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君の居場所 (完)

地下一階にある店を出て、地上へと続く狭くて薄暗い階段を一人ぼんやりと上っていく涼。

エレベーターを使うのは客を見送る時だけで、出退勤時にはなるべく階段を使うように、という従業員の努力義務を涼は律儀に守っていた。

酒の回った足は重くて、なかなか地上へと辿り着けない。

何故、自分は閉店前に帰れと指示されたのだろう。思考の鈍った頭で考えながら、涼は漸く地上までの折り返し地点である階段の踊り場まで到達した。


あと半分。思って踏み出した涼の足が、しかし緩やかに停止する。

踊り場に佇んでいた一つの影。その見覚えのある顔に、涼は驚いた顔で口を開いた。


「…あす、か」


呼ばれてにこりと目を細めて甘やかに笑う明日夏の、懐かしい笑顔がゆっくりとこちらに近づいてくる。

現状が把握できず、反射的に足を後ろに引く涼に、明日夏は穏やかな声音で語りかけた。


「ようやく見つけた。随分探し回ったよ、涼」

「探した…って、は?」


訝るように明日夏の言葉を繰り返す涼。


「お陰でこの一週間のうちに何十軒のホストクラブでこのまま働かないかって勧誘されたことか」


冗談めかして笑う明日夏を視界に入れ、涼は怪訝に眉を寄せる。

確かに伶麗にも自分がどの店舗で働くことになったかという連絡は入れなかったから、探したという明日夏の発言は真実なのだろう。

けれどその理由については、涼には思い当たることが一切なかった。


「用件は、何だ?」


警戒心を前面に押し出した涼の、低めた声が薄暗い踊り場に響く。

明日夏がほんの僅か、困惑したように瞳を揺らしたように見えたけれど、そんなことは涼の知ったことではなかった。

目の前にいるのは涼の自尊心を、唯一の軸であるヒモとしてのプライドを粉々に砕いた男。

身体と引き換えにやっとここまで自信を回復したところだというのに、今更また立ち塞がってそれを踏みつけようとでも言うつもりか。と疑心暗鬼な涼の心が結論を急ぐ。


「涼に、聞きたいことがあって」

「何?」


穏やかにかけられる明日夏の声に、涼は無愛想に短く聞き返す。

俺はない。お前と話すことなんか。と言外に告げているような涼の態度は、少なからず明日夏の胸を締め付けた。

それでも結んだ笑みはそのまま、明日夏が柔らかな口調で涼に問いかける。


「どうして突然いなくなったのかと思ってさ。何が不満だった?口、触ったこと?」


問われて無意識に涼が唇を引き結ぶ。

きっかけとしてはそうかもしれないが、根本的な原因はそれではなかった。確かにとどめを刺された感は半端ではなくあったけれども。


「別に。ただあんたに俺は必要なさそうだと思ったから出て行った。それだけだ」

「必要ないなんて言ってないだろ、俺。涼の作る飯だっていつも楽しみにしてるんだよ?」

「なら家事代行の業者にでも頼めばいいだろ。俺じゃなくても出来る」


言い捨てた涼の言葉が静寂に掻き消されていく。

明日夏は何もわかっていない。気に入ったと言って連れ帰られても、すぐに飽きて見向きもされなくなるあの虚しさも。忘れ去られた美術品のようにただそこにあるだけの存在になってしまったと自覚する瞬間のあの遣る瀬無さも。

買われて、飼われて、捨てられて、拾われて。

その繰り返しの度に訪れる虚無感を紛らわせてくれるのは、持ち主が刹那的に与えてくれる存在意義と、それに報いる為にきちんと奉仕できているんだと実感できる充足感だけだ。

なのに明日夏は。


「家事するの嫌だったのか?それなら無理にしなくても構わないから」

「…ッ」


明日夏の窺うような発言に涼の心が苛立ちに乱れる。

何もしなくていいと言うのなら、それこそ俺は何の為に買われたのか分からない。明日夏は俺に、俺に何も望んでくれない。

最初は、持ち歩かれるだけのアクセサリーの一つではない、誰かにとっての特別な何かになれるのかと馬鹿な期待をした。けれど結局は、アクセサリーの一つにすらなれなかった。


「話は済んだか?だったら俺は帰る。明日も仕事なんだ」


明日夏の横をすり抜け、涼はその狭い踊り場から一歩、足を踏み出した。

すれ違いざまの明日夏の顔を、涼は見なかった。

だから明日夏がどんな気持ちでその手を伸ばしたのかも、涼には理解できなかった。


「もう話は済んだんだろ?」


腕を掴まれ、煩わしげに足を止めた涼が横目に明日夏を見下ろして言う。

くしゃりと涼のジャケットに深く皺が寄って、一瞬鈍く痛むほどに握られた明日夏の手はしかし、すぐに開かれて涼から離れた。


「涼。ホストの仕事は楽しい?」

「は?」


唐突に投げかけられたのは、他愛もない世間話のような明日夏からの問いかけ。

不審がる涼に構わず、明日夏は微笑んで涼を見上げたまま、言葉を続ける。


「俺といるよりも、楽しいか?」


明日夏の問いに対する返答を、涼は飲み過ぎた酒のせいでズキズキと疼く頭で考えた。

じっと涼を見る、明日夏の漆黒の瞳。

楽しいはずないだろ。と頭痛を抱えた涼の脳が反論の声を上げるけれど、涼の口はそれとは別の答えを舌に乗せる。


「ここなら俺にしか出来ない仕事が貰えるし、俺を求めてくれる女もいる。あんたのとこにいた時よりは断然マシだ」


直後、笑みを湛えた明日夏の口角がピク…と僅かに痙攣して。

けれども薄暗いこの踊り場の、既に居心地がいいとは言い難い雰囲気の中では、明日夏の不快感が上昇した程度で下がる空気の温度など誤差の範囲だった。


「もういいか?じゃ、俺は帰…」

「涼の部屋ならさっき引き払ってもらったけど?」


明日夏の言葉が、涼の瞬きを消す。


「仕事も今日でお終い。だから涼は明日から出勤しなくていい」


何処かヒンヤリとした声音に苛立ちの棘を隠して、淡々と明日夏が告げる。


「涼の帰る場所は、俺の家だよ」


凄むように言った明日夏のその眼差しは、憤りに浅く濁った色をしていた。

何言ってんだ、こいつ。と涼が困惑を浮かべたのは一瞬だった。

次の瞬間には、涼は明日夏に噛みつきそうな勢いで叫んでいた。


「なっ…!勝手なことするな!どういうつもりだよ、一体!?」

「俺が金で涼のこと買い戻したんだ。わからないか?」

「はぁ!?ふざけるなよ。俺はもうあんたの元へは戻らないッ」


いくら涼が媚びて誘ってみせても何も望まれない。何も求められない。あの無機質で寂しげな部屋の、ただの背景になるなんて嫌だ。


「俺なんか買ったって仕方ないだろ、あんたは。その金で代行業者でも夜の相手でも好きなだけ雇えよ!」

「俺は涼をそばに置いておきたいんだよ」

「いいや、あんたは俺なんて求めてないっ」

「どうして決めつけるんだよ、涼。俺は本当に…」

「嘘だ。あんたはもう俺に飽きてる。いや、もともと最初から俺に大した興味なんて無かったんだ」

「涼、ちゃんと聞けって。俺の言葉はそんなに信用ならないか?」


涼の態度に煽られて明日夏の口調も少しずつ早くなる。

狭い踊り場に二人分の声が反響して、虚しく消えた。

はっ、と荒々しく息を吐き捨てた涼が、眇めた目で明日夏を忌々しげに見下ろす。

見上げる明日夏の瞳に映るのは、明日夏が好みだと言った、涼の顔。


「わかった。そんなにこの顔が見たいんなら店で俺を指名でもすればいい。そしたら指名料分くらいはあんたにこの顔を独占させてやる」

「涼、そういうことを言ってるんじゃないだろう?」

「何が違うんだよ?何も違わないだろッ!?」

「全然違うよっ!」


もどかしさに、明日夏は思わず声を荒げた。

苛立ちに顰められた涼の目元。

その鋭く自分を見据えてくる涼の眼差しから視線を逸らすように、明日夏は一度、瞼を落とした。


「…全然、違う」


自分の発言を繰り返しながら自分の額に手を当てて抱え込む明日夏。

高ぶる様々な感情を抑え込んで、それでも微かに震えを帯びた声音で、ゆっくりと、明日夏の口が言葉を吐き出す。


「ただ顔が見たいだけで、俺が一週間も毎晩ホストクラブを何件もはしごして探し歩いたりするって本気で思ってるのかよ…」


言葉の最後はため息に混じって掠れるように空間に溶けた。

それはただの呆れた呟きのようでもあり、抗議を含んだ問いかけのようでもあって。

考えあぐねた涼が返す言葉に迷っていると、明日夏は静かに開かれたその瞳で真っ直ぐに涼を見据え、額に当てていた手を涼に向けて伸ばした。


「望んだ通りの言葉を紡ぐ綺麗な人形が欲しいだけなら、こんなに必死に涼のこと探したりしない」


涼を捉える、深く強い黒の瞳。

明日夏の紡ぐ真摯な言葉が、涼の心の扉をコン…と叩く。


「俺は、思うまま素直に反応する涼がいいんだ。だからホストの仮面を被ってる涼に会いに行ったって意味がないだろ?」


ぎこちなく微笑んで、明日夏は涼に囁くように問いかけた。

伸びてきた明日夏の手が躊躇いがちに涼の頬をそっと一撫でして戻っていく。


明日夏がくれる言葉は、涼が求めたものとは少し違う。

明日夏は涼が持っているヒモとしての技能も、装飾品的な価値も重要視していない。

それが涼にはあまりに難解で、不可解で。


なのに、それでも。


頬に残された明日夏の指の感触に、涼は胸が締め付けられるように苦しくなる。

自分に価値を見出してくれるのなら誰でもいいわけじゃない。本当はこの手に、求められたいと心の何処かで望んでいる自分がいる。

だから。


「あの殺風景な家に思いがけず花を飾ってくれたり、俺が揶揄うと困ってちょっと怒ったりする涼と、俺は一緒にいたい」


トクン…涼の心臓が応えるように鳴いた。

ほんの僅かに開いた涼の心の扉。そこから溢れ出した一欠片の熱は涼自身の心さえも焦がすように、たったそれだけで涼の全身を熱くさせる。

喉がカラカラに渇いてひりつく。アルコールよりも強烈な刺激感に、涼は声を出せなかった。


「毎日、涼におかえりって言って欲しい。他の誰でもなくて、涼に言って欲しいんだ。それじゃ、足りない?」


明日夏の声が涼の心を震わせる。

その言葉を聞いた瞬間、涼は今までに出会ったどんな相手よりも最も純粋に、最も切実に、自分の存在を求められたように感じた。

おかえりと言える場所。

明日夏がそれを、自分にくれた。




***




私物なんて殆ど無い涼にとって、わざわざ寮へ寄る理由など確かに無かったかもしれない。

それでも、有無も言わせずタクシーに詰め込まれてはやはり些かの憤りは湧くというもの。

だから一応の抗議はしようと試みた涼であったのだが。


「スジ盛りって言うんだっけ?涼が自分でセットしたのか?」

「いや、これはヘアメイクさんが」

「ふーん。やっぱ雰囲気変わるな。うん、これはこれで格好いい」

「…ッ」


言って車内で涼の髪の毛をツンツンと引っ張って遊ぶ明日夏は殊の外上機嫌で、やれ涼の照れた時の仕草が可愛いだの、やれ涼の米の炊き加減が最高だの、と延々褒め続けられては流石の涼でも居た堪れなさに閉口する他なかった。


「明日夏、もしかして怒ってるのか?」


玄関の前に立った明日夏の横顔に、涼は移動中ずっと抱いていた疑問を投げかけてみる。

かちゃり。

鍵が外れる音の後に流れた微妙な間。

玄関のノブを回した明日夏が、不気味なほど綺麗な横顔で笑った。

まだ肯定されたわけでも無いのに、涼の体が勝手に恐怖を感じて立ち竦む。

その様子を横目に一瞥して、明日夏はその笑みを湛えたまま、開いたドアの内側に涼を優しく誘導した。


「涼」

「な、何?」


思わずビクッと反応してしまった涼に、明日夏が気にせず言葉を続ける。


「先に風呂入って。香水の匂い、キツ過ぎだから」


言った明日夏の口調はいつも通りの柔らかな感じで、涼は過剰反応だったかと内心で反省した。

着替えを取りに一旦部屋へ向かおうと足を踏み出した涼。

しかし明日夏はその涼の手首を捕まえると、


「だから、涼は風呂って言ったろ?」


リビングより手前にある風呂への扉を開け放ち、脱衣所をすっ飛ばしてそのままバスタブに涼の体を押し込んだ。

広くて浅い、まだ水の張られていないバスタブに尻餅をついた涼が目を丸くして明日夏を見上げる。

その視線の先で、明日夏はおもむろに水道の蛇口に手を伸ばした。


「え、あ、待っ…!?」

「待たない」


にっこり微笑んで容赦なく蛇口を捻る明日夏。

壁にかけられたシャワーヘッドから勢いよく飛び出した水を、涼は服を着たまま頭から被らされた。


「っ冷たい」

「ああ、ごめん。水と間違えた」


平然と言って明日夏がお湯の方の蛇口を捻り直す。

またもや頭からその温水を浴びせられながら、涼はじっとりとした眼差しで明日夏を睨んだ。

優しげな笑みを崩さない明日夏の黒い瞳に一瞬、怒りの炎がゆらりと顔を覗かせる。


「やっぱ怒ってるだろ、明日夏」

「怒ってないなんて一言も言ってないだろう?」


笑って言いつつ、明日夏はシャワーヘッドを手に取った。

そのまましゃがみ込み、バスタブの中に転がされている涼の顔に明日夏が正面から水を浴びせかけてくる。


「わぷっ…ぶはッ!?ぁ、あす…かっ!」


顔面をシャワーの水で覆われて堪らず暴れる涼。


「あっはは。涼、水泳で息継ぎできない奴みたいになってたよ」

「わっ、…笑い事じゃないッ」


なんとかシャワーヘッドを捕まえた涼が顔からそれを離すと、明日夏は愉快そうに声をあげて笑った。

明日夏から、格好悪っ、と笑いながら言われ、涼がギリっと悔しそうに奥歯を鳴らす。

ジャケットもシャツもズボンもすっかり水浸しの涼を一頻り眺めてから、明日夏はふわりと笑みを和らげて囁いた。


「その格好悪いまんまでいいからさ。ずっと俺のとこにいろよ、涼」


風呂場の壁に反響した明日夏の優しい声が、涼の濡れた体をそっと包み込む。


「涼が一週間も帰ってこないからあのリンドウも咲かずに枯れちゃったよ。どう責任とってくれるの?」


雫の滴る涼の前髪を掻き分けて、毛先を梳く明日夏の長い指。

その指を伝った水滴が落ち、涼の濡れたジャケットの肩口を叩いて弾ける。

キラキラと歌うように輝いて散る雫のカケラはまるで宝石のように、明日夏が涼の髪を梳く度に涼のまわりに甘やかに降り積もっていった。

いつかの冷たい雨とは違う、温かな水温。


「涼。俺の名前呼んで、おかえりって言って?」


明日夏の手が涼の頬を優しく拭って擽ぐる。


「い、今この状況で…か?」


戸惑って聞き返す涼に、明日夏は促すように涼の頬を撫でてニコリと目を細めた。

シャワーの規則的な水音が沈黙を埋める。


「なぁ。涼、言ってよ」

「…明日夏、お…かえり?」


強請られて、涼はぎこちなく言葉を返した。


「うん。ただいま、涼」


囁くような明日夏の声が、蒸気のモヤに霞む。

その何処か不器用に微笑む明日夏の、幸せそうな顔を見て、明日夏の心からの嬉しいを涼は漸く自分の手で引き出せたような気がした。


「ただいま」


嬉しそうに繰り返す明日夏の言葉が涼の心にスッと沁みていく。

ここが涼の居場所だよ、とそう優しく教え込むみたいに。

ここまでお付き合い頂きまして、誠にありがとうございます。

少女漫画っぽい甘やかさと、アダルティな雰囲気を少しでもお楽しみ頂けましたら幸いでございます。


さて。

続編には性的描写を含むシーンがございます故、


「プロのヒモなんだが、男の飼い主の恋人になる方法がわからない」


として、タイトルを分けて投稿させて頂くこととしました。


『小説家になろう』の18禁部門サイトの一つである「ムーンライトノベルズ」のサイト内検索にて、上記タイトルを検索頂きますと続編をご覧になれます。


では、皆様の楽しいひと時の一助となりますことを願って。

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[一言] ムーンのランキングから遡ってたどり着きました 明日夏と涼の駆け引き(?)がとても素敵で楽しかったです ムーンに戻って続きを読み進めたいと思います 素敵なお話 ありがとうございました
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