第184話:監査要求と、侵入する影
受付の男の手が、目に見えてガタガタと震えていた。
端末の画面に表示された『悪魔族正規軍二千の完全消滅』という、およそ個人の戦果としては説明のつかない文字列。それが、田舎ギルドの誤作動ではなく、本物の公式魔導記録であることを、男の理性がようやく理解し始めていた。
「二、二千って……そんな、あり得ない……。この魔力の薄いジャージの男が……?」
男の呟きは、静まり返ったロビー全体へと波紋のように広がっていった。
周囲で聞き耳を立てていた金級や銀級の手練れたちが、一斉にカイトへと、あるいはその背後で平然と冷たい麦茶のグラスを傾けているリアとエルザへと、畏怖の混じった視線を向ける。
「……判定。動揺による業務の停滞は非論理的だ。速やかに、バハル・ズラク支部としての『港湾インフラにおける不正利権の監査要求書』の発行手続きへ移行しろ。銀級以上の冒険者には、都市の公益を損なう事象に対して、ギルドを介した公式な是正勧告を行う権利が規定されているはずだ」
カイトは衣服に汚れ一つないジャージの袖を払い、冷徹に事務手続きを促した。
彼の持つ万能の権能『創造魔法』の厳格な【等価交換】のルールにおいて、このような組織的な正当性を得て「不備」を裁くことは、無駄なリソースの消費を抑えるために極めて有効な手順だった。
「あ、は、はい……! ただちに、ただちに上層部、およびギルド長へ報告し、手続きを進めます……!」
先ほどまでの不遜な態度はどこへやら、受付の男は何度も頭を下げながら、奥の執務室へと脱兎のごとく駆け去っていった。
「ふふ、人間って本当に面白いくらいに肩書きと数字に弱いわね。さっきまで私たちを田舎者扱いしていたゴミが、あんなに綺麗に縮こまるなんて」
エルザが本革のソファに深く腰掛けたまま、調律杖を指先で弄んで妖しく微笑んだ。
エアコンで完璧に室温管理されたキャビンから繋がる連結通路のおかげで、彼女の真祖としての肌は、大河都市の不快な湿気に一切晒されることなく、その美しさを保っている。
「カイト様、これで港のご飯を隠していた悪い侯爵様も、ちゃんとお仕置きできますね!」
リアがジャージのポケットから冷たい麦茶のボトルを取り出し、嬉しそうに耳をピコピコと動かした。彼女の爆発的な身体能力は、三日間の完璧な睡眠によって極限まで研ぎ澄まされている。
「……肯定だ。バルトロ侯爵による流通インフラの私物化は、この都市の経済的な壊死を招く。速やかに均質化せねばならない」
カイトが冷淡に言い放った、その時だった。
ギルドの喧騒の死角、高い天井を支える大理石の柱の影から、カイトたちの動向をじっと観察していた「二つの異なる視線」が、それぞれの闇へと動き出した。
一方は、総督府から放たれたバルトロ侯爵直属の騎士団の密偵。
(……まずい、あの男はただの余所者ではない! ガル・ラサームの軍勢を消し去った怪物だ! ただちに侯爵閣下に報告し、騎士団の総力を結集して圧殺せねば、こちらが潰される……!)
そしてもう一方は、悪魔族の軍事帝国『バル・ザザード』の本国から送り込まれた、姿を隠す魔術に長けた隠密工作員。
(……判定通り、我が帝国の二千の同胞を蒸発させたのはあのジャージの男か。魔力反応は極小……だが、あれは底が見えないのではない、世界の法則そのものを上書きしているような不気味さだ。総司令部へ、最上級の警戒を要請する。接触は現時点では不可能――)
利権の闇に怯える現地の権力者と、復讐の機会を窺う軍事帝国の影。
二つの巨大な悪意が、大河都市の裏側でカイトという存在を中心に激しく交錯し始めていた。
だが、カイトはそれらの気配を皮膚に感じながらも、ただの「処理すべきノイズ」として処理し、静かにギルド長室からの呼び出しを待っていた。
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