第126話:宿の休息と、見えない敵の足音
ポート・ルミナスの喧騒から逃れるようにして、カイトたちは予約していた宿『潮騒の止まり木』へと戻ってきた。
この宿は港から少し離れた高台にあり、石造りの壁が夜の冷気を適度に遮ってくれている。
部屋に入り、扉に重い閂を下ろすと、ようやくリアが大きく息を吐き出した。
彼女は部屋の隅にある椅子にどさりと腰を下ろし、自身の肩を回す。
ジャージの『環境適応』機能により、激しい戦闘の後でも汗一つかいていないが、精神的な緊張までは完全には拭えない。
「……お疲れ様、リア。……それと、エルザもな。……今日の制御は、これまでに比べれば合格点だ」
カイトがそう言いながら、部屋の中央にあるテーブルに視線を向けた。
そこには宿の主人が運んできた、焼きたてのパンと魚のスープが並んでいる。
カイトは無表情のまま、その食事に手をかざした。
「……等価交換。……蓄積した魔力の一部を対価に、物質の質を再構成する」
カイトの掌から淡い光がこぼれ、湯気の立つスープに吸い込まれていった。
ただの塩スープだったはずの器から、信じられないほど豊潤なスパイスの香りが立ち上がる。
パンはより白く、ふっくらと焼き直され、添えられた果実には冷たい露が宿った。
彼が魔法で加えたのは、単なる味付けではない。疲労した魔力回路を効率よく癒やすための、現代的な栄養バランスの「最適化」だ。
「わぁ……! ……カイト様の手がかかると、宿のご飯が王宮の料理みたいになります!」
リアが目を輝かせ、さっそくスプーンを手に取る。
一口食べた瞬間に、彼女の尻尾が激しく左右に振れた。
エルザもまた、優雅な手つきでパンを千切り、口に運ぶ。
「……相変わらず、貴方のやることは常識外れね。……でも、この温かさは助かるわ。……呪いを抑え込んだ後の身体には、こういうのが一番効くもの」
エルザはスープを飲み下すと、ふと真剣な表情でカイトを見つめた。
「……ねえ、カイト。……あの入り江にあった『黒い杭』のことだけど。……あれ、ただの魔導具じゃないわよね? ……私の魔力と共鳴したとき、すごく嫌な、冷たい悪意を感じたの。……まるで、誰かが私たちを監視しているような……」
カイトはパンを咀嚼し、静かに飲み込んでから口を開いた。
「……ああ。あれは人工的に作られた、物理法則の書き換え装置だ。……おそらく、この街の物流を止めるか、あるいはあの子のような希少な魔力を持つ個体を効率よく使い潰すために設置されたものだろう」
カイトは、自身の指先に残るあの杭の「感触」を思い出していた。
それは、カイトが持つ「管理」の権能を、歪んだ形で模倣したかのような不気味な技術だった。
もし、この世界の裏側で、カイトと同じように「理」を弄る者がいるのだとしたら――。
「……その杭の出処がどこであれ、俺の管理区域を乱す不備は排除するだけだ。……明日、あの子が目を覚ましたら、詳しく話を聞く必要があるな」
「……そうですね。……あの子、自分の名前も言えないくらい怖がっていましたから……。……明日は、少しでも笑ってくれるといいな」
リアが少し寂しげに、窓の外に広がる夜の港を見つめた。
漆黒のジャージを纏った三人の影が、部屋のランプの光に揺れている。
カイトは食事を終えると、窓の鍵がしっかり閉まっていることを確認し、ベッドの脇に立った。
特別な能力をひけらかすことなく、淡々と、しかし確実に世界の綻びを直していく。
それが、等価交換の無双劇を歩むカイトの、揺るぎない流儀だった。
夜が深まり、ポート・ルミナスの波音が遠くに聞こえる中、三人は束の間の休息に入った。
だが、その静寂の裏側で、新たな悪意が着実に形を成そうとしていることを、今の彼らはまだ知る由もなかった。
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