第95話「カノン 後編」
たまたま、魔王軍幹部の定例会をサボった日のこと。
目的もなく街を抜け出したカノンは、枯れた木ばかりが続く薄暗い林の中で、方向を見失って迷ってしまった。
その林の奥で、廃村にかけられた呪いを解こうとしている一人の冒険者と、聖騎士に出会った。
魔族にとって、冒険者や聖騎士は敵であり、危険な存在だと習ってきた。
けれど何故か、その灰色の毛をした無愛想な獣人の冒険者のことが、無性に気になったのだ。
彼——ジル=アードストールは、魔法という文系至上主義のこの世界において、最も差別され、虐げられているはずの「理系」だった。
(理系かぁ。まぁ、あたしも元々、どっちかっていうと体育会系寄りだったし……あれ?)
その瞬間、脳天に電撃が走ったように、カノンははっと息を呑んだ。
(元々……そうだ。あたし、日本に居たんだ。すっかり……忘れちゃってた)
魔族としての二百年があまりにも濃く、血生臭すぎたから。
自分がかつて「鶴見 夏音」という普通の女子高生だったことすら、心の奥底に封じ込めてしまっていたのだ。
気付いてしまえば、もう誤魔化すことはできなかった。
奪った命の感触が染み付いた、この血みどろの手を切り落としてしまいたいくらいに、彼女の心は疲弊しきっていたのだ。
せめて、あの世界に居た頃のように。ただの学生として、何でもない平穏な日常を過ごしたい。学生時代はあんなに大嫌いだった、黒板に並ぶ無機質な数字や記号たちが、狂おしいほどに恋しかった。
そう思うほどに、彼女は限界だった。
「ねえ、ジル。……あたしに、数学を教えて」
「ああ」
ぶっきらぼうで、でも確かなその返事が、彼女の凍りついていた時間を溶かした。
その後、アードストールの宿で食べさせてもらったシチューは、とっても熱かった。
ジルに「まだ熱いぞ」って言われたのも聞かずに、勢いよく口に運んでしまったから、危うく舌を火傷しそうになった。
それでも、どうしてだったか。
涙が出るほど、忘れられないくらい、美味しかったのだ。
◇◆◇
そこからの日々は、嵐のように目まぐるしかった。
この世界で魔族として生きてきた百九十九年余りよりも、ジルたちと過ごしたたった数ヶ月の方が、ずっとずっと色鮮やかで、濃密だった。
囚われていたジルをフェルウェード帝国から救い出して、最初は「魔族」と邪険にされていたデミっちとも、いつの間にかすっかり仲良くなれた。
グロリア王国の宿は、日本のビジネスホテルにそっくりで、懐かしさのあまりお風呂やベッドではしゃいでしまった。
みんなで市場を歩いていっぱい買い物もしたし、海が綺麗なメリアー諸島にも行った。貿易都市でドタバタして、未来みたいな魔導国のネオンの街も歩いた。
行く先々でトラブルに巻き込まれたけれど、ジルがいて、アークがいて、ポラリスやスズナがいて。エマとも会えて。
毎日が、修学旅行の延長みたいで、楽しくて仕方がなかった。
最近、自分の身体の輪郭が時折ノイズのようにブレることに気付いていた。
電気みたいな音も鳴ったり、お腹が丸々消えたり。
ずっと、おかしな「バグ」がまとわりついている感覚があった。二百年というタイムリミットが、もうすぐそこまで来ているのだと、魂のどこかで理解していた。
(あたしは、もうすぐ消えちゃうかもしれないけど)
それでも。
この血塗られた二百年の人生の最後に、こんなにも温かくて、かけがえのない、大切な時間をもらえた。
(ありがとう、アズキ)
カノンは大好きだった幼馴染の顔を思い浮かべ、そっと微笑んだ。
『……転生は、成功です』




