一
キャンパス内が白いテントと誘導看板、それを持った学生たちでごった返している中、良太郎は一人歩いていた。
大学の入学式というのは、良太郎が思っていた以上の盛り上がりを見せるようで、キャンパスの通路という通路は各サークルの勧誘員と、それに捕まる新入生たちで埋め尽くされている。
空は晴天で桜も満開の、入学式をするならまさに今日を置いて他になしとさえいえる日でも、これほどまでに人ごみに溢れているとそれら全てに嫌気がさしてくる。先ほどから声を掛けられては丁重に断るということを、もう何十回繰り返しているだろうか。どこか一息つける場所を探すも、ここの大学は馬鹿みたいに敷地面積が広く、この濁流のような人波が止む気配はないため、場所一つ探すのにも一苦労だ。入学する前はあれほど楽しみにしていた広く綺麗なキャンパスに、早くも嫌気が差し始めている自分に気づき、良太郎は軽く嘆息した。
イライラしつつも更にそうして歩くこと十数分、目的がサークル探索から帰路探索へと移り変わろうとしていたとき、良太郎が見つけたのは一般的な白いテントとは大きく姿を異した、奇妙なテントだった。
いや、それをテントと呼んでいいのかは分からない。
テントをテントたらしめる屋根部分は一畳ほどの風呂敷でまかなわれていて、それを支える四つの柱は竹の棒。歩いている道中、幾度と見てきた鉄パイプと皮製テントとはあまりにかけ離れている。これでは、立地がキャンパスの隅ということもあり、馬でも飼っているのかと勘違いしそうになるが、その風呂敷の下にある机とパイプ椅子、それに座る一人の女がその線を否定していた。さらに、良太郎の位置からではよく見えないが、その机の上にはハンドタオルほどの大きさの黒板が立てられていて、なにやら文字が書いてあるようだ。
こんな場所にテントを置くなんて相当変わっている。
興味を引かれた良太郎は、何かに導かれるようにそのテントへと歩を伸ばした。距離が近づくにつれ、よく見えなかった黒板の文字がうっすらと見えてくる。
『文芸同好会 世存』
テーブルの上に置かれた黒板には、白いチョークでそう書かれていた。どうやら同好会のテントには違いないようだ。
しかしどういうことだろう。これは新入生勧誘のためのものなのだろうか。それとも何か別の目的で設置したものだろうか。もし前者だとするなら、こんな人気のない場所で勧誘とはどういう意図あってのことだろう。文芸同好会と聞いて活気溢れる部活は想像できないが、それでも勧誘するからにはもっと派手にやってもいい気がする。これでは進入部員を入れる気が全く感じられない。むしろ、入らなくて結構と言わんばかりだ。
一歩一歩、ゆっくりと歩を進めていた良太郎は、ついに頭上に紫紺の布が広がる位置までやってきた。しかし、眼前の椅子に座る女はどれだけ近づこうともぴくりとも動かない。こちらを確認する素振りすら見せないまま、テーブルの紙に視線を落とし、ペンを走らせている。
良太郎が何を書いているのか覗こうとしたとき―――。
「あっ……」
女の視線が良太郎を射抜いた。肩にかかるセミロングの髪を風になびかせ、黒縁眼鏡の奥から覗くその瞳に、良太郎は一瞬たじろいだ。絵に描いたような美人だ。こんな場所に一人でいては、調子に乗った学生たちが言い寄ってくるに違いない。
「なに」
「いや、何してるのかなと思いまして」
「見て分かるでしょ。百マス計算」
それは確かに見れば分かる。良太郎が問いたかったのはなぜ今、こんな場所で百マス計算なのかということだ。サークル勧誘なら他にやることがあるはずだが……いや、こんな辺鄙な場所にテントを置くくらいだ。常識で計れない何かがこの同好会にはあるのかもしれない。いや、あるに違いない。
「何かあるんですか、このプリント」
思ったことがそのまま口を吐いた。あまりに無骨すぎる言い方だったかもしれない。
その女は不思議そうに良太郎を見上げる。
「何かって、どういうこと? 普通の百マス計算だけれど」
「いや、その、何かの研究とか。脳の使われていない領域を使えるようにするとか」
「? そんな特別な事情はないよ。これはただの百マス計算」女はそうとだけ言うとすぐさま作業に戻ろうとする。見てみると本当にただの百マス計算のようだ。
息を吐いて、良太郎は心を整える。そんなことを聞きに来たわけではない。
「えっと、俺、入部希望なんですけど」
直後、女がかすかに嫌そうな顔をしたのを、良太郎は見逃さなかった。様々な要素から検証するに、間違いない。この女は、新入部員を勧誘する気がない。
「……そう」しかしその女はそう言うと、机の下に置いてあった鞄から一枚のプリントを取り出した。
「入部……審査書?」
B5サイズの用紙に縦に印刷されたプリントの上部には、大きな字でそう書かれていた。さらにそのプリントは上下で別れていて、上半分は質問項目、下半分は自由記入欄となっている。
「うん。質問項目30点に自由記入欄30点、計60点満点で審査するから」
良太郎はその大きめのプリントを見回す。質問項目には、「志望動機」や「好きな作家」などの定番といえるものから、「雨についてどう思う?」「お金より大事なものは?」「人間性は継承されると思う?」「夢って何?」「自分を色で例えて真っ先に消えるのは何色?」など、どういう意図があっての質問だか計りかねるような質問が全30問、ずらりと並んでいた。一問あたりの解答欄もかなり広い。
「えと、自由記入欄とはなんでしょう」
「何を書いてもいいところ」
「本当に何を書いてもいいんですか?」
「そう」
何を書いてもいいのに採点されるということを、良太郎は不思議に思う。何をどう採点されるのだろうか。
「……これを提出しないと、入部できないんですか?」
「そう、残念だけど」
ここに来るまで色んなサークルで勧誘を受けてきたが、こんな物々しい書類を渡されたことなんてない。常識的に考えれば、こんな面倒そうな書類を、気分が浮ついている新入生たちに見せたところで、マイナスにしか働かないのは自明だからだろう。
しかし、このとき既に良太郎は、何が何でもこの『世存』という同好会に入ろうと思っていた。とりあえず入ってみる、なんていう気持ちではない。どのサークルにもない魅力がここにはある。そんな直感めいたものが、良太郎にはあった。
「これ、ここで書いてもいいですか?」良太郎はそう言って持っていたトートバッグから筆記用具を取り出した。
「え」
「あ、家で書いてきたほうがいいんでしょうか」
「いえ、そういうわけではないけれど……」
「?」
なぜ女は目を泳がせているのだろうと良太郎は思う。ここのルールに則って入部しようというのが、なにかおかしいのだろうか。
「これを書かないと入部できないんですよね?」確認の意を込めて、良太郎はもう一度問う。
「うん」
「じゃあ、書きますよ。審査してください」
「……」
またしても黙る女。会ったときの凛とした様子とは違う、少し戸惑うような仕草は、その綺麗な容姿とも相まって十分に男心をくすぐるものだ。二の句を継ぐことが出来ない良太郎は、その様子を堪能しながら、しばし女の返答を待つことにした。
しかし思惑に反して、意外にも女はすぐに切り出した。
「……いえ、ごめんなさい。こんな書類を渡して素直に書く人なんて、いなかったから」
そう言う女の表情は、心なしか、少し綻んだようにも見えた。
「ここで書いていいよ。そのほうが後々楽だから」女はそう言って隣にあったもう一つの椅子を引いて、良太郎を招いた。
「ありがとうございます」
ここまでの道中出会わなかっただけで、大学の同好会ではこういうプリントの提出を義務付けることが普通にあるのかと良太郎は思っていたが、やはりこのサークルが異常だったようだ。それに言われてみれば、さっきすれ違った生徒たちは口々文句を垂れていたような気がしないでもない。彼らはもしかして、ここで「入部審査書」を渡された人たちだったのだろうか。もしそうなら、良太郎が入部したいと言ったときに嫌な顔をしたのも納得がいく。
しかし、全ては良太郎の憶測でしかない。
疑問は他にも色々残っていたが、今考えていても仕方がない。良太郎は女の隣に座ると、質問項目を一つ一つ埋めていくことにした。
その間その女は、自分のことを少しずつ話し始めた。良太郎が審査書に記入した氏名欄をチラリと覗く。
「希無良太郎君ね。私は雪白冷夏。今年で二回生になります」冷夏は座ったまま背筋を伸ばし、軽く一礼する。
良太郎も「あ、こちらこそ」と慌てて頭を下げた。まだ入部も決まっていないため、少し複雑な気持ちになる。
ニ回生。良太郎の一つ上の学年。
端整な顔立ちと気品ある佇まいからみるに、正直もっと上だろうというのが良太郎の予想だった。年齢はいくつなのか気になったが、流石に聞く勇気はない。
「この同好会はね、今年新設するの。うちの大学には文芸同好会がずっとなかったから」
「へえ、そうだったんですか」
正直驚いていた。良太郎は大学に入学したら文芸系のサークルに入ろうと心に決めていた。しかし冷夏の話からすると、過去この大学にそのようなサークルは出来たことがないという。そして良太郎が入学する今年、初めて大学が公認する同好会として、文芸同好会ができたのだそうだ。これは良太郎としては奇遇というか、半ば運命的な何かを感じなくもない。
「まあ、うちは大学公認のものじゃないんだけどね」変わらずペンを走らせ続ける(絶対に腕はしびれているはずだ)冷夏は、ボソリとこぼした。
「え、違うんですか?」
「うちが公認だなんて言ってないよ」
良太郎は閉口するしかない。冷夏の口ぶりでは、ここがその公認の文芸同好会だと誰もが思うはずだ。
「じゃあ、公認のところはまた別に?」
「うん、『カナリア』ってところ。ここに来るまで見かけなかったかな」
「あー」
良太郎はその名前を知っていた。というより、ここに来る途中勧誘を受けたサークルの一つだ。
そこの部長は非常に人当たりの良い人だったから覚えている。本を楽しもう、文豪になろうと熱心に誘ってくるものだから、文芸サークルを探していた良太郎が断るべくもないはずだったが、どことなく空気が合わないような気がして、連絡先を伝えただけでそそくさとその場を後にしていた。
それにしても……。
「あれ、でも今年新設だなんて書いてありませんでしたよ。歴史あるサークルだから安心、とか」
「なにそれ、悪徳企業の触れ込みみたいだね」無表情のまま冷夏は続ける。「まあでも、そういう人なんだよ。あの人は」
「あの人って、あの部長さんのことですか?」
「うん、あの人も私と同じニ回生。だからよく知ってる。『何事もみんなと楽しく』がモットーみたいな人だよ」
その冷夏の言葉は、親しみと敵意を孕んでいた。二人の間にはただの同回生という関係以外に特別な何かがあるのかもしれない。
「どうして先輩は一緒にやらなかったんですか?」
走らせていたペンを停止させる冷夏。
……地雷を踏んでしまったかもしれない。
良太郎は質問したことを少し後悔した。けれど気になっていたところなのであえて謝罪はせず、ただじっと返答を待つ。
少しの間が空いて、
「……べつに特別な理由はないんじゃないかな」冷夏は表情を変えないままそう言い、再びものすごい速度で百マス計算を始めた。
「この同好会は先輩が作ったんじゃないんですか?」
「私は書記。部長はまた別にいるよ。今日は大学に来ていないけれど」
今年から新設する同好会の部長が新入生勧誘に参加しないとは何事だと、良太郎は思った。その部長もきっと、冷夏以上に変わった人に違いない。
「そうですか。会ってみたかったです」
「それは残念だったね。まあ、奇妙な人だけれど、悪い人じゃないよ。うちの大学で文芸をやろうっていうくらいだから。ほら、うちの大学ってそういう分野はからきしじゃない」
「確かに学部もコンピュータ系ばかりですしね。文芸っていうジャンルに疎いのも分かります」
「……そうだね。一回生での一年間で、それは嫌というほど思い知らされた」
冷夏の話によると、ここの大学では本に興味があるという人が極端に少ないらしい。それは趣味として本を読む人は多分にいるのだろうけれど、読み手から書き手へなろうと志す人となると、途端にその数が激減してしまい、微々たるものになってしまうのだという。
「みんな無気力なのよ」冷夏小さくため息を吐いた。
しかしどうだろう。彼女はやや見識が狭いともいえないだろうかと、良太郎は思う。
大学の一学年あたりの生徒数は、中学や高校のそれと比にならない。特にこの大学は、毎年定員の三倍以上の人数をとるものだから、その数は言わずもがな。それらの生徒全員と冷夏は面識があり、かつ一人一人文芸に興味があるかどうかを知るなんていうのは不可能に近い。きっと身近な人たちだけを見て、言っているのだろう。良太郎はそう思った。
「俺は、文芸に興味がある人って、絶対もっといると思うんです」ひたすらに百マス計算をしている冷夏の横に座り、審査書を書きながら良太郎は言った。傍から見れば同級生同士に見えなくもないのではないだろうか。そう思うと、少しだけ照れる。「ただ、俺の勝手なイメージなんですけど、本が好きな人って結構内気になりがちじゃないですか。もちろんそうじゃない人はいますけど、文芸サークルに入りたいってほど好きな人って、たぶん相当、本の世界に魅了された経験のある人だと思います。だから現実となると、途端に引っ込み思案になってしまって、行動に移せない。そんな人が、この大学にもいっぱいいたんじゃないですかね」
話している途中、良太郎は、どうして自分が今こんなことを言っているのか分からなくなった。
過去、この大学で文芸部を作りたくても作れなかった人たちの言い訳を、なぜ自分がしているのだろう。
「……そうね」冷夏は表情を変えないまま、計算用紙をめくる。話しながらだというのに、ものすごい回答速度だ。「でも、思っているだけじゃだめなんだよ。私たちはもっと早く、行動することの大切さを知るべきだったの。思っているだけじゃ何も変わらない。何も伝わらない。世界も……何も変わらないもの」
最後のほうは自分に言い聞かせているような言い方だった。私たち、とは誰のことを指すのか。その言葉が孕む冷夏の想いは、良太郎には分からない。
けれどその言葉に、良太郎ははっとさせられた。やらないだけで文芸部に入りたい人はいるのではないか。ついさっきまでは心の底からそう思っていた。
しかし冷夏の言う通りだ。そんなものには何の意味もない。思っているだけの人がいくらいたところで、現実は何も変わらない。行動することが何より大切だということは、良太郎は自分が一番よく分かっていると思っていたが、ついの今まで一体何を言っていたのだろうか。
この人は自分に近い人種だ。このとき、良太郎は強くそう感じた。
「さて、と」冷夏はペンを止めて良太郎を振り向く。
視線が合う。
良太郎は、今日冷夏と会ってから初めて、まじまじと彼女の顔を見た。
ずっと気が付かなかったが、この見る人全てを虜にするほどの美女は、とても哀しそうな顔をしていた。
傍目から見ると普通の表情をしているように見えるが、良太郎には彼女の気持ちが空気として伝わってくるようだった。
この涼んだ顔の裏にどんな想いを秘めているのだろう。まるで本当の笑い方を忘れてしまったような、そんな顔。その瞳に刻み込まれた哀愁は、良太郎の心の奥深くに、杭として打ち込まれるようだった。
「審査書、書き終わった?」
「あ、はい」
「どうしたの」
「いえ、なんでもありません」良太郎は記述項目を全て黒く埋めたプリントを、冷夏に渡した。「審査、よろしくお願いします」
「……確かに受け取りました」
冷夏はさっと目を通しただけでじっくり読むこともせず、すぐに鞄の中にしまってしまった。てっきりこの場であれこれ聞かれると思っていたので、少し拍子抜けだ。
「ありがとう、本当に」
「え、お礼なんていいですよ。俺が入りたいと思っただけなんですから」思いもがけない冷夏の言葉に、良太郎は動揺する。
冷夏は良太郎を見上げ「……うん、そうだね」と頷いた。
そこで良太郎は初めて、冷夏のかすかな微笑を見た。
その笑みは、ひまわりみたいに温かく、けれどやっぱり、夕暮れのように寂しい笑顔だった。
「じゃあ、結果は書いてくれたアドレスに送るから」
「はい。お願いします」良太郎はトートバッグに荷物を押し込み、席を立つ。「あ、そういえば」
「なに?」
「審査書のことなんですけど、点数があるってことは、合格点とかあるんですよね」
落ちるかもしれないとは思っていない。いや、むしろ自分は完全回答をしたという自負が、良太郎にはある。
けれど一応、採点されるからには、その辺の基準を聞いておきたかった。
「ああ、うん。あるよ」
「何点ですか?」
先輩は、七夕にそうするように、短冊に『希無良太郎』と名前を書くと、テントを支える四つの柱である笹に空いていた穴に、紐で吊るした。良太郎は若干気恥ずかしい気持ちになるが、どうしてそんなことをするのかなんて質問はしない。審査書と同じように、これもここが決めた一つのルールなのだろうし、何より、この奇妙な同好会に認められたような気がして、嬉しかったからだ。
吊るし終え、ふうっと満足げに息を吐いて、冷夏は言った。
「60点だよ」




