第6話 距離
5,000円は、その日のうちになくなった。
ながとはパチンコ台の前で、最後の千円札を入れた。
結果は負け。
「……クソッ」
席を立つ。
財布の中身は、ほとんど空だった。
それでも、不思議と腹は立たなかった。
頭の中にいるのは、パチンコではなかった。
さくらだった。
「さくら、何時に帰るんやろ」
スマホを開く。
メッセージを送ろうとして、やめる。
また送ろうとして、やめる。
そして結局、
『今日はありがとう』
とだけ送った。
しばらくして、
『こちらこそ』
と返信が来た。
たったそれだけ。
ながとは画面を見ながら笑った。
「なんやねん……」
嬉しかった。
38年間生きてきて、こんなことで嬉しくなる自分が不思議だった。
だが、その感情は少しずつ別のものへ変わっていった。
もっと会いたい。
もっと話したい。
もっと自分を見てほしい。
そして――
もっと近づきたい。
手をつなぎたい。
抱きしめたい。
付き合ったら、その先まで行きたい。
そんな想像が、以前よりはっきり浮かぶようになっていた。
「……彼女になったらな」
ながとは一人で呟いた。
その言葉の中には、恋愛への憧れだけではないものも混じっていた。
女性に触れたい。
自分を男として見てほしい。
誰かに求められたい。
そんな38年間の空白を、さくら一人で埋めようとしていた。
*
翌日。
さくらは仕事をしていた。
朝九時から夕方まで。
昼休みには同僚と食事をし、午後は上司から頼まれた資料をまとめる。
定時を過ぎても、少し仕事が残っていた。
「さくらさん、この資料、明日の午前中までにお願いできる?」
「はい。分かりました」
「助かるよ」
「いえ」
さくらは笑った。
会社員として働く。
毎月決まった日に給料をもらう。
仕事には責任があり、期限がある。
誰かに迷惑をかけないようにする。
それが、さくらにとっては当たり前だった。
だからこそ――
ながとの感覚が、どうしても理解できなかった。
*
その日の夜。
ながとから電話がかかってきた。
「もしもし」
『さくら?』
「はい」
『今何してんの?』
「家です」
『一人?』
さくらの手が止まった。
「……はい」
『そっか』
ながとの声が少し明るくなる。
『今から会わへん?』
「え?」
『ちょっとだけでいいから』
「もう夜ですよ」
『別にええやん』
「明日、仕事なので……」
『ちょっと会うだけやって』
さくらは黙った。
電話の向こうから、ながとの声が続く。
『俺、さくらと二人でおりたいねん』
その言葉に、さくらの胸がざわついた。
「……どうしてですか?」
『好きやから』
即答だった。
さくらは返事ができなかった。
『飯食って、ちょっと話して……』
少し間があって、
『そのあと、さくらの家行ってもええ?』
「……え?」
『いや、嫌ならええけど』
ながとは笑ったような声を出した。
『俺ら、もう何回も会ってるやん』
さくらの背中に冷たいものが走った。
何回も。
そう言われても――
自分にとっては、何度も会いたい相手ではない。
お金を貸している相手。
断りづらい相手。
それだけだった。
「家は……無理です」
『なんで?』
「一人暮らしなので」
『一人暮らしやからええやん』
「……そういう問題じゃないです」
『なんや、警戒してんの?』
冗談のような口調だった。
でも、さくらは笑えなかった。
怖い。
そう思った。
電話越しでも、怖かった。
「今日はもう寝ます」
『なんでそんな冷たいん?』
「明日仕事なので」
『……分かった』
電話が切れた。
さくらはスマホを置いた。
そして、しばらく動けなかった。
自分の部屋。
玄関。
鍵。
チェーン。
全部を確認した。
ちゃんと鍵を掛けている。
それでも不安だった。
――もし家まで来たら?
――もし待ち伏せされたら?
――もし怒らせたら?
さくらはカーテンの隙間から外を見た。
誰もいない。
それでも怖かった。
*
翌日。
ながとは、けんじと一緒にいた。
「なあ、俺、さくらと付き合えると思う?」
「……何でそう思うん?」
「だって、金も貸してくれるし、飯も一緒に食うし、連絡も返してくれるやん」
「それだけで?」
「それだけって何やねん」
けんじは黙った。
そして言った。
「ながと、お前……その子が会社員やってこと、分かってるか?」
「知ってるけど?」
「お前とは生活が違うんやぞ」
「何が?」
「仕事の感覚とか、金の感覚とかや」
ながとは鼻で笑った。
「俺かて働いてるやん」
「フリーターやろ」
「働いてることには変わらんやん」
「そういうところや」
ながとは眉をひそめた。
「何がやねん」
「お前は、明日仕事がある人間に『今から会おう』って平気で言うやろ」
「ちょっとくらいええやん」
「お前にとっては、な」
けんじはため息をついた。
「会社員は、時間に責任があるんや。明日の仕事もある。生活の予定もある。金の使い方も違う」
「細かいなあ」
「細かいんちゃう。普通や」
ながとは黙った。
38歳まで、ずっとフリーター。
嫌な仕事なら辞めればいい。
金がなければ借りればいい。
暇なら誰かを誘えばいい。
明日のことは、明日考えればいい。
ながとにとって、それは特別な考えではなかった。
長年そうやって生きてきた。
だから――
それが他人にとって、どれほど負担になるのか分からなかった。
*
その日の夕方。
ながとは、さくらにメッセージを送った。
『今日会おうや』
既読。
返信。
『今日は無理です』
『なんで?』
『仕事で疲れているので』
『じゃあちょっとだけ』
『ごめんなさい』
ながとは画面を見つめた。
「……なんやねん」
少し苛立つ。
そして、さらに送る。
『俺のこと嫌い?』
しばらく返信がなかった。
さくらは画面を見ていた。
指が震えていた。
嫌いかどうか。
そんな簡単な問題ではない。
ただ――
怖い。
そう伝えたい。
でも、それを言ったらどうなる?
ながとは傷つくかもしれない。
怒るかもしれない。
そして何より――
まだ借りたお金を返していない。
だから強く言えない。
さくらは文章を何度も消して、ようやく送った。
『嫌いというわけではないです』
送信。
ながとは、その一文だけを見て笑った。
「ほらな」
自分に都合のいいところだけを拾った。
嫌いではない。
なら、可能性はある。
そう思った。
だが、さくらが本当に伝えたかったことは、その逆だった。
――嫌いじゃない。
でも、好きでもない。
――会いたくない。
でも、断るのが怖い。
――家には絶対に入れたくない。
でも、それをはっきり言う勇気がない。
その違いを、ながとは理解していなかった。
*
夜。
ながとは布団に入った。
さくらの写真はない。
それでも、頭の中には彼女の顔が浮かぶ。
「付き合ったら……」
また想像する。
デート。
手をつなぐ。
抱きしめる。
そして、その先。
胸が熱くなる。
ながとは自分の中の欲を抑えるように、目を閉じた。
「早く俺の女にならへんかな……」
その言葉を口にした瞬間。
自分でも少し違和感があった。
――俺の女。
まだ付き合ってもいない。
なのに。
もう自分のものになることを前提にしている。
そして、その日の最後に届いたさくらからのメッセージ。
『今日はもう寝ます。おやすみなさい』
ながとは笑った。
『おやすみ、さくら』
送信。
スマホを胸元に置く。
彼はまだ、自分が恋をしていると思っていた。
だが、さくらの側では――
その「恋」が、少しずつ「恐怖」に変わり始めていた。




