第96話「夢を」
瞼を震わせ、カノンはゆっくりと目を覚ました。
視界がチカチカと点滅するような感覚は消え、玉座の間の豪奢な天井がはっきりと映る。
「……っ」
無理に立ち上がろうとして、足から力が抜け、ふらりと倒れ込みそうになる。
だが、冷たい床に身体を打ち付ける前に、灰色の毛をした獣人が彼女の身体をしっかりと受け止めた。
「……危なかった。大丈夫か?」
「……うん。大丈夫みたい」
ジルの腕の中で、カノンは小さく息を吐いた。
自分を繋ぎ止めていたノイズのような痛みが、嘘のように引いている。
「治癒魔導士に診てもらおう。立てるか」
ジルがカノンの肩に腕を回し、支えるようにして歩き出す。二人はざわめく貴族たちや、光の粒子に包まれて顕現した何者かを背に、巨大な扉から玉座の間を後にした。
(——『危なかった。大丈夫か?』『うん。大丈夫みたい』)
カノンは、今交わしたばかりのやり取りを頭の中で反芻した。
いつか、どこかで、全く同じ言葉を聞いた気がする。七将軍の。あれは、確か……。
「そっか……そういう事だったんだね」
「ん?」
「いや、なんでもない」
カノンはおぼつかない足取りで、ジルに少しだけ体重を預けるようにもたれかかった。
二百年。イデアが言っていたタイムリミットと、世界の整合性。
あの日、あの坂道で一緒に光に包まれた彼が、ついにこの世界に到達したのだ。だから、彼女の存在を蝕んでいた『バグ』は消えた。
理屈は分からないが、そう思うだけで踏みとどまる。
「ねえ、ジル。……アズキは、こっち来れたの?」
「ああ。少し荒っぽかったが、逆算による召喚は成功した」
「そっか」
少し掠れた声でそう言うと、彼女の心に深い安堵が広がった。
彼が来た。無事だったのだ。
張り詰めていた糸がふっつりと切れ、カノンはジルの肩に顔を埋めたまま、安心したように深い眠りに落ちてしまった。
「……おい、カノン? まだ廊下だが……まあいい。運ぶか」
ジルはスヤスヤと眠るカノンの身体を横抱きにすると、そのまま治療院の座標へと跳んだ。
◇◆◇
再びカノンが目を覚ました時、窓の外はすっかり暗くなっていた。
昼間だったはずなのに、気が付けばもう真夜中だ。
消毒液と微かな魔力の香りがする治療院の一室。
白いベッドの上で身を起こすと、ベッドの横の丸椅子で腕を組んだまま仮眠をとっていたジルが、わずかな衣擦れの音で目を覚ました。
「起きたか」
「ジル……ずっと、居てくれたの?」
「倒れた生徒を放っておくほど薄情じゃない」
ジルが軽く首を鳴らした時、コンコンと控えめなノックの音がして、病室の扉が開いた。
「あっ! カノンちゃん、目ぇ覚めたんやね!」
「……帝国軍の治癒魔導士たちも、カノンさんの謎の症状に首を傾げていらしてましたよ」
顔を出したのは、エマとデミトアだった。
エマがホッとしたようにベッドに駆け寄り、デミトアは少し離れたところから安堵のため息をついている。
「エマ、デミっち。……ごめんね、心配かけて。他の三人は?」
「ポラリスたちなら、先に宿に戻ってもらったよ。アークが『カノンがゆっくり休めるように』って」
「そっか……」
カノンは自分の手のひらを見つめ、そっと握り込んだり、開いたりしてみた。
指先が透けたり、景色と混ざり合ったりするような感覚は、もう全くない。二百年間、自分をこの世界から排除しようとしていた『バグ』が、体からスッと抜け落ちている。
奇妙な感覚だった。
二百年という途方もない時間を、魔族として、化け物として孤独に生きてきた。
でも今は、ベッドの横に不器用な優しさで見守ってくれる仲間がいる。そして、同じ世界のどこかに、大好きな幼馴染が生きている。
(……あたし、ずっと長い夢を見ていたみたい。今度は、ちゃんと言って欲しい。ブレーキが壊れた自転車の上じゃなくて、もっと綺麗な場所で——)
(ねえ。アズキ)
窓から差し込む青白い月明かりの下で。
カノンは、憑き物が落ちたような、すっきりとした笑顔を浮かべた。




