第8話 好きなら分かるやろ
けんじとの電話を切ったあとも、ながとは眠れなかった。
「俺が悪いんか……?」
布団の中で何度も考える。
さくらの職場まで行った。
会いたいと言った。
付き合いたいと言った。
どれも、自分では間違ったことをしているつもりはなかった。
好きな女に会いに行く。
それの何が悪い。
「好きなら、会いたいやろ」
ながとはそう呟いた。
そしてスマホを手に取る。
さくらの名前を開く。
メッセージを打つ。
『今日、急に行ってごめんな』
少し考える。
続けて、
『でも、俺は本気やから』
送信した。
返信は来なかった。
「……寝たんかな」
ながとはスマホを枕元に置いた。
だが、数分後にはまた確認していた。
既読はついていない。
それが気に入らなかった。
「なんで返事せえへんねん」
今度は電話をかけようとした。
指が発信ボタンの上で止まる。
けんじの言葉が頭に浮かんだ。
――それ、もうやめろ。
「……」
ながとは電話をやめた。
その代わり、
『おやすみ』
と送った。
*
翌朝。
さくらはスマホを見るのが怖かった。
昨夜のメッセージ。
返信していない。
それでも、また何か来ている気がした。
画面を開く。
通知はない。
少しだけ安心する。
だが、会社へ行く準備をしていると、スマホが鳴った。
ながとだった。
さくらは画面を見つめる。
出るべきか。
出ないべきか。
迷った。
着信が止まる。
数秒後。
また鳴る。
「……」
さくらは電話を取った。
「もしもし」
『おはよう』
「おはようございます」
『今日仕事?』
「はい」
『何時に終わる?』
「……分からないです」
『昨日のこと、怒ってる?』
「怒ってないです」
『じゃあ今日会おうや』
「今日は無理です」
『なんで?』
「仕事があるので」
『終わってからでええやん』
さくらは黙った。
『なあ』
「……はい」
『俺のこと、そんなに嫌?』
「そういうことじゃ……」
『じゃあ、なんで会われへんの?』
答えられない。
本当の理由を言えばいい。
怖いから。
会いたくないから。
家にも来てほしくないから。
でも、それを言ったら――
ながとがどう反応するか分からない。
「……また今度にしましょう」
『今度っていつ?』
「分かりません」
『じゃあ今日でええやん』
「……」
『好きやったら会うやろ?』
さくらの喉が詰まった。
好きではない。
でも、それを言えない。
「仕事に行かないと……」
『分かった』
電話が切れた。
さくらは大きく息を吐いた。
それから、玄関を出る前に一度立ち止まった。
そして――
昨日まで使っていた駅とは反対方向へ歩いた。
*
会社。
昼休み。
あやが、さくらの顔を見て言った。
「寝てない?」
「……ちょっと」
「また?」
さくらは頷いた。
「昨日、会社の前まで来たんでしょ?」
「うん」
「今日も連絡?」
「電話があった」
「何て?」
さくらはしばらく黙った。
「……好きなら会うやろって」
あやは眉をひそめた。
「それ、さくらが好きかどうかの話じゃないよね」
「うん……」
「会いたくないって言えないの?」
「言ったら……」
さくらは言葉を止めた。
「……怖い」
あやは黙った。
さくらは自分でも驚いていた。
こんなに誰かを怖いと思ったことはなかった。
大声を出されたわけでもない。
殴られたわけでもない。
脅迫されたわけでもない。
なのに――
拒絶することだけが、どうしても怖かった。
だから、また自分の予定を変えてしまう。
また友達に相談してしまう。
また帰り道を変えてしまう。
自分の生活が少しずつ、ながとの存在によって変えられていた。
*
その日の夕方。
ながとは、たけしのところへ行った。
「なあ、俺どうしたらええと思う?」
「何が?」
「さくらや」
「まだやってんのか」
「付き合いたいねん」
「本人は?」
「……分からん」
「聞いたんか?」
「好きかって?」
「そう」
「聞いても、はっきり言わへん」
たけしは苦笑した。
「じゃあ脈あるんちゃう?」
「やっぱそう思う?」
「まあ、嫌いなら普通は会わんやろ」
「やろ?」
ながとの顔が明るくなった。
そこへ、けんじが来た。
「お前ら、何の話してんねん」
「さくら」
たけしが答えた。
けんじの表情が曇る。
「まだ続けるんか」
「当たり前や」
「ながと、俺はこの前言ったやろ」
「聞いたって」
「なら、今日は何した?」
「別に何も」
「嘘つくな」
ながとは黙った。
けんじはため息をついた。
「お前、さくらちゃんが会いたいって言ったんか?」
「……」
「言ってないんやな」
「でも、嫌いとは言ってない」
「だから何や」
「可能性あるやろ」
「それは可能性ちゃう」
けんじは、ながとの肩を掴んだ。
「拒否されてないことを、同意されたことに変えるな」
ながとは顔をしかめた。
「……難しいこと言うなや」
「難しくない」
「俺は好きやねん」
「だからって相手も好きとは限らん」
「じゃあどうしたらええねん!」
ながとの声が店内に響いた。
周囲の客が振り返る。
けんじは静かに言った。
「何もしない」
「は?」
「さくらちゃんから連絡が来るまで、お前から連絡するな」
「無理や」
「なんで?」
「会いたいからや」
「それがお前の問題や」
ながとは拳を握った。
けんじは手を離す。
「本当に好きなら、一回離れろ」
ながとは答えなかった。
*
その夜。
ながとは一人で部屋にいた。
けんじから言われた。
連絡するな。
会いに行くな。
待て。
それだけ。
簡単なことだった。
なのに――
できなかった。
スマホを見る。
午後八時。
さくらから連絡はない。
午後九時。
ない。
午後十時。
ない。
「……何してんねん」
ながとは立ち上がった。
上着を着る。
財布を見る。
ほとんど金がない。
それでも外へ出た。
「ちょっと顔見るだけや」
自分に言い聞かせる。
会えなかったら帰ればいい。
話せたら話す。
それだけ。
そう思いながら、さくらの家がある方向へ歩き出した。
だが――
途中で足が止まった。
けんじの言葉。
たけしの言葉。
そして、今日のさくらの声。
――今日は無理です。
ながとは立ち尽くした。
それでも引き返すまでには、長い時間がかかった。
結局、その夜。
ながとはさくらの家まで行かなかった。
しかし――
その帰り道。
スマホに新しいメッセージが届いた。
『今日はもう寝ます。おやすみなさい』
さくらからだった。
ながとは画面を見て、笑った。
「……やっぱり、嫌われてへん」
そしてまた――
自分に都合のいい意味だけを、拾ってしまった。
この小さな勘違いが。
やがて二人の関係を、取り返しのつかないところまで押し流していくことになる。




