8.月夜の会話
次の夜。冷え込む暗い空気の中で、フィスは一冊の本を抱えて甲板に佇む。その脇にはシエラとアデーレも控えている。
フィスが抱えているのはこれまでのことを書き記した日記だ。船に乗ってまもなく、シエラの提案でティシュアへの気持ちを綴った日記である。
フィスにとって気持ちの全てが詰まった日記は、ある意味ティシュアに関する本として成立するかもしれない。それはつまりティシュアが散逸させられるということでもある。
「フィスさん、大丈夫ですか?」
ずっと本を抱えたままのフィスに、シエラが気遣うように声をかけた。
フィスはこくんと頷くが、やはり不安なのか日記を抱える指先を震わせている。
「私どもがついておりますから、お好きなようにお話しください。精一杯フォローはさせていただきますよ」
アデーレもフィスの緊張を解くように励ましてくれる。フィスは小さく返事をした後、日記を抱えなおした。
夜風の冷たい中待っていれば、甲板の出入り口が開いてティシュアが姿を現した。フィスの瞳が見開かれる。
ティシュアは少し困ったような表情で、フィスとシエラたちに向かい合った。
「伝言の通りにはしたけど、シエラさんたちも一緒なんだ」
「っ……この人たちも一緒に、あなたと話がしたいの」
フィスは日記をぎゅっと抱き抱えたまま言った。ティシュアは暗い中静かに視線を落として、それからフィスを見つめる。
「渡したいもの、っていうのは方便でいいかな」
「それは、嘘じゃないよ。今持ってる日記。話によってだけどあなたに渡すかもしれない」
「個人が集積した知識、経験だね。僕のこと、書いてるのかな」
フィスが黙ってしまう姿を見て、ティシュアは困り顔のまま微笑む。
「それを渡してもらえたら、もっと早く君の気持ちを変えられる」
「いや……」
ふるふるとフィスが首を振る。
「ティシュアと話したいの。このままじゃない、別の形になれないかって」
「残念だけど、君の思う通りにはできないかな。僕は還らなきゃならないし、それは変えられない。だから僕から心を離してっていってるだろ?」
何度も説明している、とティシュアが言う中、シエラは口を挟んだ。
「ティシュアさん。差し出がましいのはわかっているんですが、フィスさんには辛い選択だって、私は思います」
ティシュアがシエラに目を向ける。シエラは臆することなく続けた。
「好きな人をいきなり嫌いになんかなれないし、忘れることだってできません。離れることが変えられないなら、せめて納得のいく形でお別れって、できないんですか」
シエラの訴えに、ティシュアは顔を曇らせる。
「好きなまま別れてしまったら、ずっと寂しくなるでしょう。ずっと恋しくなるでしょう。僕はもう戻ってこれないのに、ずっと縛り付けてしまうのは、嫌なんです」
「だからと言って嫌ってくれなんて、それはティシュアさんの勝手じゃないですか?」
「勝手だとしても、ずっと縛るより捨ててもらった方がフィスにとってもいいって思うんです」
いくら引きずってほしくないからといっても、いきなり嫌いにもなれるわけない。忘れることはおろか、捨てることだってフィスにはできないだろう。
そこまでして残ることを拒むティシュアに、シエラは何を返せばいいかわからなくなる。
「でも、それでも、あなたの存在はフィスさんの心に良いものとして残ってほしい、って、私は思います」
だとしても、シエラはことばを紡ぐのを諦めたくなかった。
きっと話せば通じ合えると思っているから、全て解決しなくても、きっと今よりよい結論が出せるかもしれないから、それを信じているからだった。
「私、も……」
シエラの訴えを聞いていたフィスが口を開く。
「ティシュアのことは嫌いになれないし、忘れるのも、捨てることだってできない。私の心に残しておくのは、いけないことなの?」
「でもそれじゃ君がずっと辛くなる」
「辛くならないよ」
ティシュアの言葉を押し除けて、フィスが言う。
「むしろ、ティシュアのこと嫌いになる方が、私は辛いよ」
ぎゅっと日記を抱きしめて、フィスは続けた。
「もう会えなくなるのは、辛いし嫌。でも、それでも避けられないのなら、シエラが言うみたいに、ティシュアのこと好きなまま、記憶に残しておきたいの」
自分の好意を守るようにフィスは日記を固く抱く。
「……でも」
ふっと、フィスが漏らす。
「ティシュアが辛くなるなら、私もティシュアに辛い思いはしてほしくない」
そして、抱きしめていた日記をそっとティシュアに差し出す。
「あなたが辛くならないために、私の気持ちが必要なら、持っていってもいいよ」
「フィスさん……」
フィスの行動に、シエラはかける言葉を見つけられない。
ティシュアは、フィスの差し出す日記に手を伸ばそうとする。だが、手に取る前にぎゅっと拳を握った。
「……それじゃあ、君を苦しめたくない僕と同じじゃないか」
相手のために気持ちを蔑ろにする。慮っているようで、その実気持ちを踏み躙っている。
ティシュアは拳を握ったまま首を振った。
「ねえ、ティシュア。ティシュアは私がティシュアを嫌いになっても、ティシュアは私のこと、好きだったの?」
うなだれるティシュアに、フィスがそっと尋ねる。そばで頬を撫でるような問いに、ティシュアはく、と息を漏らした。
「君を好きになったこと、後悔してるって言ったよ。でも、そんなことどうでもいいくらいには君が好きだった。影に溶けても、僕がなくなっても、好きだって気持ちはずっと残しておきたいくらいに」
だが、きっとそれはできない。そうティシュアは続ける。
影として消えれば自我も何も残らない。抱えてきた記憶も、何もかもが闇に溶ける。なくなってしまうのだ。
「消えてしまうなら全部消してしまいたかったんだ。君が僕を好きなことも、僕が君を好きなことも」
フィスはティシュアの吐露を黙って聞いていた。そして、顔を覆うティシュアにそっと近づくと、静かにその背を抱きしめる。
「うん……うん。私、消えるなんてことないから、よくはわからないけど。でも、ティシュア、怖かったんだね」
全部なくしてしまうことが、怖かった。そうティシュアは言っているように見えた。
ティシュアはフィスに抱きつき、息を詰まらせる。
かすかな嗚咽が、聞こえた。




