10 紫雨の庭
あの男に声を掛けられた騒動を敬は母親に報告した。
慌てて被害届を出そうとする母親に希は突然のことで何も覚えていないと誤魔化した。未遂で終わった事も幸いして母親は届けを出すことは断念したようだ。
その代わりに母親の提案で、不審者対策と称し朝は一緒に通学するようになった。
来年の春までの短い間ではあるがふたりにとってかけがえのない時間がまた戻ってきた。
希が自転車を漕ぐ後から敬が黙ってついて来る。会話はなくてもちゃんと思いは繋がっている。空を仰ぎながら自転車を走らせていく希の瞳に曇りはない。
駅前の駐輪場にふたりの自転車が並んで置かれ、改札に向かう人々に紛れて同じ方向へと歩いていく。希の歩みに合わせて敬の足取りはゆっくりだ。
「敬、おはよー。あれ~希ちゃん?」
「お早うございます」
「ふたりのツーショットなんて何年振り? 小学校の時以来かな」
「そうですか?」
「なんにせよ問題が解決したみたいで良かったな、敬」
「おう」
小さな希を挟むように背の高い青年二人に囲まれて、いささか居心地の悪さを感じる。ふたりの会話はいつも通りなのか、授業の進み具合やテスト問題の傾向と対策など、健全で学生らしい会話が続く。車窓から見える景色を眺めながら昨日までの安穏としていた気持ちが嘘のように希の気持ちは晴れやかだった。
その夜佐藤家では食卓を囲んで久しぶりの家族会議が開かれた。
テーマは敬の進路のことだ。
敬の進学希望は医科大学だった。
「模試ではA判定をもらった。学費については迷惑を掛けるかもしれないけど、ちゃんと浪人しないで卒業するから、行かせて下さい。お願いします」
深々と頭を下げる敬に対して父親も母親もお互いを見やり何事か考えているようだ。
実のところ希は朝駅ですれ違う敬の友人に聞かされてこの事を知っていた。
「だって、敬は希ちゃんの足の傷を消してあげたくて医学の道を選んだんだろう。再生医療の研究をして、希ちゃんを喜ばせたいって言ってたんだよ」
「敬ちゃんがそんな事を---」
思いもしていなかった言葉に思わず胸が熱くなる。
その事を敬に問いただせば何でもないことのようにあっさりと認めた。
「俺はそんな傷何とも思ってないよ。希が希ならそれでいい。でも、お前がその傷を見る度に悲しい思いをするなら今すぐにでも消してやりたい」
「ありがとう敬ちゃん」
敬が望んだことなら反対をする理由はない。
話しを聞いた両親の意見も希と同じだった。
「敬がそう決めたのなら反対する理由はないよ。頑張りなさい」
「雨の日に辛そうにしてる希を見てね、敬が先生に詰め寄った事があるのよ。医者なのにどうして希を助けてくれないのって。お金がいるのなら僕のお小使いみんなあげるから希を助けてくださいって。お母さん泣けちゃった。敬の気持ちがうれしくて、お父さんとふたりで号泣よ。だからね、敬が口を聞かなくなっても何にも心配なんてしてなかったのよ。敬が希のことを嫌いになることなんて絶対あり得ないから」
雨の日に軒下に並んだ沢山のてるてる坊主が希の脳裏に過ぎる。
あれは敬が外に遊びに行くためだけの願いではなかったのかも知れない。
『希の足が辛くなりませんように』
そんな願いも込められていたのかも知れないのだ。希はそうとは知らず、てるてる坊主を恨めしく眺めていた自分が恥ずかしくなる。雨が嫌いだと言った敬の言葉はやさしさの裏返しだったのだ。
「私だって希ともっとコミュニケーション取りたいんだけどね、敬が睨むからさー。心の狭い男は嫌われちゃうぞって、何度も言ってるんだけど」
「余計な事言うなよ!」
「そうよ。敬はツンデレさんなんだから」
「母さん!」
数十年前、妹を突然亡くした敬の元に、両親は足に包帯を巻いた希を連れて帰ってきた。
敬にはこの子は恵の変わりに家に来たのだと伝えた。
「ママ。この子は恵と違うよ。ゼイゼイしてないし、ほっぺも、くちびるも真っ赤だよ。ねえ、ママ! しんぞうの音がドクンドクンって、ちゃんと聞こえるよ」
敬が胸に頬をすり寄せて心臓の音を確かめる度にきゃっきゃと笑う女の子の左足には痛々しく包帯が巻かれている。それなのに、その声は驚くほど力強い。こんな笑い声を聞いたのは何時ぶりだろう。臓器に負担を掛けまいと、穏やかに過ごすことだけを考えていた日々だった。これからは何の心配もせずに思いっきり泣いたり笑ったりしていいのだ。
「敬……」
「敬の言う通りだ。この子は恵の変わりなんかじゃない。私たちの四番目の新しい家族だ。そうだろうママ」
「あなた---」
希は佐藤家の希望だった。
希がいなかったら家族は立ち直ることは出来なかっただろう。
庭先を覗けば恵の誕生と共に植えた紫陽花の花が綺麗に咲き誇っている。花後すぐに枝を切り詰め剪定を欠かさず、毎年大切に育ててきた。
今年伸びた新しい枝に花芽は付かない。翌年の秋に花芽が付いて翌々年に花が咲く。今咲いている花は2年の歳月を掛けてようやく開いた花だ。手間を惜しまず世話を焼きようやく花を咲かせる紫の紫陽花。家族もまた小さな綻びを縫いながら絆が太く強くなっていく。共に過ごした時間はお互いを認め合うのに必要なプロセスだったのだ。
この庭に降り積もるのは悲しみなんかじゃない。
来年も、再来年も、何時までも命が続くために恵みの雨が降り積もって行く。
梅雨が明けたら庭の手入れを始めようと希は庭先を見つめた。
剪定をして枝を整え来年もまた見事な花を咲かせるように育てるのだ。
梅雨明けはもうすぐそこまで近付いている。




