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汐待島で、君と夏を渡る  作者: 碓氷さゆ


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2/27

第2話 東京から来た少年

「……どこ行きたいん?」

 声をかけると、少年はびくりと肩を揺らした。

 顔を上げた拍子に、海風で少し長めの前髪が揺れる。近くで見ると、夏帆と同じくらいの年齢に見えた。大人びているわけではないけれど、落ち着いた目をしている。

 白いシャツに、黒いリュック。首から下げたカメラは、観光客が気軽に持つスマホとは違って、ちゃんと手入れされているものに見えた。

 少年は一瞬だけ目を瞬かせて、それから少し困ったように笑った。

「え?」

「さっきから、地図見よるけん。迷っとるんかなって」

「あ……うん。たぶん、迷ってる」

「たぶん?」

 夏帆が聞き返すと、少年は自分でも少しおかしいと思ったのか、視線を手元に落とした。

「目的地はあるんだけど、そこが今もあるのかどうかわからなくて」

「なにそれ」

「変だよね」

「うん。ちょっと」

 正直に答えると、少年は小さく息を吐くように笑った。

 観光で来た人なら、道の名前か施設名を言う。フェリー乗り場、駅、商店街、港。たいていはそのどれかだ。

 でも、少年が困っている理由は、そういう単純なものではなさそうだった。

 夏帆は、少年の手元に目を向ける。

 スマホの地図アプリ。

 もう片方の手には、古い写真らしきもの。

 スマホの画面と写真を見比べているから、なおさら妙だった。今の地図で、昔のどこかを探しているように見えた。

「この辺、初めて?」

「うん。今日来たばかり」

「観光?」

「半分は、そうかもしれない」

「半分?」

「祖父の写真を調べたくて」

 祖父。

 その言葉に、夏帆は少しだけ力を抜いた。

 もっと怪しい理由を言われたらどうしようかと思っていたけれど、少なくとも今のところ、目の前の少年は悪い人には見えない。

 ただ、知らない町に一人で来て、古い写真とスマホを見比べているのは、やっぱり少し変わっている。

「おじいちゃんの写真?」

「うん。遺品の中にあったんだ」

 少年は、写真を落とさないように両手で持ち直した。

 その仕草が、妙に丁寧だった。

 ただの紙切れではなく、大切なものを扱う手つきだった。

「たぶん、この辺で撮られたものだと思う。でも、場所がわからなくて」

「八幡浜の?」

「たぶん」

「たぶん多いね」

「ごめん。確かなことが少なくて」

 少年は素直に謝った。

 夏帆は少しだけ戸惑う。別に謝らせたかったわけではなかった。

「いや、責めてないけど」

「うん」

「名前は?」

「あ、朝倉湊」

「朝倉……」

「湊。さんずいの湊」

「湊くん」

 口に出してから、少し早かったかなと思った。

 でも同い年くらいの相手に、名字だけで呼ぶのも少し硬い。少年――湊は、特に気にした様子もなく頷いた。

「君は?」

「篠原夏帆」

「篠原さん」

 標準語の響きで呼ばれると、自分の名前なのに少しよそよそしく聞こえた。

 夏帆は港の方から吹いてくる風に目を細める。

「湊くん、東京から来たん?」

「うん」

「一人で?」

「うん」

「高校生よね?」

「高二」

「私も高二」

「そうなんだ」

 湊は少しだけ表情を緩めた。

 同い年だとわかって、夏帆もほんの少し警戒を解く。

 とはいえ、東京から一人で八幡浜まで来る高校生は、やっぱり珍しい。

「東京から、わざわざ?」

「うん。祖父の写真を見つけてから、ずっと気になってて。夏休みに入ったから、来た」

「行動力すごいね」

「そうかな」

「普通は、写真一枚で愛媛まで来んと思う」

 夏帆が言うと、湊は写真に視線を落とした。

「たぶん、普通じゃないくらい気になったんだと思う」

 その言い方は静かだった。

 けれど、軽くはなかった。

 夏帆は、からかうのをやめた。

 湊が写真を大切そうに持っている理由が、少しだけわかった気がした。

「おじいちゃん、写真好きだったん?」

「うん。古いカメラを何台も持ってた。俺が小さい頃も、よく写真を見せてくれた」

「湊くんも写真好きなんや」

「好き。祖父の影響だと思う」

 湊は、首から下げているカメラに軽く触れた。

 それは自然な仕草で、彼の一部みたいに見えた。

「でも、祖父はその写真のことは何も話してなかった。家族も知らなかったみたいで」

「秘密の写真ってこと?」

「秘密、だったのかもしれない」

 そう言ってから、湊は少しだけ眉を寄せた。

「でも、隠していたにしては、捨てずに残していた。だから、余計に気になって」

 夏帆は何も言えなかった。

 祖父が大切に残していた写真。

 でも誰にも話さなかった写真。

 そう聞くと、その一枚に何かが閉じ込められているような気がした。

 港のざわめきが、少しだけ遠くなる。

 遠くで船のエンジン音がした。待合所の前でアイスを食べていた子どもが、母親に呼ばれて小走りで戻っていく。

 夏帆は、湊の手元を見た。

「その写真、見てもいい?」

「うん」

 湊はすぐに頷いた。

 ただ、写真を差し出す手は慎重だった。

 夏帆は両手で受け取る。

 古い写真だった。

 角が少し丸くなっていて、紙の色も今の写真とは違う。時間が染み込んだみたいな、淡く褪せた色をしている。

 写っていたのは、白い灯台だった。

 海を見下ろすような場所に立つ、小さな白い灯台。背景には、夏の空と海がある。光が強く、写真全体が少し眩しい。

 そして、灯台の下に少女が立っていた。

 十七歳くらいだろうか。

 夏帆と同じくらいの年齢に見える。

 黒っぽい髪。日に焼けた頬。少し照れたように笑っているけれど、目元にはどこか勝ち気な強さがあった。

 写真の中の少女は、こちらを見ていた。

 カメラを向けた誰かに向かって、笑っている。

「これ……」

 夏帆は、写真から目を離せなかった。

 ただ古い写真を見ているだけなのに、胸の奥が小さくざわつく。

 この少女を知っているわけではない。

 知っているはずがない。

 でも、どこかで見たことがある気がした。

「祖父が撮ったものだと思う」

 湊が静かに言った。

「この女の子は?」

「わからない。祖父は何も話してなかったから」

「家族の人も?」

「うん。父も母も知らないって」

「じゃあ、湊くんのおじいちゃんが若い頃に撮った写真?」

「たぶん。祖父の若い頃のアルバムに挟まってたから」

 夏帆はもう一度、写真の少女を見た。

 灯台の白が、夏の光を受けてぼんやり明るい。

 少女の笑顔は、はっきりしているようで、どこか遠い。

 何十年も前の夏が、薄い紙の中に閉じ込められている。

「この灯台を探しに来たん?」

「うん。それと、この写真の場所」

「場所、八幡浜なん?」

「そこがわからない。調べたら、八幡浜方面か、宇和海の島のどこかじゃないかって」

「宇和海の島……」

 夏帆は口の中で繰り返した。

 言葉の端に、何かがひっかかる。

 祖母の声。

 船。

 白い灯台。

 幼い頃に聞いたような島の名前。

 けれど、まだ形にならない。

 湊はリュックから透明な保護袋を取り出すと、写真の裏も見せてくれた。

「裏に、これが書いてあった」

 夏帆は写真を裏返した。

 古い紙の裏に、少し癖のある字が残っていた。

 潮が引く夜、灯台の下で待つ

 夏帆は、その文字を目で追った。

 潮が引く夜。

 灯台の下。

 待つ。

 短い言葉なのに、ただのメモには見えなかった。

 誰かに向けた言葉のようだった。

 約束。

 そう思った瞬間、背中のあたりが少しだけ冷える。

「これ……約束みたいやね」

「俺も、そう思った」

 湊の声は低かった。

「祖父の字だと思う。昔の手帳に似た字があったから」

「おじいちゃんが、この写真の女の子に?」

「わからない。でも、もしそうなら、ここで何か約束したんだと思う」

 夏帆は、もう一度表の写真を見た。

 白い灯台の下で笑う少女。

 その笑顔が、さっきよりも少しだけ切なく見えた。

 待つ、と書かれた写真。

 でも、何を待っていたのだろう。

 誰が待っていたのだろう。

 その約束は、果たされたのだろうか。

 夏帆は、写真を湊に返そうとして、ふと手を止めた。

「この島の名前、何か手がかりあるん?」

「調べてたら、一つだけ気になる名前が出てきた」

「名前?」

 湊は、夏帆を見た。

 その目が、さっきよりも少し真剣になる。

「汐待島って、知ってる?」

 港の音が、一瞬だけ遠くなった気がした。

 汐待島。

 その名前を聞いた瞬間、夏帆の中で何かが揺れた。

 知らない名前ではない。

 でも、知っているとすぐに言えるほど、はっきりした記憶でもない。

 しおまちじま。

 音だけが先に胸の奥へ落ちる。

 祖母の声。

 夏の光。

 船の揺れ。

 白いもの。

 灯台。

 どれも断片で、つかもうとすると指の間からこぼれていく。

「……なんで、その名前知っとるん」

 夏帆の声は、自分で思ったより低くなった。

 湊は少し驚いたように目を見開く。

「知ってるの?」

「知っとる……気がする」

「気がする?」

「小さい頃、聞いたことあるかもしれん」

 夏帆は自分の記憶を探った。

 汐待島。

 祖母の家。

 港。

 どこかへ行く船。

 幼い自分は、祖母に手を引かれていた気がする。

 でもそれが本当の記憶なのか、今この写真を見たせいで作られた想像なのか、わからなかった。

「俺、調べてたらその名前にたどり着いたんだ。でも、詳しい場所がうまく出てこなくて」

「地図にないん?」

「今の地図だと、はっきり見つからない。似た地名とか、昔の資料みたいなのはあったけど」

「架空の島みたい」

「そう思った。でも、祖父の写真に写っている灯台と、昔の記録に出てきた白い灯台が似ていて」

「白い灯台……」

 夏帆は、写真に写る灯台を見た。

 胸の奥がまたざわつく。

 白い灯台。

 見たことがある気がする。

 でも、どこで。

 いつ。

 誰と。

 思い出そうとすると、祖母の声が邪魔をする。

 帰れんなるがよ。

 小さい頃、たしかにそんな声を聞いた。

 港の近くか、船の近くか、それとも夢の中か。

 夏帆は軽く首を振った。

「ごめん。はっきりは覚えてない」

「いや、反応してくれただけでも助かる。ここまで来ても、誰に聞けばいいのかわからなかったから」

 湊は本当にほっとしたように言った。

 その顔を見て、夏帆は少し困った。

 そんなに期待されても、今の自分に答えられることは多くない。

 八幡浜に住んでいたのは幼い頃だけだし、汐待島という名前も、覚えていると言うには頼りない。

 それなのに、写真の少女と、汐待島という名前は、夏帆の中のどこかを確かに叩いていた。

「おばあちゃんに聞いたら、わかるかもしれん」

「おばあちゃん?」

「うん。私のおばあちゃん。八幡浜にずっとおるけん」

 そう言いながら、夏帆はもう一度写真を見た。

 白い灯台。

 夏の海。

 笑っている少女。

 さっきから、胸の中で何度も何度も同じ感覚が浮かんでは沈んでいる。

 誰かに似ている。

 誰だろう。

 近所の人。

 昔の知り合い。

 親戚。

 いや、もっと近い。

 夏帆は、写真の少女の目元をじっと見つめた。

 少し勝ち気そうな目。

 笑う時に、目尻がやわらかく下がるところ。

 口元の形。

 今の澪子は、穏やかに笑う。

 でも、笑った時の目元は、同じだった。

 若い頃の写真なんて、夏帆はあまり見たことがない。祖母は祖母で、最初から祖母だったような気がしていた。

 けれど、そんなはずはない。

 祖母にも、十七歳の夏があった。

 夏帆と同じくらいの年齢で、海の近くを歩いて、誰かに写真を撮られて、こんなふうに笑っていた時があったのかもしれない。

 そう思った瞬間、写真の中の少女が急に近くなった。

「この人……」

 夏帆が呟くと、湊が静かに待った。

「知ってる?」

「わからん。けど」

「けど?」

「おばあちゃんに、似とる気がする」

「おばあちゃん?」

「うん。私の、おばあちゃん」

 口に出した瞬間、夏帆自身が一番驚いた。

 写真の中の少女と、今朝「よう来たがねぇ」と迎えてくれた祖母が、一本の線で繋がる。

 白髪を後ろでまとめた澪子。

 麦茶を注いでくれた澪子。

 片付け途中の段ボールの横で笑っていた澪子。

 その祖母が、写真の中では夏の光の下に立っている。

 知らない顔で。

 でも、たしかに似ている顔で。

 湊は写真を見つめ、それから夏帆を見た。

「本当に?」

「わからんよ。似とる気がするだけ」

「でも、もしそうなら」

「うん」

 夏帆は、写真を持つ指に少し力を込めた。

 もしこれが若い頃の澪子なら。

 湊の祖父が撮った写真に写っている少女が、夏帆の祖母なら。

 それは、ただの古い写真ではなくなる。

 祖母が話したことのない昔。

 祖母の知らない顔。

 そして、湊の祖父が誰にも話さず残していた夏。

 それが、今ここで繋がってしまう。

 夏帆は、少し怖くなった。

 勝手に触れてはいけないものに触れているような気がした。

 でも、見なかったことにはできない。

「見せても、大丈夫かな」

 夏帆が呟くと、湊は少しだけ表情を引き締めた。

「無理にとは言わないよ」

「うん」

「俺も、知らない人の昔のことに勝手に踏み込むのは、よくないと思う」

 その言葉で、夏帆は湊を見た。

 湊は本気でそう思っているようだった。

 祖父の写真を調べたくて東京から来た。

 でも、自分の知りたい気持ちだけで誰かの記憶を乱していいとは思っていない。

 その慎重さが、少しだけ信じられる気がした。

「でも、このまま知らんふりするのも、なんか違うけん」

 夏帆は写真を見下ろした。

「おばあちゃんが嫌がったら、それ以上聞かん。でも、まず見せてみる」

「いいの?」

「わからん」

 正直に言うと、湊は少し目を丸くした。

 夏帆は苦笑する。

「でも、聞かんと、もっとわからんままやろ」

「それは、そうだね」

「湊くんも来る?」

「俺が?」

「写真の持ち主、湊くんやし」

「でも、急に知らない家に行くのは」

「おばあちゃん、たぶんお茶出すよ」

「そういう問題?」

「半分くらい」

 夏帆がそう言うと、湊はほんの少し笑った。

 その笑い方は、さっきまでより少しだけ年相応だった。

 夏帆は写真を丁寧に湊へ返す。

 湊はそれを、また保護袋にしまった。

 その仕草を見ながら、夏帆は思う。

 この人は、写真を雑に扱わない。

 たぶん、写っている人のことも雑には扱わない。

 それなら、祖母に会わせても大丈夫かもしれない。

「ここから、遠い?」

 湊が尋ねた。

「おばあちゃん家?」

「うん」

「歩いて行けるよ。ちょっと坂あるけど」

「行ってもいいなら」

「うん。たぶん」

「たぶん?」

「私も確かなこと少ないけん、おあいこ」

 湊は少しだけ困ったように笑った。

 二人の間を、海風が通り抜ける。

 フェリー乗り場の時刻表が、風に揺れてかすかに音を立てた。

 夏帆は港の方を振り返る。

 水面の光は、さっきよりも少しだけ傾いている。

 祖母に頼まれた封筒は、まだバッグの中に入っている。

 用事を先に済ませるべきだろうか。

 でも、写真のことを抱えたまま普通に届け物をする気分にはなれなかった。

 澪子は今、家にいる。

 古いアルバムや祭り道具の段ボールのそばで、麦茶を片付けているかもしれない。

 その祖母に、夏帆はこれから、知らない少年が持ってきた古い写真を見せる。

 そこに写っている少女が、あなたかもしれないと聞く。

 考えるだけで、胸の奥が落ち着かなくなる。

 けれど、もう見てしまった。

 写真の中の少女は、夏の光の中で笑っていた。

 夏帆の知らない、祖母の顔で。


「これ……おばあちゃんかもしれん」


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