第二十一話 魔物の傷跡
第二十一話 魔物の傷跡
ヨスガの朝は、鍋をかき混ぜる音から始まった。
こつ、こつ、と木の匙が鍋の縁を叩く。
麦の粥の匂いに、刻んだ野菜の青い匂いが混じっていた。窓の外では荷車の車輪が軋み、誰かが戸板を開ける音がする。
知らない町の、知らない家の朝。
それなのに、冷たくはなかった。
昨夜、ここで一通の手紙が受け取られたからだ。
大都市へ働きに出ている夫から、その妻へ宛てられた手紙。
パリーがそれを差し出した時、女性はすぐには受け取れなかった。
服の裾で指先を拭い、震える手で封を切り、何度も瞬きをしながら文字を追っていた。
読み終えたあと、女性は手紙を胸に抱いた。
泣き声は出さなかった。
ただ、息をするたびに肩が小さく震えていた。
宿がどこも埋まっていると知ると、女性は迷わず三人を家へ入れてくれた。
狭い家ですけど。
大したものは出せませんけど。
それでも、今夜くらいは。
そう言って、温かい汁と寝床を用意してくれた。
手紙を届けただけで、知らない家の戸が開いた。
言葉を運んだだけで、夜を越す場所ができた。
旅は、金だけで進むものではないのかもしれない。
けれど、その温かさのすぐ外側に、昨夜聞いた話がある。
森で、旅人が襲われた。
その一言は、朝になっても胸の奥から消えていなかった。
「……おはようございます」
控えめな声がして、カルマは体を起こした。
部屋の入口に、パリーが立っている。
「おはよう、パリー」
なるべく普段通りに返したつもりだった。
けれど、パリーの顔色は悪い。目の下には薄く影があり、肩もいつもより少し丸まっている。
「眠れた?」
「はい。少しは」
その声に、力はなかった。
カルマは、それ以上聞かなかった。
大丈夫か、と聞けば、パリーはきっと大丈夫ですと答える。
今、その言葉を言わせる必要はなかった。
「朝から静かな顔ぶれだね」
軽い声とともに、シャナイが入ってきた。
指先で一枚のカードが回っている。
けれど、いつものような弾む動きではない。
くるり、くるり。
妙に遅い。
「外も森の話ばかりだよ。遠回りの道を聞いてる旅人が、朝から何人もいる」
「やっぱり、その話か」
「命がかかってる話は、焼きたてのパンより早く広まるからね」
言い方は軽かった。
けれど、シャナイは笑わなかった。
三人が台所へ向かうと、女性が粥をよそっていた。
机の端には、丁寧に畳まれた手紙が置かれている。
何度も開いたのだろう。
折り目のところが、少し柔らかくなっていた。
「おはようございます。よく眠れましたか」
「はい。泊めていただいて、本当に助かりました」
カルマが頭を下げると、女性は慌てて首を振った。
「助けてもらったのは、こちらです」
そう言って、女性はパリーを見た。
「本当に、ありがとうございました」
「い、いえ。僕は、預かったものを届けただけで……」
パリーは両手を小さく振った。
女性は、少しだけ笑った。
「それでもです。あの人の字を見たら、ちゃんと生きているんだって思えました」
パリーは困ったようにうつむいた。
けれど、その耳は少し赤い。
カルマは、その横顔を見ていた。
手紙は軽い。
けれど、届いた先では軽くない。
誰かの無事。
誰かの声。
誰かを待っていた時間。
そういうものが、一枚の紙に乗っている。
パリーが届けたものは、ただの紙ではなかった。
女性は器を並べながら、ふと手を止めた。
「大都市へ向かうんですよね」
「はい」
カルマが答える。
女性の表情が、少し曇った。
「森の道は、やめてください」
短い言葉だった。
パリーの手が止まる。
シャナイのカードも、指先で静かになった。
「うちの人も、大都市にいます。あの道を通ることもあります。だから、森で人が襲われたなんて聞くと……」
そこで言葉が切れた。
粥の湯気が、ゆっくりと揺れる。
「荷車が見つかったそうです。森の外れで」
女性は、声を落とした。
「助からなかった人もいるって」
助からなかった。
その言葉だけが、やけに重く残った。
温かい朝食。
手紙を受け取った人の安堵。
知らない家で借りた寝床。
そのすぐ隣に、人が死んだ話がある。
カルマは、匙を握る手に少しだけ力を込めた。
「ありがとうございます。森は避けます」
そう答えると、女性は小さく息を吐いた。
「そうしてください。遠回りでも、着く方が大事ですから」
着く方が大事。
何気ない言葉だった。
けれど、その言葉は妙に耳に残った。
朝食を終え、三人は家の前で改めて礼を言った。
女性は戸口まで見送りに来てくれた。手紙は胸元に大事そうに抱えられている。
「お気をつけて。もし大都市で、うちの人に会うことがあれば……」
そこまで言って、女性は少し恥ずかしそうに笑った。
「いえ、さすがに難しいですね」
パリーが首を振った。
「もし会えたら、伝えます。手紙、ちゃんと届きましたって」
女性の顔が、ふっとやわらいだ。
「はい。お願いします」
その一言で、パリーの背筋が少しだけ伸びた。
カルマは何も言わず、それを見ていた。
こういう瞬間のために、パリーは歩いている。
そう思った。
三人が町の中心へ向かうと、ヨスガの通りは昨夜よりも落ち着かなかった。
宿屋の前に、旅人が集まっている。
荷物を抱えた商人が、町の者と低い声で話し込んでいる。
井戸のそばでは、年配の男たちが道の方を指さしていた。
誰も叫んではいない。
それでも、町全体が息を潜めたままざわついている。
町の掲示板の前に、人だかりができていた。
革の胸当てをつけた男が、板切れを打ちつけている。町の見回り役だろう。
板には、太い字で短く書かれていた。
森道、通行を控えよ。
文字の下に、赤い布が結ばれている。
ただの注意ではない。
それだけで、カルマにも分かった。
「森の道はしばらく避けろ。町としても勧められない」
見回り役が言うと、旅人の一人が苛立った声を上げた。
「避けろって言われても、遠回りじゃ二日は余計にかかる。何が出たんだ」
「傷は魔物のものだったそうだ」
人だかりが静かになった。
「爪で裂かれた跡。牙で噛まれた跡。荷の布には、溶けたような穴もあったらしい」
「溶けた?」
「スライムに触れた跡に似ていたそうだ」
パリーが小さく息を呑んだ。
カルマは、掲示板に結ばれた赤い布を見ていた。
朝の風で、頼りなく揺れている。
爪。
牙。
溶けた布。
一つの生き物ではない。
そう思わせるには十分だった。
「魔物の群れか」
誰かが呟いた。
見回り役は、苦い顔をした。
「そう見る者が多い。だが、食料が消えていた」
「食われたのか」
「いや。袋ごとだ。干し肉も、固いパンも、水袋も。散らばっていなかった」
ざわめきが広がる。
「金も消えていた。荷物の奥にしまってあった小銭袋まで、なくなっていたらしい」
今度は、誰もすぐには口を開かなかった。
傷だけ見れば魔物。
盗られ方だけ見れば人。
その二つが、同じ荷車の上に残されていた。
「……噛み合わないですね」
カルマは小さく言った。
シャナイは答えなかった。
指先のカードは、いつの間にか止まっている。
パリーは青ざめた顔で、掲示板を見ていた。
森へ行きたくない。
そう言った時の、彼の顔をカルマは思い出す。
あれは臆病さだけではなかった。
けれど、それを言葉にする必要はない。
パリーは何も言わない。
カルマも言わせない。
ただ、パリーの握った手が小さく震えているのだけが見えた。
掲示板の赤い布が、また揺れる。
カルマは息を吸った。
少し冷たい。
ハルネでは、人の声が近かった。
名前を聞けば、少し近づけた。
言葉を交わせば、何かが繋がった。
けれど、ここには違うものがある。
名前を聞くこともできないもの。
話しかけることもできないもの。
こちらの都合など知らずに、牙を立てるもの。
昨日まで誰かが歩いた道が、今日には命を落とす場所になる。
カルマは、無意識に自分の胸元へ手をやった。
そこにあるはずの紙片を確かめるように。
指先が、服の布だけを掴んだ。
人と人を繋ぐための力。
それが、目の前の赤い布には届かない気がした。
「森へ行く人、ほとんどいないみたいですね」
パリーが言った。
声は小さい。
「普通はそうするよ」
シャナイが答える。
「危ない場所へ、わざわざ行く理由がない」
「でも、荷物を運ぶ人たちは……」
「困るだろうね。時間もかかる。金もかかる」
シャナイはそこで一度言葉を切った。
「けど、死んだらそれまでだ」
その言い方は、軽くなかった。
カルマはシャナイを見た。
「シャナイは、魔物に遭ったことがある?」
「あるよ。できれば会いたくない相手だけどね」
「その時は?」
「逃げる」
迷いのない返事だった。
「見つかる前に道を変える。見つかったら隠れる。隠れられなければ、相手の目を逸らして逃げる」
シャナイはカードを指の間に挟んだ。
「手品師っていうのはね、戦うために手を動かすんじゃない。見ている場所を間違えさせるために動かすんだよ」
「カードも?」
「倒すためじゃない。音を立てる。視線を誘う。足を止める。ほんの少し迷わせる。その間に、こっちは遠くへ行く」
シャナイの声は軽い。
けれど、いつものような冗談ではなかった。
「一人なら、それで済んだ」
カルマは、その言葉に顔を上げた。
「一人なら?」
「今は三人だ。足の速さも、怖がる場所も、守りたい荷物も違う」
シャナイは、ちらりとパリーを見た。
パリーは何も言わなかった。
「だから、一人旅の時より難しい。逃げるにしても、同じ方へ逃げなきゃ意味がない」
「……そうか」
「倒せる相手なら倒すさ。でも、旅で大事なのは勝つことじゃない」
シャナイは、指先でカードを止めた。
「無事に次の町へ着くことだよ」
その言葉は、朝のざわめきの中で、静かにカルマの胸へ落ちた。
勝つことではなく、町に着くこと。
それが、今の三人に必要な考え方だった。
カルマたちは、魔物を倒すために旅をしているわけではない。
森の事件を解決するためにハルネを出たわけでもない。
預かっているのは、剣ではなく手紙だ。
誰かの言葉を、誰かのもとへ届けるために歩いている。
なら、進む道を間違えてはいけない。
「森には入らない」
カルマは言った。
パリーが顔を上げる。
「迂回しよう。遠回りでも、大都市へ向かう。パリーが嫌だと思った道を、わざわざ選ぶ必要はない」
パリーは唇を結び、それから小さくうなずいた。
「……はい」
声には、まだ震えが残っていた。
けれど、逃げることを恥じる声ではなかった。
「いいと思うよ」
シャナイが言った。
「今朝の話を聞いて森に入ろうなんて言い出したら、カルマの後頭部にカードを投げて止めてたところだ」
「それ、結構本気で言ってる?」
「もちろん。角度は選ぶけど」
「そこは優しさに入るのかな」
「俺なりにはね」
ほんの少しだけ、空気が緩んだ。
パリーも小さく息を吐いた。
それだけで十分だった。
三人は荷物をまとめ、ヨスガの町の出口へ向かった。
遠回りの道は、森から離れるように伸びている。
その先に大都市がある。
まだ見たことのない、たくさんの人が行き交う場所。
届けるべき手紙があり、出会うべき人がいる場所。
けれど、背中の向こうには森があった。
爪の跡。
牙の跡。
溶けた布。
消えた食料と金。
魔物の傷跡と、人の手のような盗られ方。
その噛み合わなさは、答えのないまま残っている。
町の出口を抜ける直前、後ろの方で声が上がった。
「戻ったぞ!」
カルマは足を止めた。
宿屋の方から、誰かが走ってくる。
息を切らした若い男が、掲示板の前にいた見回り役へ何かを告げた。
声は遠く、はっきりとは聞こえない。
けれど、次の言葉だけは、風に乗って届いた。
「森から、一人戻ったらしい」
パリーが振り返る。
シャナイのカードが、また指先で止まった。
カルマは森の方角を見た。
森は見えない。
それでも、そこに何かがいるような気がした。
赤い布が、また揺れた。
「カルマさん」
パリーが呼んだ。
小さな声だった。
けれど、パリーの足は前を向いていた。
カルマはうなずいた。
「行こう」
勝つためではない。
無事に、次の町へ着くために。
三人は森を背にして、ヨスガをあとにした。
背後のざわめきは、しばらく消えなかった。
まるで森そのものが、町の中まで入り込んできたみたいに。




