第118話:境界線上の蒼(あお)
標高二〇〇〇メートルを越える断風の峠。
その頂に辿り着いた瞬間、視界を遮っていた岩壁が左右に割れ、三人の眼前に圧倒的な「蒼」が広がった。
地平線の彼方まで続く、深く、透き通った水の平原。
陽光を反射して煌めくその水面は、内陸のリスタで暮らしていた彼らにとって、世界の概念そのものを塗り替えるほどの衝撃だった。
「……あれが、海。……凄いです、カイト様。あんなに広い場所が、全部水だなんて……」
リアが足を止め、黒いジャージのフードを脱いでその光景に見入る。
狼獣人の鋭い瞳が、潮風に乗って運ばれてくる未知の芳香を、そして寄せては返す波の規則正しい音を捉えていた。
彼女の尻尾は、驚きと感動でピンと垂直に立っている。
「……物理的なリソースとしての水が飽和している状態だ。……あの質量が動くことで、周囲の魔力濃度に一定の周期性を与えている。……これが『潮汐』の正体か」
カイトは感動を口にする代わりに、管理者としての分析を淡々と口にした。
だが、その視線はいつになく遠くを見据えている。
神に奪われた権能の一つ、広域スキャンがあれば、あの海の底に眠る「世界の不備」さえも一瞬で見抜けたはずだ。……今はまだ、この双眸で確かめるしかない。
「……綺麗ね。……三〇〇年も生きてきて、二度目かしら。……一度目はもっと暗くて、呪いのように冷たい海だったけれど。……今のこれは、少しだけ美味しそうに見えるわ」
エルザが杖を地面に突き、満足げに微笑んだ。
彼女の呪われた魔力回路も、この圧倒的な自然の質量を前にしてか、僅かに静まり返っているように見えた。
彼女はジャージのポケットに手を入れ、精製されたばかりのナッツを口に放り込む。
「……浮かれている暇はないぞ。……ここからは下りだ。……ポート・ルミナスへ続く道は、海岸線の断崖を縫うように走っている。……海水の塩分と湿気による『劣化』を考慮し、装備のパラメータを微調整する」
カイトは二人のジャージに手をかざし、僅かな感謝ポイントを消費して『耐塩害・防湿』の定義を上書きした。
漆黒の生地が微かに脈動し、潮風から身を守るための目に見えない皮膜が形成される。
「……下り道はリアが先頭だ。……『身体強化』の出力を二割削り、その分を『平衡感覚』の維持に回す。……滑落のリスクを最小限にしろ」
「了解しました、カイト様! ……行きます!」
リアは弾かれたように下り坂を駆け出した。
以前のような闇雲な突進ではない。カイトから与えられた魔法の効果を全身で咀嚼し、足裏に伝わる岩の感触、重心の移動、そして風の抵抗を完璧に計算した、舞うような足取りだ。
回避タンクとしての彼女の練度は、この過酷な移動そのものを通じて、確実に向上していた。
一行が峠を下り、海岸線へと近づくにつれ、空気は次第に生温かさを増していく。
だが、ジャージ内部の温度調整機能のおかげで、三人の肌は常にサラリと乾いた状態を保っていた。
道中、岩場に巣食う『潮吹き鳥』の群れが襲いかかってくることもあったが、カイトの『グラビティ』による撃墜と、リアの迎撃、そしてエルザの精密な魔法の火力の前に、それらは単なる「ポイント稼ぎ」の対象でしかなかった。
数刻後。
崖下の影に、白い石造りの建物が密集する港街が姿を現した。
「……ポート・ルミナス。……目的地だ」
カイトの言葉に、リアとエルザが足を止めて街を見下ろす。
数多の帆船が揺れる港。行き交う人々。そして、潮の香りに混ざって漂ってくる、魚介を焼く香ばしい匂い。
「……カイト様、あそこに行けば、もっとたくさんの『困っている人』がいますか?」
リアが期待を込めた瞳で問いかける。
彼女にとって、人助けは主の力を取り戻すための「感謝ポイント」を集める行為であると同時に、カイトが誰かに認められるための大切な儀式でもあった。
「……人口密度が高い場所には、必ず管理の行き届かない不備が発生する。……効率よく回収していくぞ」
カイトは愛銃の感触を確かめ、一歩を踏み出した。
潮騒の街、ポート・ルミナス。
漆黒のジャージを纏った異質な三人の来訪を、海風だけが静かに迎え入れていた。
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