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—エニシ—  作者: 酢橘
第1巻

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第十四話 人参

第十四話 人参


 朝の光が窓から差し込んでいた。


 カルマはゆっくりと目を開く。


 見慣れない天井。


 けれど、もう驚くことはなかった。


 孤児院に来てから、しばらく経つ。


 最初は落ち着かなかったこの部屋も、今では少しだけ慣れていた。


 布団から起き上がり、窓の外を見る。


 子供たちの声が庭から聞こえてきた。


 今日も変わらない朝だ。


「……変わらない、か」


 小さく呟く。


 元いた世界へ帰る方法は分からない。


 そもそも帰れるのかどうかも分からない。


 考えたことがないわけではなかった。


 夜、一人になると考えることもある。


 家族はどうしているだろう。


 職場は。


 友人たちは。


 突然いなくなった自分を、どう思っているだろうか。


 けれど。


 考えたところで答えは出ない。


 帰る方法も見つからない。


 なら今は、前を向くしかなかった。


「まずは、ちゃんとここで暮らしていけるようにならないと」


 誰に言うでもなく呟く。


 知らないことはまだ山ほどある。


 この町のこと。


 この世界のこと。


 人々の暮らし。


 文化。


 当たり前のことさえ、カルマはまだほとんど知らない。


 だからこそ知りたいと思った。


 そして少しずつでも、この町の一員になれたらと思う。


 着替えを済ませたカルマは部屋を出た。


 今日もまた、新しい一日が始まる。


 朝食を終えたカルマは、一人で町へ出ていた。


 空はよく晴れている。


 風も心地よい。


 散歩にはちょうどいい日だった。


 孤児院と町を往復する生活にも慣れてきたが、まだ知らない場所は多い。


 知らない人も多い。


 だからこそ、足は自然と前へ向いた。


「あら、カルマさん」


 聞き覚えのある声がした。


 振り向くと、布を抱えた女性が立っている。


「リサさん」


 布屋のリサだった。


 以前名前を教えてもらった町の人の一人だ。


「今日はお買い物ですか?」


「いえ、散歩みたいなものです」


「ふふ。それならこの辺りは賑やかで楽しいですよ」


 リサはそう言いながら笑った。


 だが、どこか急いでいるようにも見える。


 抱えている布の量もいつもより多い気がした。


「忙しそうですね」


「ええ。もうすぐですから」


「もうすぐ?」


「うふふ。そのうち分かりますよ」


 意味深に笑うと、リサは足早に去っていった。


「そのうち分かる、か」


 気になる言い方だった。


 けれど追いかけるほどでもない。


 カルマはそのまま歩き続けた。


 しばらくすると、道端に大きな木箱が置かれているのが見えた。


 そのそばではガンツが腕を組み、ひと息ついている。


「ああ、カルマか」


「ガンツさん。その木箱、運ぶ途中ですか?」


「おう。ちょっと休憩してたところだ」


 額には汗が浮かんでいる。


「ずいぶん重そうですね」


「重いぞ。今年は特に量が多くてな」


 ガンツは肩を回しながらぼやいた。


 カルマは木箱を見た。


 確かに一人で運ぶには大変そうだ。


「よかったら少し持ちます?」


「お?」


「散歩中ですし、行き先が同じなら問題ありません」


 そう言ってカルマは木箱を持ち上げる。


「ならお願いしようかな」


「これくらいなら大丈夫です」


「ははっ、助かるぜ。じゃあ頼む」


 二人で並んで歩き出す。


「今年は特に量がいるからな」


「今年?」


「なんだ、まだ聞いてないのか」


「何をです?」


 するとガンツは少しだけ驚いた顔をした。


「お前、本当にこの町のこと知らねぇんだな」


「それはもう」


 胸を張って答えることではない。


 だが事実だった。


 ガンツは豪快に笑った。


「キャロットケーキの日だ」


「キャロットケーキの日?」


「ああ。この町じゃ毎年の楽しみだ」


 そう言ったガンツの顔は、どこか誇らしげだった。


「毎年の楽しみ、ですか」


「ああ」


 ガンツは頷いた。


「元々はミリアのところが作り始めたんだよ。うちの畑で採れた人参を使ってな」


「パン屋のミリアさんが?」


「そうだ。最初は小さなもんだったらしいが、今じゃ町中が楽しみにしてる」


 話しているうちに、一軒の店の前へ辿り着く。


 パン屋だった。


 扉の向こうから甘い香りが漂ってくる。


「お、ちょうどいい」


 ガンツが扉を開く。


「ミリアー! 持ってきたぞー!」


 店の奥から聞き覚えのある声が返ってきた。


「助かります!」


 顔を出したのはパン屋のミリアだった。


「あら、カルマさん?」


「少しお手伝いしてました」


「ふふっ、それは助かります」


 木箱を受け取ったミリアは嬉しそうに笑った。


「これ全部、人参ですか?」


「そうですよ」


 木箱の中を覗くと、たくさんの人参が並んでいた。


「こんなに使うんですね」


「キャロットケーキは年に一度ですから」


 ミリアはどこか楽しそうだった。


 その表情を見ているだけで、この日が特別なものなのだと分かる。


「町のみんなが楽しみにしてるんですよ」


「子供たちもですか?」


「もちろんです。孤児院の子たちも毎年楽しみにしています」


 その言葉に、カルマは思わず笑った。


 確かにあの子たちなら大喜びしそうだ。


「なるほど」


「だから失敗できないんです」


 そう言いながらも、ミリアの顔は明るい。


 しばらく話したあと、カルマは店を後にした。


 通りを歩いていると、今度は雑貨屋の前でドーマを見つける。


「こんにちは」


「おお、カルマさん」


 穏やかな老人は目を細めた。


「今日は一人ですか」


「散歩です」


「それは良いことですな」


 ドーマは小さく笑った。


「町は歩いてみると面白いものです」


「そうですね」


 実際、今日は色々なことを知れた。


 名前だけだった人たちのこと。


 町の空気。


 そしてキャロットケーキの日。


「皆さん忙しそうでした」


「はっはっは」


 ドーマは楽しそうに笑う。


「毎年こうなんです」


「そんなに大きな行事なんですね」


「ええ。昔から続いておりますからな」


「子供たちも楽しみにしているでしょうし」


 そう言ってドーマは通りを見渡した。


 カルマもつられて周囲を見る。


 行き交う人たち。


 荷物を運ぶ人。


 店の準備をする人。


 忙しそうではある。


 けれど、どこか楽しそうだった。


 孤児院へ戻る道すがら、カルマは空を見上げる。


 知らない世界。


 知らない町。


 知らない人たち。


 それでも少しずつ知ることが増えている。


 名前を知り。


 顔を知り。


 言葉を交わし。


 同じ楽しみを待つ。


 そんな当たり前のことが、少し嬉しかった。


「キャロットケーキか」


 小さく呟く。


 どんな味なのかはまだ分からない。


 けれど。


 その日が来るのが少し楽しみになっていた。

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