第104話「背教<弟」
「置物だと? それは、お前の背後にある、その不気味な石像の方だろう」
「……何の話ですか? 的外れにも程が——」
ネロが呆れたようにため息をつこうとした、その瞬間だった。
「イデア様、どうかお許しを」
ケレンは腰に帯びていた巨大な大剣を引き抜くと、ネロではなく、彼の背後にある『女神イデアの石像』めがけて渾身の力で投げ飛ばした。
ネロの表情から、完璧に張り付いていたポーカーフェイスが剥がれ落ちる。
「この……背教徒めッ!」
焦りと怒りが露わになったネロの叫びも虚しく、大剣は石像の胸元に深々と突き刺さった。
ピキッ、という硬質な音が響く。
大剣が刺さった箇所からクモの巣のように亀裂が広がり、やがて空間全体にヒビが走った。ネロの絶対領域である”霊這堂”は、システムの中枢を破壊されたことで、甲高い音を立てて完全に崩壊した。
◇◆◇
場面は現実の魔王城の廊下へと戻る。
先ほど弾き出され、一人困惑していたミリアの正面の空間が割れ、そこから満身創痍のケレンと、表情を歪ませたネロが現れた。
「ミリア。至急、司令部の元に報告へ行け」
血まみれのケレンは、振り返ることなくミリアに告げた。
「ゾーティア隊は壊滅し、自分のみが生き残ったとな」
「……分かりました」
ミリアが踵を返し、撤退しようとしたその時。彼女の足元めがけて、藤色の凶悪な魔法攻撃が飛来した。
「きゃあっ!?」
間一髪で飛び退き、攻撃をかわしてみせたミリアを、ネロが憎悪に満ちた目で睨みつけている。
「行かせる訳が無いじゃないですか。そこの女は、肉親を痛め付けた事を、心底何とも思っていない。自分が傷つけられるのを恐れ、ただ自己保身のために虚偽の御託を並べただけです」
ネロはギリッと歯ぎしりをした。
「文系とは便利なものだ。そういった妄想や虚言が、呼吸をするように次々と浮かんでくるのだから」
「……分かっているはずだ、ネロ。私は、駄々とした長話が実に嫌いだと」
ケレンが静かに遮る。
「兄様は何も分かっていない! 私のことも、何も分かってくれてないじゃないですか!」
その表情と声の震えが示す通り、ネロの言葉遣いから先ほどまでの不気味な余裕の色が完全に消え去っていた。システムのバグを気取るのではなく、一人の見捨てられた「弟」としての感情が剥き出しになっている。
「ああ。お前の言う通りだ。私は、何も分かってやれなかった」
ケレンは悲痛な決意を顔に張り付けた。
「だから——」
ケレンは、武器も持たずにネロの方へと真っ直ぐに突進した。
「またそれですか。その単調な突撃、もう飽き飽きしましたよ!」
ネロが魔法を放とうと手を翳す。
だが、ケレンの目的は「攻撃」ではなかった。
ぎゅっ。
ケレンは放たれる魔力をその身で受けながらも、ネロの身体を強く、強く抱きしめたのだ。
「私はお前の兄として、お前の罪も、悲しみも、全てを受け入れる。今度こそ、しっかりとお前と向き合ってみる」
「兄様、まさか……!?」
自身を抱きすくめる腕の力強さと、兄の体温。そしてその真意に気づき、ネロが初めて恐怖に目を見開いた。
ケレンは、全てを悟ったような、どこか穏やかな表情をしてみせた。
「言っただろう。お前に、引導を渡すと」
ケレンは残された最後の魔力を振り絞り、耳元で小声で詠唱を紡いだ。
床に転がっていた大剣の刃先が、魔力に引かれて宙に浮き上がる。そして、背後から猛スピードで飛来した刃は、二人を貫くようにして、ケレンとネロの心臓を同時に刺し貫いた。
「がはっ……」
「兄、さ……」
鮮血が二人の身体を濡らし、床へと崩れ落ちていく。
薄れゆく意識の中で、ケレンの脳裏に駆け巡っていく走馬灯。そこにあったのは、無邪気に笑っていた頃の幼い弟の姿だった。
ケレンは、最後まで弟を深く愛し、思っていたのだ。
「……っ!」
ミリアは唇を噛み締め、走り出した。
冷たい石の床で亡骸となっていく兄弟の姿から、逃げるように目を背けて。
せめて、全てを犠牲にした隊長の最後の命令を遂行するために。彼女は涙を拭い、ひたすらに司令部へと向かって駆けた。




