第116話:潮騒の予感と旅路の策定
リスタの街を囲む平原の空気は、数日ほど前から僅かにその色を変えていた。
内陸特有の乾いた風の中に、湿り気を帯びた塩の残り香が混ざり始める。
宿のテラス席。カイトは無機質な手つきで、広げた地図を指先でなぞっていた。
彼が見つめているのは、リスタから南西へ数日間、険しい街道を抜けた先にある港湾都市「ポート・ルミナス」へ続く路だ。
「……リスタ周辺の魔力濃度は安定した。これ以上のポイント稼ぎは、時間対効果が薄い。……次のリソース確保地点を、海の地方へ設定する」
カイトの低い声に、隣で装備の最終点検をしていたリアが、ピンと耳を立てて反応した。
彼女の纏う漆黒のジャージは、今朝も自動洗浄機能によって深みのある黒を保っている。
狼獣人の鋭い嗅覚は、既にカイトが感じ取った以上の「海の気配」を捉えていた。
「海……ですか。私、一度も見たことがありません。……大きな、塩辛い湖のようなものだと聞いていますが」
「……厳密には、世界の循環を司る巨大な魔力溜まりだ。……海水の塩分は、魔力の不純物が結晶化したものとも言える。……そこには陸上とは異なる生態系と、それに伴う特有の『不備』が存在するはずだ」
カイトは淡々と説明しながら、自身の「管理者画面」を操作する。
蓄積された感謝ポイントの一部を、彼は迷うことなく『身体強化』の持続時間延長と、『グラビティ』の有効範囲の僅かな拡大へと振り分けた。
さらに、ポート・ルミナスへ至る険しい旅路を考慮し、新たな権能の解放を検討する。
「……対価、および蓄積ポイントを消費。……権能『環境適応・微』をパッシブ・スキルとして登録しろ。……三人分のジャージに、気温・湿度の自動調整パラメータを追加。……これで、海辺の過酷な気候下でもパフォーマンスを維持できる」
その瞬間、リアと、遅れて席に着いたエルザのジャージが、一瞬だけ青白い光を帯びて収束した。
「……あら。なんだか、急に風が涼しく感じられるようになったわね。……貴方、また勝手に私の服をいじったのかしら?」
エルザが不満げに、だがどこか嬉しそうに杖をテーブルに置く。
彼女の魔力回路の呪いは、カイトの適切な管理と、杖を通じた小規模な魔力放射の反復練習によって、以前よりも「牙」を隠すようになっていた。
「……効率を追求した結果だ。……ポート・ルミナスへは、魔物の出る山道を越えなければならない。……不快な汗でお前の魔法の集中力が乱れるのを防いだだけだ」
「……ふん。相変わらず可愛げのない言い分ね。……でも、海には美味しい魚と、高価な酒があるって聞くわ。……三〇〇年生きてきたけれど、たまには環境を変えるのも悪くないわね」
エルザはジャージのポケットに手を入れ、そこから自動精製されたばかりのドライフルーツを取り出した。
一日二食。この機能があるおかげで、彼らは大量の食糧を馬車に積み込む必要がない。その分、三人は身軽に、そして誰よりも速く移動することができた。
「出発するぞ。……リア、先行して索敵を行え。……身体強化の魔法は、街道に出た瞬間から常時展開する。……負荷がかかったらすぐに言え」
「了解しました、カイト様! ……未知の場所、精一杯頑張ります!」
リアは元気よく頷き、尻尾を大きく振った。
彼女にとって、カイトについていくことが世界のすべてであり、その行き先が海であろうと奈落であろうと、そこに不安はなかった。
リスタの街の門を抜けると、道は緩やかな登り坂に差し掛かる。
揃いの黒装束を纏った三人の姿は、行き交う商人たちの目には奇妙に映ったが、彼らが発する「統制された雰囲気」に、誰もが道を空けていった。
カイトは歩きながら、頭の中で既にポート・ルミナスの構造をシミュレーションしていた。
神に奪われた権能。
いまだ解けぬエルザの呪い。
そして、成長を続けるリアの回避。
潮風が吹き抜けるその場所で、どのような「感謝」が待ち受けているのか。
カイトの指先が、無意識に愛銃のグリップに触れる。
「……判定、良好。……全システム、稼働に異常なし。……これより、長距離遷移を開始する」
管理者の宣言と共に、彼らの足取りは加速した。
リスタの街が背後で小さくなっていく。
後に「蒼の海岸事変」と呼ばれることになる、ブルームーンの長い旅の第一歩が、ここに踏み出された。
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