三
夢の精霊、などというものの存在を良太郎が初めて知ったのは、高校一年の春に遡る。
その日は部活動編成会があって、弓道部に入部することを決めていた良太郎は、おずおずと三年の教室へ入っていった。
幹部役員の自己紹介が終わり、一年が一人一人起立して自己紹介していく中、良太郎の番が回ってきた。
「はじめまして。国江田中から来ました希無良太郎です。中学時代は」と、そこまで言って良太郎の思考は停止する。それは、視界にあるものが映ったせいだ。
突然だが、皆さんは大勢の人前で何かを発表するとき、視線はどこに置いているだろうか。
ある一点を決めてそこに視線を置く人や、特定の場所は決めず泳がせながら話す人、そして皆の顔を眺め回し、話しかけるように話す人。様々なタイプの人がいるだろうが、良太郎はその中でも「ある一点に視線を置く」タイプだった。
立ち上がる瞬間、良太郎は視線を置く場所を決めた。その教室にあった教卓だ。その四つ角のうち右手前の角一点をひたすら見つめながら、短めに発表を終わらせようというのが良太郎の魂胆だった。
しかし発表の途中、突如網膜を直接貫くような青光が、どこからともなく良太郎を襲った。その摩訶不思議な光のおかげで、良太郎はたっぷり十秒間膠着したまま、言葉を発することができなかった。
先輩方からのフォローをありがたく受け取り、ようやく視界がはっきりしてきた良太郎が、次に教卓を見たとき―――。
そこには足を放り投げ、つまらなそうに教卓に座るそれがいた。
「……妖精」
この発言が後々の良太郎の高校生活を歪めていくことになるのだが、そのあたりの話は今は割愛する。
つまるところ、それは本当に妖精だった。
名をフィーネという。
人の心に住み着く夢の精霊。人が抱く夢を住みかとし、そこに根城を張って生活する生き物。
フィーネに纏わるあらゆる事象は、その夢の飼い主である良太郎しか感じることができない。彼女を見ることも出来なければ、それが発する声も聞くこともできない。彼女が使う超常的な力も何一つ、良太郎以外感じることできないのだった。
初めは動揺した。そんな童話の中にしか出てこないような生き物が、学校内であんなナチュラルに登場すると誰が思うだろうか。
事実良太郎はフィーネと出会ってから三ヶ月間、一言も口をきかなかった。フィーネが良太郎の前に出てくるのは気まぐれなので、初めのうちは幻覚だと思い込んでいたのだ。現実的な考え方を持った健全な男子高校生なら、恐らく誰もがそう思うだろう。良太郎もその枠に外れることはなかった。
けれど高校の三年間が終わって大学に入学しようという今、どういうわけか良太郎とフィーネの間には、切っても切れない縁が芽生えようとしていた。
さもお互いがパートナーであるかのように、その歩み寄りは、人間と精霊というより、人間と人間の関係へと発展しようとしていた。
決して消えることのない絆。
生と死を共にする存在。
そんな無根拠な思いが、良太郎の心のどこかに生まれていた。
大学に入学し、『世存』に入部を決めた瞬間、この関係の結末は決まっていたというのに。
藤間商店街は一つの道が短く、分岐点も無数にあるため、その内部はもはや迷路そのものだった。
道一本一本に番号が振られているわけでもないので、気づくと同じ場所をぐるぐる回っているなんてこともある。良太郎は方向音痴ではないが、初めて歩く道がこれほど入り組んでいる道では、店一つ見つけるにも相当の根気が要る。
辺りはすっかり夜の色に染め上げられていた。駅前だというのに都会の喧騒が皆無だということが、今更ながら不気味に思えてくる。街灯は相変わらず頼りなく光を発するばかりで、どの店も明かり一つ点いていない。やはりこの地域一帯は、店じまいをしたまま取り残された建物が軒を連ねる、ゴーストタウンのような場所で間違いないだろう。
良太郎の視界はフィーネの発する光のみが守っていた。彼女の光は暗闇の中でも毅然と辺りを照らし続けた。そのせいもあり、良太郎は疲れこそするものの、恐怖や不安などを抱くことは一切なかった。
そうして歩き始めて一時間が経とうとしていたときだ。良太郎は暗闇の中に、窓から僅かに白熱光をもらす店を見つけた。そのヨーロッパ風の外観の建物に、良太郎の心臓なドクンと大きな脈を打つ。
あのときの喫茶店だ。
良太郎は思わず脱力した。早く行きたいという焦燥より、店先に出ていた『OPEN』の文字が、心に安堵をもたらした。この時間になって一番気がかりだったのは、店が見つかるかどうかというより、店が開いているかどうかということだった。せっかく来ても、前のように開いていなければ元も子もない。
「喫茶店 角屋」
良太郎はドアに書かれていた店名を読み上げ、しっかりと記憶する。これで次来るときは下調べが出来そうだ。
「ここまで助かったよ、フィーネ」
「お礼なんていいって。早く入ろう、もう暗いし」
良太郎は若干の緊張を覚えつつ、ドアノブを押し開いた。
―――カラン。
ベルの音と共に店内に入る。
中にはテーブル席とカウンター席があった。一人だった良太郎はカウンター席に座ろうとして、ふと気がつく。
店員がいない。
通常であれば「いらっしゃい」などと言って客を出迎えそうなものだが、そもそも店員がいない。これは一体どういうことか。
「……」
良太郎は席にはつかず、店内を少し徘徊して店員を探す。カウンターからトイレ、調理場と見ていく。
途中、いつのまにかフィーネがいなくなっていることに気づいた。人前では良太郎もフィーネと会話はできない。それを予測して姿を消したのだろう。三年にも及ぶ付き合いなだけあって、手馴れたものだ。
結局どれだけ探そうとも、店員はおろか人っ子一人見つからなかった。
表の「OPEN」のプレート表示が間違っていただけだろうか。何かの拍子で「CLOSE」だったのがめくれてしまったということもある。
いや、それにしても電気をつけたまま無人というのはやはり腑に落ちない。どこかに出かけている可能性も考えられるが、鍵もかけず無用心すぎやしないか。
思考の波を彷徨いながら良太郎がカウンターに戻ると、
「ちょっと君、勝手に店内を歩き回られては困るな」
スラリとした体躯の若い男の姿が、そこにはあった。
男はカウンターに立ち、仏頂面でこちらを睨んでくる。
「あっ、すみません。誰もいなかったので」
「なるほど。君は中に誰もいなかったら、勝手に店内をあさるのか」
「いや、その」
良太郎が本気で焦っていると、男は軽く噴出した。
「はは、冗談だよ」あっさりと剣幕をおろし、笑みを浮かべる。「僕が無用心だった。少し買い物に出かけていたんだ」
整った顔立ちのその男は、笑うととても無邪気な少年のように見えた。
男はビニール袋から珈琲豆を次々と取り出していき、棚に置いてあった瓶詰めの豆とブレンドしている。ふわっと芳醇な香りが鼻をついた。
この男には見覚えがある。
間違いない。二週間前、薄暗い店内で見かけた男だ。
あまりにもあのときの雰囲気とは違いすぎて分からなくなるが、この心があるかないか分からないような瞳は変わっていない。良太郎には確信があった。
「こんな辺鄙な店に君らみたいな若人が来るとは、珍しいこともあるものだ。場所が場所な上、個人経営の喫茶店なんて若い人たちにはなかなか相手にしてもらえなくてね」
店主が「座ってくれ」と良太郎に席を勧めてくるので、それに従い腰を下ろす。メニューや水を差し出してくるが、それらが良太郎の目に留まることはなかった。
―――この人は今、なんと言った?
「小さい店だけど、珈琲の味だけはどこにも負けない。どれも自信作だぞ」
「あの」
良太郎は驚愕を覚えながら言葉を探す。けれど探せば探すほど、どういえばいいのかが分からなくなり、混乱は増すばかりだった。
「"たち"って、どういうことですか」やっと搾り出した言葉は、最もストレートに心を表したものだ。「俺は一人ですけど」
すると店主は「おや」という表情になる。
「君は旅人だろう」
「……旅人?」
「夢の精霊を宿した人のことだよ。ま、僕が勝手にそう呼んでるだけだけどね。だから君は一人じゃなくて、二人。精霊と人間は限りなく近い存在なんだ。彼らのことを犬や猫のようにでも思っていたかい?」
良太郎は言葉を失う。
いや、しかし不思議なことではないはずだ。
何を根拠に、精霊の存在を知っているのは自分だけだと思っていたのか。こんな不思議な生物がこの世に存在しているというのに、それに選ばれたのが人類で唯一、自分一人だとでも思っていたのか。これでは幼い頃に沸き起こる、「自分だけは特別」という無根拠な自信と同じではないか。
それに店主の口ぶりだと、フィーネたち精霊のことについて、この男は良太郎よりも深く知っているようだった。
良太郎は小さくため息を吐いた。ここに来るまでの疲労と自分の見識の狭さに対する嫌気が同時に出た感覚だった。
「その様子だと、君は彼らのことをあまり知らないようだ」
豆を挽くガリガリという音が店内に響き渡る。いまどき手動の豆挽きとは珍しい。
「……ん、もしかして君たちは」
店主は一瞬驚いた表情になったかと思うと、すぐさま元の穏やかさを取り戻した。心底奇妙な人だ。
「どうしました?」
「いや、なんでもない。それより、精霊さんは出てきてくれないのかな」
「呼べば出てくると思いますが」
良太郎は訝しむような目で店主を見る。精霊の実体を見ることができるということか。
「そんな警戒しないでくれ。ただの興味本意だよ。嫌ならいい」
そう言ったときだった。良太郎と店主の間にある机の上に、青い閃光と共に一人の精霊が姿を現した。
その精霊はテーブルに仁王立ちしながら、店主を正面から見上げる。
「フィーネ」
「おお!」
店主はカウンター越しに前のめりになり、フィーネに熱い視線を浴びせる。彼女が他人に見られるという経験がない良太郎にとっては、新鮮な反応だ。まあ、相手はどう考えてもただの一般人とはいえないだろうが。
フィーネの表情は、背中越しには確認することができない。けれど、少なくともご機嫌ではないということは良太郎にも分かった。
「貴方は何者?」
その声は、いつも良太郎と一緒に話すときの声とはまるで違っていた。相手を恫喝するような、低く暗い声。
初めて会ったとき、フィーネは心ここに在らずという有様で、冷たい目をしていた。人間という存在を心底軽蔑しているような目で、「滑稽ですね」などという言葉を良太郎に浴びせた。けれど今の彼女は、その時ともまた様子が違う。
これは相手に対する嫌悪でも軽蔑でもなく、畏怖だ。
「羨ましいなあ。こんな可愛い精霊さんが宿っているなんて」
店主はそんなフィーネの言葉に怯む様子もなく、「はい、お待ち」と淹れたての珈琲を良太郎に振舞った。
「話しを逸らさないで」彼女はあくまで険悪な雰囲気を発し続ける。「どうしてあなたは私が見えるの? 私たちのことを、どこまで知ってるの? 答えて」
店主は尚も平然としている。何食わぬ顔で、今度はフィーネの前に置いた小さめのカップに、ゆっくりホットミルク注いだ。
しばし妙な沈黙が流れる。
良太郎はその空気に耐えかね、カップを一度啜った。
その味は、この空気感では場違いとなるであろう「美味しい」という感嘆が、良太郎の口から思わず飛び出そうになるほど、優しい味だった。
フィーネは先ほどから体を強張らせ、店主を睨みつける。その店主はというと、自分も淹れたての珈琲を味わうべく、自分専用であろうマグカップを取り出し珈琲を注いだ。
やがて、店主が口を開く。
「僕は生まれてからずっと、精霊を宿した人間が分かったんだ。見た目とかじゃなく、雰囲気でね。どうしてなのかは僕自身未だに分からない。親だって普通の人間だしね。だから『僕が何者なのか』という質問には、申し訳ないけど、答えることができないんだよ。ごめんよ、精霊さん」
良太郎は店主の言葉を信じられなかった。
彼の表情には、申し訳なさなどというものが微塵も張り付いていない。むしろ、頭の中ではまったく別の何かを考えているような、そういう顔だ。
言葉の真偽を判断しようと口を開きかけたとき、フィーネが言った。
「私たちのことをどこまで知っているの」
その"私たち"というのは、良太郎とフィーネのことなのか、それとも精霊たちのことを指しているのか、良太郎には分からない。
だから開きかけた口を閉じ、押し黙る。
「全部、知ってるよ」
「どこまで知って」
言ってフィーネは口を噤んだ。まるで失言をしてしまったときのような反応だ。
店主はやわらかい表情を崩さず、
「それを言って困るのはあなただと思うが、このまま言ってしまっていいのかい」
「……やめて」
打って変わって、今度は懇願するように俯いて、フィーネは言う。肩の震えがさっきより増しているのが分かる。普段は怒りや哀しみなどの感情をほとんど出さない彼女が、今日はえらく情緒不安定だ。一体何が彼女をそうさせているのだろう。
「それだけはお願い」
良太郎には何のことだかさっぱりだが、店主の言葉はフィーネを動揺させるには十分だったようだ。先ほどまで凛とした背中を良太郎に向けていたフィーネだったが、今は肩が震えているのが分かる。何か良太郎に聞かれてはまずいことがあるのはまず間違いない。
「君の名前を教えてくれないか」
その言葉はフィーネにではなく、良太郎に向けられたものだった。急に話しをふられたので、一瞬体がこわばる。
「希無、良太郎です。希望の無い良い太郎と書いて、希無良太郎」
「希無良太郎。良い名前だね。それじゃあ希無君。選択権は君に預けよう」店主は三杯目の珈琲を注ぐところだった。良太郎も勧められるが、丁重にお断りする。「彼女の正体を、君は知りたいかい」
彼女とは、もちろんフィーネのことを指している。
フィーネの正体とは何だろう。
彼女は夢の精霊で、人の抱く夢を住みかとして、人と共存する生き物。言語が扱えて、夢の飼い主にしか存在を認知されず、さながら彼女自身が夢のような存在だ。
フィーネが何者なのかという問いに良太郎が答えるとするなら、「精霊」と一言答えるだけだろう。
出会った当初はどこから来て何の目的で自分の近くにいるのか、なんてことが嫌というほど気になったが、なぜだろう。今はそんなことはどうでもいいと思えている自分がいた。もちろん、全く気にならないというわけではない。仲が良くなるにつれ、彼女のことを知りたいという欲求は常に胸の中にある。
けれど良太郎はそれ以上に、フィーネのことを大切に思っている。それは例えば、仲良くなった友達の家柄や身なりが気にならなくなるような感覚と似ている。そんな体裁ではなく、一対一の心を通わせあう存在として、良太郎はフィーネとの関係を築いていた。
フィーネが不安そうに、肩越しにこちらを見つめる。その崩れてしまいそうな顔ににっと笑い返して、良太郎は言った。
「知りたいけど、今は知らなくていいです」しっかりと店主の目を見つめる。「彼女が話してくれるまで待ちます。その前に他人から聞いてしまうのは、なにか間違っている気がするから」
その意を決した言葉に、店主は分かりきっていたといわんばかりの温かい笑みを浮かべた。良太郎としては、少し肩透かしをくらった気持ちになる。
「そうか」言って、店主はすっと立ちあがる。「その絆の起源を聞かせてもらいたいところだが、これ以上追求しては僕が悪者になってしまいそうだ」
店主はつかつかと歩きながら入り口のドアを開け、プレートを「CLOSE」にめくった。
「今日のところは店じまいだ」
「え、もうですか。まだ聞きたいことが」
「時計を見てごらん」
腕時計を見ると午後の十時を回っていた。ここに着いたのは六時過ぎだったはずが、もう四時間も経ったことになる。
「……」
「君が聞きたいのも、その辺のことなんだろうけどね。今日のところはこれでお開きにさせてくれ」
気づくと、またしてもフィーネは消えてしまっていた。彼女の中でも色々と整理するところが必要なのだろう。良太郎はあえて呼ぶことはしなかった。
「……わかりました。ごちそうさまです」
良太郎は立ち上がり、ドアをくぐって外に出た。冬の名残を含んだ風が吹きつけ、底冷えがした。
「一つ」と、そこで店主に呼び止められる。「僕は、これから何があっても君たちの味方だ。それだけは、彼女にも伝えておいてくれると嬉しい」
店主は言って、「聞いてくれてるといいんだけどね」と付け加えた。
―――味方。
そんな言葉、日常で言われることになろうとは思ってもみなかった。どんなシチュエーションにおいて味方になるのかも分からない。
けれどそれを言うなら、良太郎はフィーネと出会った時点で、もはや自分のいる場所が百パーセント平凡な日常とはいえないのかもしれなかった。
「はい。しっかり伝えておきます」
「……ありがとう」
そこで浮かべた笑みには、今度こそ心底安心しきったような人間味が感じられた。つられて良太郎も笑顔になる。
この店は予想通り、不思議な店だ。
そしてそれ以上に店主は奇妙な人だ。
これもまた、一つの縁。
「じゃあ、また来ます」
そう言い残し、良太郎は真っ暗闇の中ひとり歩き出す。
夜空にそっと佇む望月が、道しるべのように夜道を照らしていた。




