四
―――数日後。
良太郎は大学の食堂「炎炎」で同回生たちと集まっていた。
食堂には長机を縦に五つくっつけられた島が十数個並んでいた。そのわりに敷地面積はあまり広くないので、そこに向かい合って椅子がおかれるとたちまち島と島の間のスペースは埋まり、後ろの人とはほぼ背中合わせの状態になってしまう。隣の椅子との間にもほとんど余裕はなく、一度座れば食べ終わるまで食堂を出られないような、なんとも窮屈感のある場所だ。
各々が自己紹介など雑談をしている中、隣りに座っていた派手なパーカーの男が声を掛けてきた。アシメにカットされた茶髪と片耳のピアスが印象的な男だ。
「俺、夏樹ってんだ」
背は良太郎より少し高めで、服の上からでもそこそこ筋肉質なのが分かる。良太郎が名乗ると、こんな広いキャンパスなのにどうして食堂は広くしないんだと、持っていたスポーツ飲料を一気に飲み干した。
「サークルとか決めた?」とは良太郎。
「まだ全然。小中高ってバスケやってたから入ろうとは思ってるけど。希無は?」
「俺もまだこれといったのは」ここで『世存』のことを話すのはなんとなく憚られた。
夏樹はそうか、と肘をついて入り口付近に目をやる。そこでは、きゃっきゃとはしゃぐ女子たちが集団をなしていた。初々しい態度から見るにおそらく同回生だろう。春先だというのに短めのスカートや、眩しいほどに明るい髪はあまり目に優しいとはいえない。
「希無はああいうの、あんまり好きじゃなさそうだな」
夏樹がそう言うのと良太郎が大学名物の激辛カレーを口に入れたのは、ほぼ同時だった。
「そうか? そんなことはないけど」
「くだらない、下品な女共だって、そういう顔してる」
「それは言いすぎだ」
ここの大学のカレーは入学前からテレビなどで紹介されていたので、良太郎は入学した暁には真っ先にここを訪れようと思っていた。話題になったのは味というより辛さだったため、良太郎がこのカレーを注文したときは、この集団が軽くざわついた。冒険者だ、男の子だと、口々勝手なことを言っていたような気がする。
事実、このカレーは辛い。
辛い物には目が無い良太郎がその経験から思う個人的な感想は、ある一定の辛さを超えた食べ物は、口に入れるとそれを認識する感覚は味覚ではなく痛覚へ変じるということだ。舌が麻痺することによって味わうことできなくなり、その結果痛みのみが伝わる。つまり、そうなった瞬間からその食べ物に対して味を求めることは無謀だというのが、良太郎の考えだ。
その点においてこのカレーは、荒れ狂う辛味の中にもまだカレー本来の味を感じる。テレビでリポートしていた芸人が「食べ物じゃない」なんて言っていたが、少なくとも良太郎にとってこの限界すれすれの辛さというのは癖になるものだった。人が感じる辛さの臨界点には個人差があり、それを引き上げることも経験次第でできるのかもしれない。噴出す汗に構わずカレーを口に運びながら、そんなことを思った。
「おまえ、汗大丈夫か?」
気づくと、夏樹が半笑いでこちらを見ていた。辛い物のことになると周りが見えなくなるのが今後の課題かもしれない。
「大丈夫」
「まあ、俺はああいうのあんま好きじゃないんだけどな」
それがさきほどの女子の集団に向けられたのものだと気づくまで、少し時間がかかった。次からこのカレーを食べるのは一人のときだけにしよう。
「え、そうなのか」
「そんなに意外か?」
「雌豚が挑発しやがって、全員俺の慰み者にしてやるって顔してた」
「それは言い過ぎだ」
先ほどから熱心に視線を送っているものだから、ちょっと声かけにいこうぜなんて言われることまで軽く想像してしまっていた。まあ、その際の返事はもちろん「ノー」だったが。人は見かけによらないとはよく言ったものだ。
と、そこで食堂内が少しざわついていることに気づく。辺りを見回してみると、カウンターのほうへ好奇の視線を注いでいる人たちがチラホラいる。
夏樹もその気配に気づいたようで、その視線の先を追う。
そこには、今まさに激辛カレーを受け取り隅の席に座った、年配の男の姿があった。
「あれ、どっかで」
夏樹はその人物が誰なのかを必死に思い出そうとしているようだ。腕を組んで首を傾げている。
その年配の男は、良太郎でさえ苦戦している激辛カレーを豪快に口へ放り込んでいる。汗一滴かかず、こともなげな様子だ。
「うちの学長ですね」
そう言ったのは、良太郎から見て夏樹の反対側に座る、もう一人の隣人だった。
「学食で食事するなんてすごいなあ。生徒と直に触れ合うってことなのかな、はは」
「えーと」
良太郎が名前を聞こうとすると、男は少し慌てたように身を強張らせた。
「あ、ごめんなさい。僕は木島民汰」
言ってペコリと頭を下げる。黒のショートヘアーに度の高そうな眼鏡をかけた、小柄な男だ。気恥ずかしそうに笑うその顔は、少しばかり幼く見える。
「みんた? ペットみたいな名前だな」
夏樹は快活に笑い、「俺は夏樹」と名乗った。良太郎もそれに続く。
「うちの学長って少し変わってますよね。旧日本軍の陸軍少佐と戦友だとか言ってましたし」
そういえば入学式でそんなことを言っていた。誇るでもなく威張るでもなく、いたって平凡な口調だったので余計に凄みを帯びていた。
「どうでもいいだろ。学長と関わることなんて俺の四年間のプランにないしな」あと四年も生きてるか怪しいし、と甚だ失礼なことを言う夏樹。
「もう四年間のプランが組まれていることに、俺は驚きだよ」
言って良太郎は、先ほどから食べ続けていたカレーをようやく平らげ、水を一気に流し込む。それを見た周りの人たちが「すごい!」「どうだった?」「汗やばいよ」「生きて」などあらゆる言葉を投げてくる。良太郎は若干顔を歪ませながら、普通の人は食べないほうがいいと一言置いた。
ガラガラという音がなり、カウンター口のシャッターが降りた。午後の四時、食堂終了の合図だった。
終了とはいっても、料理の提供はしないというだけであり、この場所は夜までしばらく空いている。最初よりは大分減ったが、未だあちこちで友人たちと雑談をしている姿が見受けられる。
夏樹が飲み会をしようと言い出したのは、俺たち全員が帰ろうと席を立ったそのときだった。
「来週の木曜、ちょうど一週間後にさ。英語のクラスなんだし、一年はこのあと授業ないし。みんな都合つくだろ?」
この集団は語学の個別クラスのメンバーだった。それは、毎週この曜日のこの時間、メンバー全員が同じ教室に集まるということになる。加えて木曜の一年の授業は語学が最後。集まる手間も省けるし、飲み会をやるなら確かに絶好の日といえるのかもしれない。
「いいねー! やろうやろう」
派手な化粧をした女がそう言って拳を上に突き上げた。メンバーは全員で二十人ほどなので、手近はところで飲み会をやるにはちょうどいいのだろう。
夏樹は早速その女と連絡先を交換している。良太郎としては、会った初日から飲み会の約束なんて難しいとも思っていたが、男子も女子も予想に反してノリ気なようで、ここぞとばかりに女子に声をかけ、携帯を突き出す輩もいる。入学したての勢いは伊達じゃないなと、少し俯瞰的なことを思う良太郎だった。
ワイワイと連絡先を交換するメンバーを横目に、良太郎は食堂に設置された大型液晶テレビを眺めることにした。画面では、円形の机で国会議員と専門家が若者の自殺について議論している。なかなか盛り上がりを見せる議論に、良太郎自身もその場に参加しているような気持ちになるが、食堂を見る限りそんな番組を見ている生徒は自分一人だけだと気づき、頭の中で築き上げた持論は発信する宛てもなく空を切った。
左手に堅いなにかが当たったのはまさにそのときだ。それまで熱心にテレビを見ていた良太郎は一瞬身を強張らせる。
見るとピンク色の携帯が手の甲に当たっていた。その持ち主の、じっとこちらを見つめている顔を見て初めて、自分が話しかけられていることに気づく。
「アドレス交換しない?」
ふわっとした黒のワンピースは、なびく度にナチュラルハーブのような香りがした。女は開いた携帯のレンズをこちらへ向けるようにして持ち上げる。
良太郎は「いいよ」とそれを快く承諾し携帯を取り出す。思えば、大学に来て初めて異性と連絡先を交換することになる。そう思うと少しだけくすぐったい。
「飲み会来るでしょ?」
「まだ分からない」
どうして、と問い詰めてくる女を良太郎は軽やかに受け流す。まだ『世存』からの連絡が来ていないのだ。この場で軽率なことを言っては後々に響く。口は災いの元なり、だ。
女は「来てよね」と一言置き、そそくさと良太郎の元を離れていった。積極的なのに無愛想というよく分からない女だった。
そうして一通り新入生の儀式が終わった。それを見計らって夏樹がパンと手を叩く。
「よし、じゃあ来週までにどっか店予約しとくから。みんな予定入れないでね」
はーい、というノリノリな返事で集団は解散することになった。食堂に入ったときと比べると、幾ばくか一人一人の距離が近くなっているような気がする。
『人間関係に困ることはないよ、絶対友達はできる。そういう場所だから』
姉の言葉が耳を打った。確かにその通りかもしれない。この分なら、いくらでも友人は作れそうだ。
「数だけなら、か」
食堂棟を出て良太郎は呟く。
自らの卑屈さに、どこからともなく苦笑がこぼれた。




