第十九話 遠回りの旅路
第十九話 遠回りの旅路
ハルネの街が、少しずつ遠ざかっていく。
振り返れば、まだ街の入口は見えた。
けれど、見送ってくれた人たちの顔まではもう分からない。
カルマは歩きながら、オーファの言葉を思い出していた。
色んな人に会ってきてください。
色んなことを見てきてください。
そしてまた帰ってきてください。
その声は、背中を押すというより、そっと送り出すようだった。
カルマはもう一度だけ、ハルネの方を見た。
孤児院も、パン屋も、広場も、ここからは見えない。
それでも、あの街に自分の名前を呼んでくれる人たちがいる。
そしてきっと、あの人にとっても。
ここは、そういう場所なのだろう。
そう思うだけで、足元が少しだけ軽くなった。
「見すぎると、ハルネが縮こまるぞ」
少し前を歩いていたシャナイが、振り返らずに言った。
カルマは小さく笑う。
「歩いてるから小さく見えてるだけじゃない?」
「照れてるんだろ」
「街も照れるんだ」
「さっき、あれだけ見送ってたからな」
カルマはもう一度だけ、遠ざかるハルネを見た。
「じゃあ、あまり見すぎない方がいいね」
「これ以上小さくなると、帰りに探すのが大変だからな」
シャナイは軽く言った。
カルマは笑って、前を向いた。
隣を歩いていたパリーが、背負った袋を少し直す。
袋の中には、頼まれた手紙が入っている。
昨日よりもきちんと結ばれた袋。
その横には、リサからもらった革の鞄が下げられていた。
「手紙も、これだけあるとけっこう重いよね」
カルマが言うと、パリーは袋を少し背負い直した。
「うん。けっこう重い」
正直な返事だった。
「少し持とうか?」
「ううん。まだ大丈夫」
パリーは首を振る。
「きつくなったら言う」
「分かった」
カルマはそれ以上、無理に手を出さなかった。
少し前を歩いていたシャナイが、振り返らずに言う。
「それがいい。最初から無理して背負って歩くやつは、だいたい昼前に無口になる」
「……それ、見たことあるの?」
カルマが聞く。
「ある」
シャナイはあっさり答えた。
「昼過ぎには、荷物を見る目が変わる」
パリーは思わず袋を見る。
「そこまでは、ならないようにします」
「その前に言えよ」
シャナイは軽く言った。
パリーは小さく頷く。
「うん」
それから袋の紐を握り直し、また前を向いた。
ハルネを出たばかりの道は、思っていたより穏やかだった。
風は柔らかく、道端の草花が揺れている。
街の中とは違う、土と草の匂いがした。
遠くには、濃い緑の森が見える。
木々が重なり、道の先を覆うように広がっていた。
「あの森を抜けるんだっけ」
カルマが尋ねる。
シャナイは前方を見たまま頷いた。
「抜ければ大きな街へ近い。道も分かりやすい」
「大きな街か」
カルマは森の向こうを見ようとした。
もちろん、ここから街は見えない。
見えるのは、ただ重なった木々だけだった。
「ハルネとは全然違う?」
「違うだろうな」
シャナイは軽く答える。
「人も多い。店も多い。迷う場所も多い」
「そこは少ない方が助かるね」
「なら、最初は俺から離れないことだ」
「頼りにしていい?」
「道に関してはな」
カルマが笑うと、パリーも少しだけ笑った。
三人は森へ続く道を進んだ。
木々は少しずつ近くなる。
風の匂いも変わった。
草の匂いが濃くなり、湿った土の匂いが混ざる。
鳥の声が聞こえた。
葉が揺れる音も聞こえる。
カルマには、何かがおかしいようには思えなかった。
けれど、パリーの足が止まった。
「パリー?」
カルマが声をかける。
パリーは森を見ていた。
リサからもらった鞄の紐を、指先で握っている。
「どうした?」
「……ごめん」
パリーは小さく言った。
「少しだけ、嫌な感じがします」
カルマも森を見る。
道はまっすぐ続いている。
木々の間に、何かがいるようには見えない。
「森が?」
パリーは迷うように首を傾けた。
「森、なのか……道なのか」
言いながら、自分でも困ったような顔をする。
「うまく言えないんですけど」
そこで一度、唇を結ぶ。
「あまり、近づかない方がいい気がします」
風が吹いた。
ざわ、と木々が鳴る。
三人は少しの間、森を見ていた。
鳥の声が、急に遠くなった気がした。
けれど、森は何も変わらない。
ただ、そこにあるだけだった。
シャナイが小さく息を吐く。
「パリーがそこで止まるなら、そっちはやめておこう」
パリーが顔を上げる。
「いいの?」
「いいさ」
シャナイは森を一度だけ見た。
「無理に通る理由もない」
パリーは少しだけ目を伏せる。
「でも、遠回りになりますよね」
「なるな」
シャナイはあっさり頷いた。
「こっちへ行けば中継の町がある。ヨスガって町だ」
「ヨスガ」
カルマはその名前を口にする。
初めて聞く町の名前だった。
「大きくはない。旅人が好んで集まる町でもない」
「じゃあ、静かなところ?」
「普段はな」
「普段は?」
カルマが聞くと、シャナイは少しだけ考えた。
「最近は分からない」
その言い方に、カルマは少しだけ引っかかった。
けれど、シャナイはそれ以上説明しなかった。
三人は森へ続く道を外れた。
ヨスガへ向かう道は、さっきまでより少し細い。
踏み固められてはいるが、道端の草も多かった。
最短ではない。
遠回りになる。
道はゆるやかに曲がり、森を横に見る形で続いている。
さっきまで正面にあった森は、少しずつ斜め後ろへ流れていった。
完全に離れたわけではない。
それでも、パリーの足取りはさっきより軽くなっていた。
けれど、時々、森の方を見ている。
カルマも一度だけ振り返った。
森はやはり、何も変わらない。
静かで、深くて、何も語らない。
だからこそ、少しだけ気になった。
しばらくは、誰もそのことには触れなかった。
足音だけが続いた。
土を踏む音。
草をかすめる音。
背中の袋が小さく揺れる音。
ハルネの声は、もう聞こえない。
森の音も、少しずつ遠ざかっていく。
しばらく歩いた頃、道の脇に背の高い木が見えた。
枝には小さな果物がいくつか実っている。
カルマが見上げた時、短い音がした。
ひゅ、と風を切るような音。
次の瞬間、ぽすん、とシャナイの手に果物が落ちた。
「今の、何?」
カルマは目を瞬く。
「昼の足し」
「そこじゃなくて」
シャナイは懐から一枚のカードを取り出した。
「これで落とした」
指先で軽く回すと、カードは陽の光を受けて小さくきらめく。
「相変わらず、狙いが正確だね」
「果物は動かないからな」
「それでもすごいよ」
シャナイは果物をひとかじりした。
パリーが慌てて声を上げる。
「食べられるやつですか?」
「前に食べた」
「それ、少し怖いです」
カルマは笑いながら、足元に転がった果物を拾った。
それから、シャナイの手元のカードを見る。
「俺も前に少し練習したけど、まだあんな風にはいかないな」
「最初から果物を落とされたら、俺の立場がない」
「そこは守れそう」
「安心した」
シャナイは軽く笑った。
パリーは果物とシャナイを見比べている。
「本当に、大丈夫なんですよね?」
「今のところは平気だ」
「今のところって言わないでください」
パリーは眉を下げる。
けれど、声はさっきより柔らかい。
森の前で強張っていた顔は、少しだけ戻っていた。
三人は果物を分けながら、ヨスガへ続く道を進んだ。
森は少しずつ背後へ遠ざかっていく。
けれど、完全に見えなくなるまで、パリーは時々そちらを振り返っていた。
カルマも、もう一度だけ振り返る。
森はただ、そこにあるだけだった。
誰もいないように見える。
何も起きていないように見える。
それでも、三人はその森を通らなかった。
道は細いまま、ゆるやかに先へ伸びている。
遠くに町影はまだ見えない。
ただ、森を外れた道だけが、三人の前に続いていた。




