9 扉が開く
サロンへ行くと決めたのは、前日になってからだった。
行きたくないわけではない。ただ、行ってよいのかがわからなかった。好きなものを持って来ればよい席だとテアは言ったけれど、そう言われるほど、自分が何を持っているのかが曖昧になる。
それでも、結局は行くことにした。断る理由を考えるより、行くほうが少しだけ自然に思えたからだ。
何を持って行くべきかと考えて、エリンは小さな詩集を一冊だけ選んだ。子どものころから手元に置いていた薄い本で、角が少しやわらかくなっている。もし何かを持つならこれだと思った。
テアに案内された屋敷は、街の喧騒から少し離れた場所にあった。
正面玄関から入ると、広間へ通じる手前の部屋に小さな卓がいくつか置かれ、人は思ったより少なかった。令嬢もいれば、その兄や従兄らしい若い男たちもいる。年上の女性が一人、窓辺で茶を飲みながら静かに笑っていた。誰も大声では話さないが、会話はあちこちで生まれ、また別のところで続いていた。
「ほら、大丈夫でしょう」
隣でテアが小さく言った。
「最初は、あまり長く話さなくてもいいわ。聞いているだけでも、十分楽しいもの」
そう言って、彼女は無理にエリンを誰かの輪へ押し込まなかった。そういうところが、ありがたかった。
最初に耳へ入ってきたのは、古い刺繍見本の話だった。
布地そのものは痛んでいるのに、糸の色だけがまだ鮮やかに残っている、と若い男が言い、窓辺の年上の女性が、それは染めより糸質のせいでしょうね、と答える。令嬢だけの席より流れは定まらないのに、そのぶん会話が死なない。
エリンは少し離れた場所でそれを聞いていた。
面白いと思った。
誰かが上手に話すからではなく、それぞれが本当に興味のあるものにだけ急に身を乗り出すからだ。そのばらつきが、かえって心地よかった。
やがて話題が詩へ移った。
窓辺の女性が、今季よく読まれている詩集よりも古いもののほうが好きだと言い、若い令息が、それは言い方がやわらかいからですかと尋ねる。そこで少し言葉が止まった。
「やわらかい、というより」
気づけば、エリンは口を開いていた。
「言葉を言い切らないのに、空気だけはちゃんと残るところでしょうか」
部屋の中の視線が、いくつか静かにこちらを向く。
テアが少し離れたところで、やっぱりね、という顔をした。
「たとえば、春のことを書いていても、花や光ばかりではなくて、その前にあった冷たさまで消していないもののほうが、あとに残る気がします」
窓辺の女性がゆっくりとうなずいた。
「それは、よくわかるわ」
そのあと、会話は思いがけず長く続いた。
誰かが一つ言えば、別の誰かが少し角度を変えて返す。前へ出ようとしなくても、自分の言葉がちゃんと受け取られ、また別の言葉につながっていく。
令嬢の会では味わわなかった感覚だった。
あちらでは、きれいに話すことが先にある。ここでは、何を言うかのほうが先にある。その違いは、エリンにはずいぶん大きかった。
「だから言ったでしょう」
気がつくと、テアがすぐ隣に戻ってきていた。
「何をですか」
「あなた向きの場所だってこと」
エリンは少し笑った。
「まだ一度来ただけです」
「一度で十分なこともあるわ」
そう言って、テアは卓の上に置かれた菓子皿から一つ摘まんだ。
そのとき、別の方向から誰かが近づいてきた。
「今日はどうしてここに?」
エリンは顔を上げた。
知らない男が、静かな興味を隠さないままこちらを見ていた。まっすぐ見ているのに、値踏みしている感じはない。ただ本当に、そう思って尋ねたらしい。
「誘われたのです」とエリンは答えた。
「こういう席は、あまり慣れていないのですけれど」
「そうは見えませんでした」
「そうでしょうか」
「ええ。さっきの詩の話、慣れていない人の話し方ではなかったので」
エリンは少し目を伏せた。
「好きな話でしたので。つい」
「詩の話だけではなさそうでしたが」
今度は、はっきり驚いてしまった。
男はその反応を見て、わずかに口元をゆるめる。
「違いましたか」
「……少しだけ」
「どのあたりが?」
そこからの会話は、思っていたより長く続いた。
男はエイドリアン・ヴァンスと名乗った。
話してみると、詩の解釈も、刺繍の見方も、エリンと同じではなかった。けれどその違いが心地よかった。同じものを見て、べつのところに目が行く。そのたびに、自分の見ていたものも少し広がる。
「静かな方だと思っていました」とエイドリアンが言った。
「でも、静かなだけではないのですね」
エリンは返事に少し迷った。
「静かなほうではあると思います」
「ええ。けれど、それで終わらない」
その言い方があまりに自然で、かえって返事に困る。
エリンが黙ると、エイドリアンは肩の力を抜いたまま続けた。
「お話ししていて、思っていたよりずっと楽しかったです」
そう言われて、エリンは一瞬だけ何も言えなかった。
「……それは、よかったです」
ようやくそう返すと、エイドリアンは小さく笑った。
「ええ。本当に」
ようやくそう返すと、エイドリアンは小さく笑った。
帰りの馬車へ向かうとき、夜はもうすっかり落ちていた。
屋敷の外へ出ると、空気は少し冷えている。テアが横から近づいてきて、楽しそうに言った。
「ずいぶん長くお話ししていたのね」
「そうかしら」
「そうよ」
テアはそれ以上は言わなかった。
ただ、その目は少しだけ面白がっている。
「来てよかったでしょう」
エリンは屋敷の明かりを振り返った。
「ええ。思っていたより、ずっと」
テアは満足そうに笑った。
馬車に乗り込んでから、エリンは膝の上へ手を重ねた。
まだ何かが大きく変わったわけではない。けれど、自分の言葉が、そのまま届く場所があるのだと知ったことは、小さくはなかった。
窓の外では夜の街がゆっくり流れていく。
その暗がりの向こうに、これまでとは少し違う景色があるような気がした。




