことはしなかった。
「あの」
手紙を両手で差し出す。
「手紙を、届けに来ました」
女性の目が、手紙に向く。
次の瞬間、布巾を持っていた手が止まった。
「……手紙?」
「はい」
パリーは封筒の表を確かめる。
「ナーヤさんへ、って」
女性は布巾を胸元で握りしめた。
それから、震えるような手で手紙を受け取った。
「うちの人から……?」
パリーは小さく頷いた。
「たぶん、そうだと思います」
ナーヤは封を開けなかった。
しばらく、ただ手紙を見ていた。
そこに書かれた名前を、指でなぞる。
カルマは、何か言いそうになって、やめた。
ここは、パリーが届けた手紙の時間だった。
自分が言葉を足す場所ではない。
やがてナーヤは、顔を上げた。
「ありがとう」
声が少し震えていた。
「本当に、ありがとう」
パリーは慌てて首を振る。
「いえ、僕は届けただけで」
「それが嬉しいんだよ」
ナーヤは手紙を両手で抱えるように持った。
「ずっと、届かなくてね。向こうで何かあったんじゃないかって、思ってたから」
パリーは少しだけ目を伏せる。
「遅くなっていたら、ごめんなさい」
「違うよ」
ナーヤは優しく首を振った。
「来てくれただけでいいんだ」
その言葉に、パリーは黙った。
手紙の袋を背負った肩が、少しだけ下がる。
重さが消えたわけではない。
けれど、何かがちゃんと届いたのだと、カルマにも分かった。
ナーヤはようやく、カルマとシャナイにも目を向けた。
「あんたたちは、この子の連れかい?」
「はい」
カルマが答える。
「ハルネから一緒に来ました」
「ハルネから……。遠かったろう」
「少し遠回りになりました」
カルマはそう言ってから、すぐに言葉を足さなかった。
森のことをここで話すべきか、迷ったからだ。
ナーヤはその間に、三人の荷物を見る。
「宿は取れたのかい?」
「これから探そうと思っていました」
カルマが答えると、ナーヤは少し困ったような顔をした。
「今日は難しいかもしれないね」
パリーが顔を上げる。
「宿、いっぱいなんですか?」
「ああ。最近、森を避けて来る旅人が増えてるんだよ。小さな宿しかないのに、急に人が増えたもんだから」
ナーヤは手紙を大事そうに抱えたまま、家の中を振り返る。
それから、三人に向き直った。
「よかったら、うちに泊まっていきな」
パリーが驚いて目を丸くする。
「えっ」
「たいしたもてなしはできないけどね」
ナーヤは家の中を振り返った。
「狭い家だけど、横になる場所くらいなら用意できるよ。夕飯も、少し増やせばいい」
「でも、そんな」
パリーは慌てた。
「手紙を届けただけですし」
「だからだよ」
ナーヤは穏やかに言った。
「その手紙を届けてくれた人を、外に放り出せるわけないだろ」
パリーは言葉を失った。
カルマはその横顔を見る。
嬉しいのか、困っているのか、自分ではまだ分からない顔だった。
だから、カルマは少しだけ笑って言った。
「泊めていただけるなら、すごく助かります」
パリーがカルマを見る。
カルマは小さく頷いた。
「お願いしていいと思う」
パリーはもう一度ナーヤを見た。
それから、深く頭を下げる。
「ありがとうございます」
「いいんだよ。さあ、入って。暗くなる前に荷物を置くといい」
ナーヤは扉を大きく開けた。
家の中から、煮込み料理の匂いがした。
野菜と豆を煮た、優しい匂いだった。
部屋は広くない。
けれど、きちんと片づいていて、壁際には古い椅子と小さな棚がある。
棚の上には、木彫りの小さな鳥が置かれていた。
ナーヤは手紙を棚の上ではなく、胸に近い場所に置いた。
すぐ読まないのかと、カルマは少しだけ思った。
けれど、ナーヤは手紙を見つめたまま、小さく息を吐く。
「読むのが、少し怖いね」
ぽつりと漏れた言葉だった。
パリーが顔を上げる。
ナーヤは苦笑した。
「待ってたくせに、変だろう」
「変じゃないと思います」
パリーは思ったより早く答えた。
自分でも驚いたように、少しだけ目を瞬く。
それから、続けた。
「大事な手紙だから、だと思います」
ナーヤは目を細めた。
「そうかい」
その声は、少しだけ柔らかくなった。
カルマはパリーを見た。
パリーはすぐに視線を落としたが、耳が少し赤い。
シャナイは何も言わず、部屋の隅に荷物を置いていた。
夕食は、日が沈んでから始まった。
豆と野菜の煮込み。
少し固めのパン。
干し肉を薄く切ったもの。
豪華ではない。
けれど、温かかった。
ナーヤは手紙を食卓の横に置いていた。
食事の前に一度だけ封を開け、短く目を通したようだった。
その後は、何度も読み返すわけではなく、ただ近くに置いている。
「元気そうでしたか」
パリーが遠慮がちに尋ねる。
ナーヤは頷いた。
「ああ。向こうで荷運びの仕事をしてるらしい。腰が痛いなんて書いてある」
そう言って、少し笑った。
「昔から重い物を持つのは得意だって言い張る人でね。たぶん、強がりだよ」
「無理してないといいですね」
カルマが言うと、ナーヤは頷く。
「本当にね」
食卓の空気は、少しずつほぐれていった。
パリーは最初、椀を持つ手にも緊張が残っていた。
けれど、ナーヤが手紙の中身を少しずつ話すたび、表情が柔らかくなっていく。
この人は、ずっと待っていたのだ。
手紙を。
言葉を。
無事でいるという、ただそれだけの知らせを。
カルマはその光景を眺めながら、パンを小さくちぎった。
何かをしたわけではない。
ただ、パリーが手紙を届けた。
それだけで、知らない町に座る場所ができた。
夕飯の湯気の向こうに、名前も知らなかった人の笑顔がある。
旅というものが、少しだけ分かった気がした。
「そういえば」
ナーヤが椀を置いた。
「あんたたちは、森を通らずに来たんだね」
その一言で、パリーの手が止まった。
カルマも顔を上げる。
シャナイは水を飲んでいた手を静かに下ろした。
「はい」
カルマが答える。
「途中で道を変えました」
「そうかい」
ナーヤは少しだけ声を落とした。
「それなら、よかったのかもしれないね」
部屋の中の灯りが、小さく揺れた。
外はもう暗い。
窓の向こうでは、町の音が遠くなっている。
「森で、何かあったんですか?」
カルマが尋ねる。
ナーヤはすぐには答えなかった。
手紙に一度視線を落とす。
それから、ゆっくり口を開いた。
「旅人が襲われたらしいんだ」
パリーの顔から、少しずつ色が引いていく。
「襲われた……?」
声は小さかった。
「ああ。森の道でね。見つかった時には、荷物も荒らされていたそうだよ」
ナーヤは椀の縁に指を添えた。
「傷は、魔物のものだろうって話だった」
カルマは黙って聞いた。
シャナイも何も言わない。
ナーヤの声だけが、灯りの下に落ちる。
「でもね」
ナーヤは眉を寄せた。
「変なんだよ」
パリーは動かなかった。
「魔物に襲われたにしては、金目の物と食料だけが綺麗になくなっていたらしい」
カルマの指が、膝の上で少しだけ止まる。
「食料も、ですか」
「ああ。袋ごと、きれいに。けれど、傷は魔物のものだって」
ナーヤは声をひそめる。
「盗賊なら、あんな傷は残せない。魔物なら、金目の物を選んで持っていくはずがない。みんな、気味悪がってる」
部屋の中が静かになった。
さっきまで温かかった煮込みの匂いが、急に遠く感じられる。
パリーは椀を持ったまま、森の方角を見た。
もちろん、窓の外から森は見えない。
見えるのは、暗くなった町の道と、向かいの家の小さな灯りだけだった。
それでも、パリーの目はそこから動かなかった。
顔色が、はっきりと青ざめている。
「パリー」
カルマが名前を呼ぶ。
パリーはすぐには返事をしなかった。
手紙の入った袋の紐を、指先で握っている。
森の前で、同じようにしていた。
カルマはそれを見て、言葉を飲み込んだ。
何か言えば、説明になってしまう。
慰めにも、答えにもならない。
シャナイも黙っていた。
ただ一度だけ、パリーの横顔を見た。
その目に、いつもの軽さはなかった。
ナーヤは三人の様子に気づき、少し声を抑えた。
「怖い話をして悪かったね」
「いえ」
カルマは静かに首を振る。
「聞けてよかったです」
それだけを言った。
パリーはまだ、窓の外を見ている。
暗い窓に、食卓の灯りが映っていた。
小さな灯りの中に、青ざめたパリーの顔も映っている。
外の闇は、何も語らない。
ただ、森の方角だけが、夜の向こうに沈んでいた。




