第102話「妄想に怯えて」
「何よ……どうして……」
ゾーティア隊・副隊長ミリア=アードストールは、血だまりの広がる床に力なく座り込んでいた。
立とうと思っても、立てない。圧倒的な恐怖で足がすくみ、膝が震えて言うことを聞かなかったのだ。
「ウリス……?」
目の前で粉々に散った同僚の名を呼ぶが、当然返事はない。
周囲を見渡せば、他の聖騎士たちは這い出てきた真っ黒な怨念の影と必死に戦っているか、あるいは既に光に呑まれ、跡形もなく消え去った者ばかりだ。
地獄絵図と化した大聖堂の中で、ミリアの脳裏に、ふとある最悪な考えがよぎってしまった。
『もし、あいつを殺していたら?』
魔王軍の幹部を屠り、四天王すら撃破してしまう、あの憎たらしい灰色の獣。
もし、過去に彼を自分の手で直接殺めていて、今この場にその怨念が具現化して現れていたとしたら——。
三十路を過ぎた彼女とて、それがどれほど恐ろしい事態を引き起こすか、想像できない訳ではない。
『”代価の光”に触れれば、彼らの想いに比例して、それ相応の代価を私がいただく事になるんですよ』
遠くから響くネロの愉悦に満ちた声が、ミリアの背筋を氷のように凍らせる。
そして、まるで死を目前にした走馬灯のように、過去の忌まわしい出来事がフラッシュバックした。
——ある時。城の中庭にある噴水に腰かけていたジルを、背後から突き飛ばし、水浸しにした事。
「お前みたいな獣は、水浴びしてる方がお似合いよ」と、冷たく見下ろして笑った。
——またある時。真っ暗なクローゼットにジルを閉じ込めて、食事も与えず二日間も放置した事。
「理系に生まれたお前が悪いのよ」と、扉越しに罵声を浴びせた。
——そして。 「もう顔も見たくないわ。出て行って。二度と王家だなんて名乗らないでね」
父を触発させ、一方的に王城から追放し、彼から全てを奪った事。
あれだけ酷い事を平然としていたのだ。少し歯車が狂っていれば、彼を殺し、亡き者にすることだってやりかねなかった。
「そうね……もし殺していたら、私、どれだけ嫌われているのかしら……」
一瞬、迫り来る黒い泥の影の中に、あの見知った獣人の大男のシルエットが映った気がした。心臓が早鐘を打ち、呼吸が浅くなる。
◇◆◇
だが、現実は、彼女が恐れる怨念の形とは少し違っていた。
これは、ミリアの知る由もない、魔王城前でのとある会話。
「……え? ミリア=アードストールをどう思うか?」
「そうだ! ずっと気になってたんだよ」
エドはジルの顔をしかと見つめて尋ねた。兜越しだから本当に目線を合わせているかは分からないが、その声には強い好奇心が滲んでいた。
「最初に俺がその名前を出した時、すごく動揺というか、警戒してただろ。本当はどう思ってるんだ?」
ジルはしばらく黙り込んだ後、淡々と口を開いた。
「……まぁ、忠実な奴だと思う。国の王女や騎士、文系という役割にな」
「それだけ?」
「ああ。それ以上は、知らないな。俺の半生は貧民街で育ってきたから、あいつとの記憶がそもそもあまり無い。もしかしたら、都合の悪いことは忘れたかっただけかもしれないが」
そこに、煮えたぎるような憎悪は無かった。
ただ、関わり合いになりたくないという、冷え切った無関心と忘却だけが存在していたのだ。
◇◆◇
そんな事とは露知らず、ミリアは自身の内側から溢れ出る罪悪感と恐怖に押し潰されそうになっていた。
このまま怨念に引きずり込まれるくらいなら、いっそ。
「……っ! ……します」
「うん?」
祭壇の前で惨劇を楽しんでいたネロが、微かな声に反応してミリアを見下ろした。
ミリアは震える手を強く握り締め、顔を上げる。
「懺悔します。私は、身内のある者を——酷く虐げ、尊厳を奪い、死に追いやるほどの罪を犯しました!」
己の罪を告白し、裁きを受け入れることで、この恐怖から逃れようとしたのだ。
しかし。
それを聞いたネロの、興味に満ちた愛らしい微笑みが、スッと無機質に剥がれ落ちていった。
他者の命を奪った怨念の重さを量るネロには、分かってしまったのだ。
ミリアが今、必死に懺悔しているその「罪」の対象者からの怨念が、この場にまるで存在しない——相手からは憎まれるどころか、とうに見切りをつけられ、記憶の片隅に追いやられている程度のものだということに。
ネロの口角が不機嫌そうに下がり、冷めきった一言が放たれる。
「……グランディアーレの気持ちがよく分かりますね。一人で勝手に怯えて、勝手に懺悔して……」
ネロは心底つまらなそうに、ミリアから視線を外した。
「本当に、面白くない」




