第92話「召喚」
7月下旬。フェルウェード帝国・帝都メランズ。
この日のために用意された、魔導と電子、そして古の魔法陣が複雑に絡み合う「異界召喚装置」が、玉座の間の中心に鎮座していた。
「……ウム。問題はナ、無いようだな」
重厚な機械音を響かせ、機械王が最終点検を終える。その巨大な体躯が揺れるたび、配線された魔力回路が鈍く発光した。
「そうか。ようやくこの時が来たか」
皇帝アウレウスは、玉座から身を乗り出すようにして、設置された装置を嬉々として見守っていた。その瞳には、異世界の勇者という強大な「力」への渇望が宿っている。
点検を済ませた機械王は、野次馬のように押し寄せる貴族たちの後方へと音もなく移動した。代わって装置の前に立ったノアが、冷徹な手つきで起動ボタンを押し込む。
ウィー……。
低いうなりを上げ、装置が息を吹き返した。ギデオンが描いた複雑な魔法陣を経由し、赤紫の魔力が毛細血管のような配線の中へと溶け込んでいく。
「さあ、ジル君。君の『計算』が必要だ」
「ああ」
ジルが一歩前へ踏み出す。
マズルにかかった眼鏡が、天井の巨大なシャンデリアが放つ光を冷たく反射した。彼の脳内では、既に膨大な数の数式が、異世界の座標を特定するために猛烈な速度で展開されている。
「スキル『数学者』——」
座標が固定され、異界の門が開こうとした、その時だった。
「うわあああぁッ……!」
悲鳴が上がり、一人の少女が胸を押さえて床に激しく倒れ込んだ。
不穏な電子音が玉座の間に響き渡り、静寂を守っていた貴族たちの間に、一気にざわめきが広がる。
赤い絨毯と同化するような、鮮やかな赤い髪。
目を引く褐色の肌に、黒と白を基調とした機能的な服装。
元・魔王軍幹部級七将軍 “要塞の暗黒騎士"、カノン・サウク。
彼女の身体の輪郭が、まるでデータの読み込みエラーを起こした映像のように激しく歪み、ノイズが走る。
「カノン……!?」
ジルは即座に踵を返し、倒れたカノンの元へと駆け寄った。
その瞬間、かつてギデオンが漏らした、あの不吉な言葉が強烈にフラッシュバックする。
『勇者召喚の際、要注意な人物が……あなたの生徒の中に居る』
『それは……』
◇◆◇
「おい、ノア! 今すぐ機械を止めてくれ……ッ! カノンが!」
「分か——」
「……やめてっ!」
停止を求めたジルに応えたノアの声を遮り、震える声で拒絶したのは、カノン本人だった。
「奈落が見える……! あたしだからこそ分かる、このままじゃ……弾かれちゃう……ッ!」
彼女の衣服が、壊れたビデオ映像のように図形や文字、あるいは見たこともない異世界の景色とつぎはぎ状に入れ替わっていく。
その身体も、不規則的に赤や緑、青色の光を纏い、残像のように激しく揺れていた。
「早く、アズキを……東筆記を……呼んで……っ!」
その名は、ジルの知らないものだった。
だが、カノンにとっては、自身の存在がバグとなって崩壊しようとしてもなお、繋ぎ止めるべき「楔」なのだと理解した。
「ヒツキ……人の名前だな。分かった、任せろ」
ジルは一瞬で冷静さを取り戻すと、装置の制御系へと意識を戻した。
通常の手順ではカノンもろとも世界が崩壊する。ならば、計算の裏道を通るしかない。
彼は装置の上で、自身のスキルのあの”バグ技”を再び試みた。
アークやポラリス、スズナたちは、ただ祈るようにカノンを見守り、ジルがやろうとしている未知の術式が成功することを信じるしかなかった。
「……行ってくる」
短くそう告げると、ジルの姿は光の粒子に包まれ、その場からパッと消失した。
それは勇者を呼び寄せるための、命懸けの「逆召喚」の始まりだった。




