第94話「カノン 前編」
『魂よ。応えなさい』
「……え」
真っ暗な空間。上下も左右もない、ただ果てしなく続く虚空の中で、夏音は目を覚ました。
純白のワンピースを着た、どこか人間離れした美しさを持つ女性——イデアが、頭上から語りかけてくる。
「何ここ……あたし、死んだの?」
『ええ』
「じゃあ、あなたは神ってやつ?」
『……平たく言えば、そうなります』
記憶がひどく曖昧だ。ただ、あの長い下り坂で、無様にも幼馴染の背中にしがみついて、その温もりを感じながら、凄まじい衝撃を受けたことだけは覚えている。
明瞭としない記憶と、ぼやけた自身の輪郭に、夏音は驚きと恐怖を隠せなかった。そのせいか、目の前のイデアを強く睨みつけるように見上げる。
しばらくの沈黙の後、イデアが静かに口を開いた。
『あまり時間がありません。200年、待てば分かりますから』
「ちょっと……! なにそれ、どういう意味!?」
『世界の整合性を、保つためです』
イデアの姿が、光となって溶けていく。
伸ばした夏音の手は空を切り、意識は再び深い闇へと沈んでいった。
◇◆◇
気が付けば、夏音は全く見知らぬ世界で、魔族『カノン・サウク』として生まれ変わっていた。
「帰りたいよ……スマホは? ねぇ。アズキ? どこに居るの……?」
転生してから一年が経った頃は、ただぐずるばかりで、夜泣きをしては周囲を困らせた。
「帰らせてよっ!!」
感情の爆発と共に、自身の特異体質である『巨大化』を制御できず、暴走して魔族の森を二割方消し飛ばしてしまったこともある。
だが、十年も経てば、彼女とて悟らざるを得なかった。
——もう、あちらの世界には帰れないのだ、と。
「……どうせなら、楽しめばいいじゃん!」
ある日、吹っ切れたようにそう口に出してから、地球に、日本に帰りたいという切実な気持ちは、嘘のように彼女の中から消えていった。
この世界には魔法が存在することを知り、胸を躍らせた。
だが、いくら訓練しても、彼女がそれを習得することは最後まで無かった。魔力適性が絶望的だったのだ。
その代わり、彼女には特異な『巨大化』と、スキルによる『黒騎士化』という圧倒的な力があった。あちらの世界で、幼少期に少しばかり嗜んでいたフェンシングの経験が活きたのか、レイピアや大剣を扱う剣術の腕を見出され、彼女は若くして魔王軍の将軍へと抜擢される。
そして、数多の戦場を駆け抜け、ついに幹部にまで成り上がった。
魔王の直属護衛や、数多の重要任務を任されるほど、頑丈で強力な最高戦力。
いつしか彼女は、鶴見夏音としてではなく、魔族『カノン・サウク』として、気楽に、そして大胆に生きていくようになっていた。
彼女の人生における決定的な出来事は、転生からさらに四十年経った頃に起こる。
「私はアーク・ベルトード。あなたは?」
それは、カノンとは正反対とも言える性格の、アークとの出会いだった。
スライムの変異種でありながら魔法の神童と呼ばれ、魔族の希望とまで囁かれるアーク。やがて同僚でもあるポラリスとも打ち解けるようになり、三人でトリオとして一つまとめにされることが増えていった。
時間にして半世紀。
それだけの長い時間を、本当の意味では誰とも分かち合えず、ほとんど孤独に生きてきた彼女にとって、肩を並べて笑い合える彼らの存在がどれほどの救いだっただろう。
ただ、残酷なことに、時が経ち彼女の地位が上がるにつれ、課される任務の血生臭さは増していく。
初めのうちは、捕虜にされた同僚の救出などが主であった。
だが、七将軍の一員として名を連ねてからは、そうもいかなくなった。北方の国を正体不明の飛行物体からの侵攻から守るために防衛線を張り、またある時は、何十年も続く泥沼の戦争を終わらせるための『抑止力』として前線に立ち、敵兵の沢山の命を奪った。
気付けば、護った命より、奪った命の方が多くなってしまった。
彼女は夜な夜な、自分が叩き潰した兵士たちの顔を思い出して泣いては、深い自己嫌悪に陥る日々を過ごすようになった。
地球に居た頃の平和な記憶など、もうほとんど薄れかけている。
今の彼女は、要塞の如き巨体で、如何なる光をも沈ませる暗黒の鎧を纏い、その巨大な剣で解体と杯葛の限りを尽くす『化け物』とまで呼ばれるようになっていた。
彼女自身、そんな血塗られた生活に、とっくに嫌気がさしていた。
「あと、何年? ……二百年だから……そっか。もう、そんなに経つんだ」
自室の窓枠に腰掛け、赤く染まった月を見上げる。
魔族として生きて、百九十九年余り。
最後の秋。
そう決まったわけではないものの、無性にそんな気がして、カノンはその日初めて、幹部の定例会をサボってどことも分からない場所へと足を向けた。
まさか、これが自分の二百年の人生において、二度目の巨大な転機になるともつゆ知らずに。




