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良太郎の通学路は、アパートから徒歩十五分かけて駅まで行き、二十分ほど電車に揺られ、着いた駅から更に十分歩いてようやく大学へ着くという、比較的長めなものだ。
田舎に住んでいるときの移動手段はほとんど車だったため、長い距離を徒歩と電車だけで移動するのは、良太郎としてはあまり好ましくなかった。
ただでさえ人が多い都会で、毎日その中を長い時間かけて歩き、ぎゅうぎゅうの電車に押し込まれるなど拷問だと思った。姉には、「最初のうちは目新しいものばかりだからいいかもしんないけど、後々絶対めんどうになるよ」と言われたが、全くそんなことはない。もう今日の入学式に行くだけでも十分億劫だった。この先、この通学路を毎日通い続けられるか疑問に思うばかりだ。
しかし、そんな良太郎でも、一人暮しをすることには様々な期待を抱いていた。
引越しが済み、手伝ってくれた家族に別れを告げた翌日、良太郎はすぐさま都会の街を探索に出た。病院や図書館、市役所、警察署などの公的機関からスーパーや薬局などの小売店まで一つ一つ見て歩き、新生活の妄想を広げていた。
その最中見つけた一軒の喫茶店。裏通りの一角にひっそりと店を構えるその佇まいは、良太郎の好奇心を大いに刺激した。
近づいて入り口の前に立つ。ドアのプレートは『CLOSE』となっていて、閉店中だったようだが、大人しく帰るのは悔しかったので、窓からこっそり中を覗いてみた。
店内に明かりはついなかった。しかし、一人の若い男がいるのを良太郎は見た。
目と目が合う。
直後、見てはいけないものを見てしまったときのような焦燥が良太郎を襲った。わけもわからないままその場から逃げ出し、大通りをひたすら自宅に向かって走った。何か明確な理由があったわけではない。言うなれば、反射的に体が動いてしまったという感覚だ。その男の瞳を見ていられなくて、その男を感じていられなくて、自分でもわけがわからなかったが、無我夢中で走った。
その日以来、ずっとその店のことが気になっているものの、なかなか足を運ぶことができないでいた。恐怖とも奇怪とも違う、今まで感じたことのない感覚をどう扱っていいかがわからなかった。
しかし、いずれはその店に出向くことになる。なんとなくだったが、そんな想いが心の隅に残った。
キャンパスから締め出されるように這い出た良太郎は、無事家の最寄駅に着いていた。時間帯的には帰宅ラッシュよりやや早めだったため、電車での混雑はなんとか回避することができた。流石にガラガラの田舎のローカル線のようにとまではいかなかったが、少なくとも人と人が接触せずに乗ることができるという事実は、良太郎の心に仄かな安心感を抱かせた。
駅を出て腕時計を見ると、時刻は午後五時を過ぎたところだ。
以前あの喫茶店を訪れたのは真昼間の一時ごろだったため、昼休憩だった可能性もある。この時間帯なら、もしかしたら開いているかもしれない。
思い至った良太郎は、駅を出て真っ直ぐ伸びる大通りからわき道へ入り、小さな裏通りに出た。
この通りに来るのは、あの日以来約二週間ぶりになる。
以前来たのは昼方だったため、春のやんわりとした陽光が通り全体を照らしていた。多少大通りより薄暗くはあったが、明るく人通りも多かったせいか、ごく一般的な商店街と変わらない、心中穏やかに辺りを眺めながら歩くことができた。
しかし、いまは日も傾きかけた午後五時過ぎ。通りに踏み入った瞬間、良太郎の背筋は凍りつく。
通りを歩く者は、誰一人いなかった。
大通りから一本隣りの通りに入っただけだというのに、不気味なほどの静寂が辺り一体を包んでいる。呉服店や小物店、古書店、ラーメン屋などの明かりは一切点いておらず、どこもシャッターを下ろしている。かなり離れた間隔で置かれた街灯は、うっすらと前方を照射しているが、そのぼやけた明かりが気味の悪さを助長させているようで、胃のねじれるような気持ちになる。
(馬鹿、怖がるな。今日こそあの店に行くんだ)
良太郎は唾を飲み込み、大きく深呼吸をすると、意を決して歩を進めた。
びくつきながら歩き進むこと数分、良太郎は電柱の横に、あるものを発見する。
「……看板?」
目を細めて凝視すると、高さ二メートル程の木板が電柱に立てかけられていた。
そこには、古ぼけた黒い文字で『藤間商店街』と書かれている。ここの通りの名前なのだろうか。看板にしては少し小さい上、そもそもこんな位置では看板の役目を果たしているとは到底いえないが。
と、そこで良太郎はもう一つ、看板の影になるように積まれていた雑誌束に目をやる。このご時勢にこんなものが堂々と不法投棄されているのは気になったが、良太郎はその一番上に置かれていたチラシに目を止めた。
「へえ」
人ごみで活気溢れる商店街の様子が、色とりどりの色彩絵の具で描かれていた。建物の外観から見るに、この商店街のものだろう。もちろんプリントされたものだろうが、それにしてもよく描けている。今はもうほとんどの店が閉まっているが、その色彩画の中の人々は皆、生き生きとした商店街の空気を楽しんでいるようだ。この物寂しい場所にも、そんな全盛期時代があったということだろうか。
「フィーネ」
良太郎が呟くようにそう言うと、薄暗かった視界に蒼く壮麗な光が煌いた。そのまま球体を描くように広がった光の粒子は、突如良太郎の目の前に現れた手のひらサイズの少女の元へ、まるで親の元へ帰る雛鳥のように集まり、収束していく。
純白の肌に短く整えられたウォーターブルーの髪と、伏し目がちな瞳。白のワンピースを着ていて、キラキラした粒子が体の周りを戯れるように取り巻いている。
良太郎の鼻先三寸を浮遊するその妖精―――フィーネは、背中の羽を二、三度羽ばたかせると、良太郎の肩にちょこっと座った。
「なに?」
「余計燃えてきた。この絵見てみろよ」
良太郎は絵をフィーネに見せる。彼女の光によって、先ほどまでは薄く暗くてはっきり見えなかった絵が明瞭な色を帯びていく。当時の盛況ぶりがこちらまで伝わってくるようだ。
「昔のこの通りの風景だ。たぶんここは、デパートとか百貨店の建造によって、時代の流れの中風化していった地域なんじゃないかな。看板すら出てないところを見ると、たぶんどの店ももうやってない。時代の波を潜り抜けられなかった場所、藤間商店街」
「ふうん。それで?」
「あの喫茶店だよ。こんな通りで未だに営業してるあの店、余計に気になるだろ。まあ、正確には今でも本当にやってるのかはわからないけどさ。でも看板は出てたし、人もいた」
「不気味な人が、でしょ」
「あの時はちょっとびっくりしただけだって。ちゃんと会ってみるまでどんな人か分からないし、俺はあの店が気に入った。なんとしても今日行きたい」
「……だから?」
「ちょっと道を照らしてくれ」
藤間商店街は、一本の長い道ではなかった。
良太郎はこの道を「大通りの一本横の道」と記憶していたのだが、この裏通りに入ってすぐ丁字路にぶつかってしまった。油断していると現在地を見失いそうになる、まさにラビリンス構造だ。二週間前来たときは、通りに入った直後、たまたま件の喫茶店を見つけただけだったので、よく構造を理解できていなかった。
「流石にこんな複雑な道になってるとは思わなかった。これじゃあどこからどこまでが『藤間商店街』なんだか分かったもんじゃないな、はは」
「……はぁ。そんなことだろうとは思ったけどさ」
呆れながらも、フィーネは一度大きく羽を羽ばたかせた。彼女の体を纏うように包んでいた光の粒子が、辺り一帯に大きく散布する。今にも割れそうなビルの窓ガラスや、さび付いた老舗の取っ手が露になる。
「助かる」
視界が良くなり、大分歩きやすくなった。これで店探しが格段にやりやすくなるだろう。
良太郎は逸る気持ちを抑えきれず、進める足を速めた。
「それにしても、どうしてあんな店に行きたがるの? ただの喫茶店なんて、別段珍しくもないじゃない」
「そうなんだけど……なんか雰囲気が気に入ったっていうのかな」
「それにしたって、今日じゃなくてもいいでしょ。もう遅いのに」
「いや、今日がいい。この商店街についても色々聞いてみたいし。思い立ったが吉日だ」
商店街について知りたいという知識欲も、なるべく早く行ってみたいという好奇心も、どちらも本物だ。
しかしその実、良太郎はこのときの自分を動かすものが何なのか、自分でもよく分かっていなかった。前回といい、今回といい、あの喫茶店に関することになるといつもこうだ。不可解な情動に身を任せてしまいそうになる。これがどういう意味を持つのか分からないが、だからといってそれに逆らおうという気持ちにもならない。これも二週間前、アノ男と目が合ったときのような、経験したことのない気持ちだった。
「もう、しょうがないな。付き合うよ」
「助かるよ」
礼だといわんばかりに、良太郎はフィーネの頭を指で撫でるのだった。




