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呼ばれた声の向こう  作者: サク


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9/12

9 扉が開く

サロンへ行くと決めたのは、前日になってからだった。


行きたくないわけではない。ただ、行ってよいのかがわからなかった。好きなものを持って来ればよい席だとテアは言ったけれど、そう言われるほど、自分が何を持っているのかが曖昧になる。

それでも、結局は行くことにした。断る理由を考えるより、行くほうが少しだけ自然に思えたからだ。


何を持って行くべきかと考えて、エリンは小さな詩集を一冊だけ選んだ。子どものころから手元に置いていた薄い本で、角が少しやわらかくなっている。もし何かを持つならこれだと思った。


テアに案内された屋敷は、街の喧騒から少し離れた場所にあった。


正面玄関から入ると、広間へ通じる手前の部屋に小さな卓がいくつか置かれ、人は思ったより少なかった。令嬢もいれば、その兄や従兄らしい若い男たちもいる。年上の女性が一人、窓辺で茶を飲みながら静かに笑っていた。誰も大声では話さないが、会話はあちこちで生まれ、また別のところで続いていた。


「ほら、大丈夫でしょう」


隣でテアが小さく言った。


「最初は、あまり長く話さなくてもいいわ。聞いているだけでも、十分楽しいもの」


そう言って、彼女は無理にエリンを誰かの輪へ押し込まなかった。そういうところが、ありがたかった。


最初に耳へ入ってきたのは、古い刺繍見本の話だった。


布地そのものは痛んでいるのに、糸の色だけがまだ鮮やかに残っている、と若い男が言い、窓辺の年上の女性が、それは染めより糸質のせいでしょうね、と答える。令嬢だけの席より流れは定まらないのに、そのぶん会話が死なない。


エリンは少し離れた場所でそれを聞いていた。


面白いと思った。

誰かが上手に話すからではなく、それぞれが本当に興味のあるものにだけ急に身を乗り出すからだ。そのばらつきが、かえって心地よかった。


やがて話題が詩へ移った。

窓辺の女性が、今季よく読まれている詩集よりも古いもののほうが好きだと言い、若い令息が、それは言い方がやわらかいからですかと尋ねる。そこで少し言葉が止まった。


「やわらかい、というより」


気づけば、エリンは口を開いていた。


「言葉を言い切らないのに、空気だけはちゃんと残るところでしょうか」


部屋の中の視線が、いくつか静かにこちらを向く。

テアが少し離れたところで、やっぱりね、という顔をした。


「たとえば、春のことを書いていても、花や光ばかりではなくて、その前にあった冷たさまで消していないもののほうが、あとに残る気がします」


窓辺の女性がゆっくりとうなずいた。


「それは、よくわかるわ」


そのあと、会話は思いがけず長く続いた。

誰かが一つ言えば、別の誰かが少し角度を変えて返す。前へ出ようとしなくても、自分の言葉がちゃんと受け取られ、また別の言葉につながっていく。


令嬢の会では味わわなかった感覚だった。

あちらでは、きれいに話すことが先にある。ここでは、何を言うかのほうが先にある。その違いは、エリンにはずいぶん大きかった。


「だから言ったでしょう」


気がつくと、テアがすぐ隣に戻ってきていた。


「何をですか」


「あなた向きの場所だってこと」


エリンは少し笑った。


「まだ一度来ただけです」


「一度で十分なこともあるわ」


そう言って、テアは卓の上に置かれた菓子皿から一つ摘まんだ。


そのとき、別の方向から誰かが近づいてきた。


「今日はどうしてここに?」


エリンは顔を上げた。

知らない男が、静かな興味を隠さないままこちらを見ていた。まっすぐ見ているのに、値踏みしている感じはない。ただ本当に、そう思って尋ねたらしい。


「誘われたのです」とエリンは答えた。

「こういう席は、あまり慣れていないのですけれど」


「そうは見えませんでした」


「そうでしょうか」


「ええ。さっきの詩の話、慣れていない人の話し方ではなかったので」


エリンは少し目を伏せた。


「好きな話でしたので。つい」


「詩の話だけではなさそうでしたが」


今度は、はっきり驚いてしまった。

男はその反応を見て、わずかに口元をゆるめる。


「違いましたか」


「……少しだけ」


「どのあたりが?」


そこからの会話は、思っていたより長く続いた。


男はエイドリアン・ヴァンスと名乗った。

話してみると、詩の解釈も、刺繍の見方も、エリンと同じではなかった。けれどその違いが心地よかった。同じものを見て、べつのところに目が行く。そのたびに、自分の見ていたものも少し広がる。


「静かな方だと思っていました」とエイドリアンが言った。

「でも、静かなだけではないのですね」


エリンは返事に少し迷った。


「静かなほうではあると思います」


「ええ。けれど、それで終わらない」


その言い方があまりに自然で、かえって返事に困る。

エリンが黙ると、エイドリアンは肩の力を抜いたまま続けた。


「お話ししていて、思っていたよりずっと楽しかったです」


そう言われて、エリンは一瞬だけ何も言えなかった。


「……それは、よかったです」


ようやくそう返すと、エイドリアンは小さく笑った。


「ええ。本当に」


ようやくそう返すと、エイドリアンは小さく笑った。


帰りの馬車へ向かうとき、夜はもうすっかり落ちていた。


屋敷の外へ出ると、空気は少し冷えている。テアが横から近づいてきて、楽しそうに言った。


「ずいぶん長くお話ししていたのね」


「そうかしら」


「そうよ」


テアはそれ以上は言わなかった。

ただ、その目は少しだけ面白がっている。


「来てよかったでしょう」


エリンは屋敷の明かりを振り返った。


「ええ。思っていたより、ずっと」


テアは満足そうに笑った。


馬車に乗り込んでから、エリンは膝の上へ手を重ねた。

まだ何かが大きく変わったわけではない。けれど、自分の言葉が、そのまま届く場所があるのだと知ったことは、小さくはなかった。


窓の外では夜の街がゆっくり流れていく。

その暗がりの向こうに、これまでとは少し違う景色があるような気がした。

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