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『俺が本気で好きになった女は、俺を好きにならなかった』  作者: こうた
第一章 出会い――金から始まった関係――

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第5話 名前を呼ばれた



 翌朝。


 ながとは目を覚ますと、布団の中でスマホを手に取った。


 午前九時過ぎ。


 仕事に行くわけでもない。


 予定もない。


 それでも、最初に確認したのはパチンコ店の情報だった。


 ――今日はどこが出る。


 いつもの癖だった。


 だが、今日はその前に別の名前が頭に浮かんだ。


 さくら。


「……連絡してみよかな」


 そう呟いて、スマホを開く。


 メッセージ画面。


 さくらとのやり取り。


 最後のメッセージは昨日の夜。


『おやすみなさい』


 たったそれだけ。


 なのに、何度も見返してしまう。


「……なんやねん、俺」


 38歳。


 女の子から送られてきた「おやすみなさい」に、ニヤニヤしている。


 高校生じゃあるまいし。


 そう思いながらも、口元は緩んでいた。


 最近、さくらのことを考える時間が増えていた。


 顔。


 声。


 小さな体。


 笑ったときの目。


 自分の隣を歩くときの距離。


 そして――女としてのさくら。


「……可愛いよな」


 自然と、そんな言葉が出た。


 それだけなら、ただの恋心だった。


 だが、ながとの頭の中には、それとは別の感情もあった。


 女と付き合った経験がほとんどない。


 まともに恋愛をしてこなかった。


 そのくせ、38歳になった今でも性欲だけはなくならない。


 むしろ最近は、若い女を見ると強く意識してしまうことが増えていた。


 テレビに出てくる女優。


 コンビニの店員。


 街ですれ違う女性。


 そして今は――さくら。


「付き合えたら……」


 そこまで考えて、ながとは黙った。


 その先に何を想像したのか。


 自分でも分かっていた。


 手をつなぐ。


 抱きしめる。


 もっと近い関係になる。


 そんな想像が頭に浮かぶ。


 胸の奥がざわついた。


「……俺、溜まってんのかな」


 自嘲気味に笑う。


 恋愛経験の少なさ。


 女性への飢え。


 そして、自分を男として認めてほしいという気持ち。


 それらが全部、混ざっていた。


 だからこそ、さくらへの「好き」が純粋な恋なのか、自分でもまだ分かっていなかった。


 ただ――


 会いたい。


 それだけは本当だった。


 ながとはメッセージを打った。


『今日暇?』


 送信。


 数分後。


 既読がついた。


『今日は仕事です』


「そっか」


 少し残念だった。


 だが、その直後。


 別の考えが浮かんだ。


 ――金。


 財布を開く。


 千円札が一枚。


 小銭が少し。


 昨日、パチンコで負けた。


 10,000円借りて。


 その前にも5,000円借りている。


 まだ返していない。


「……」


 ながとはスマホを見る。


 さくらの名前。


「……ちょっとだけなら」


 指が動いた。


『仕事終わったら、ちょっと会えへん?』


 送信。


 しばらくして返信が来た。


『何かありましたか?』


 ながとは少し考えた。


 そして――


『ちょっと金足りんねん』


 送った。


 送った瞬間、自分でも笑ってしまった。


「結局それかよ」


 さくらからの返信は、なかなか来なかった。


 その頃。


 会社の休憩室で、さくらはスマホの画面を見つめていた。


『ちょっと金足りんねん』


 ため息が出る。


「……また」


 最初に10,000円。


 次に5,000円。


 まだ返ってきていない。


 それなのに、またお金。


 さくらは返信を打とうとした。


『もう貸せません』


 そこまで入力して、指が止まった。


 頭の中に、以前のながとの顔が浮かぶ。


 大きな体。


 低い声。


 強い目つき。


 怒っているわけではない。


 でも――怖い。


 さくらは、自分でもその感覚を説明できなかった。


 怒鳴られたわけではない。


 殴られたわけでもない。


 脅されたわけでもない。


 それでも怖かった。


 もし断ったら。


 もし機嫌を悪くしたら。


 もし会社まで来たら。


 もし家を知られたら。


 もし、借りた金を返してくれと言って逆に怒られたら。


 そんな想像が頭の中を次々とよぎる。


 そして何より怖かったのは――


 自分が「嫌です」と言えなくなっていることだった。


 以前、お金を貸してしまった。


 だから断りづらい。


 自分にも責任がある。


 そう思ってしまう。


 さくらは友達のあやに相談した。


「また、お金貸してって言われた」


「……また?」


「うん」


「返してもらってないんでしょ?」


「うん……」


 あやの表情が変わった。


「さくら。もう貸さなくていいよ」


「でも……」


「でも、じゃないよ」


 さくらは俯いた。


「断るの……怖い」


 その言葉を口にした瞬間、自分でも驚いた。


 あやが黙る。


「怖いって……何が?」


「怒られるんじゃないかって」


「怒られたことあるの?」


「ない。でも……」


 さくらはスマホを握りしめた。


「ながとさん、大きいし……声も低いし……」


「……うん」


「もし嫌われたら、何されるか分からないって思っちゃう」


 あやの顔から笑顔が消えた。


「それ、もう恋愛以前の問題じゃない?」


 さくらは答えられなかった。


 好きではない。


 それは分かっている。


 だけど、嫌いとも言い切れない。


 優しいときもある。


 冗談を言うこともある。


 昨日だって、一緒にご飯を食べている間は普通だった。


 だからこそ余計に怖い。


 ――この人が本気で怒ったら、どうなるんだろう。


 それが想像できない。


 さくらは返信した。


『いくらですか?』


 すぐに返事が来た。


『5000円』


 さくらは目を閉じた。


 まただ。


 また貸してしまう。


 そう思った。


 でも、断れなかった。


『分かりました』


 送信。


 数秒後。


『ありがとう!』


 その文字を見て、さくらの胸が少し苦しくなった。


 喜んでいる。


 自分から金を借りられることを、喜んでいる。


 そのことが分かってしまった。


 一方、ながとはスマホを見て笑っていた。


「よっしゃ」


 5,000円。


 今日の勝負ができる。


 そして――


「さくらにも会えるしな」


 そこには、もう完全に二つの目的があった。


 金。


 そして、さくら。


 本人はそれを「恋」と呼び始めていた。


     *


 夕方。


 駅前。


 さくらがやって来る。


 ながとは遠くから、その姿を見つけた。


 小柄な体。


 コート。


 長い髪。


 仕事帰りの疲れた顔。


「さくら!」


 思わず大きな声が出た。


 さくらが振り返る。


 そして――


「ながとさん」


 その一言。


 ただ名前を呼ばれただけだった。


 それなのに、ながとの胸が妙に熱くなった。


「……おう」


「5000円です」


 さくらが封筒を差し出す。


 ながとは受け取った。


「ありがとう」


「今度こそ返してくださいね」


「分かってるって」


 ながとは笑った。


 さくらは笑わなかった。


「本当に、返してください」


「……分かったって」


 ながとは少しだけ不機嫌そうに言った。


 その瞬間。


 さくらの肩がわずかに縮こまった。


 ながとは気づかなかった。


 でも、さくらは気づいていた。


 ――怖い。


 たったそれだけの変化で、怖くなった。


「じゃあ……私、帰りますね」


「え?」


「明日も仕事なので」


「飯、食わへん?」


「今日はいいです」


「なんで?」


「疲れてるので……」


「そっか」


 ながとは少し残念そうにした。


 だが、さくらはその場から早く離れたかった。


「じゃあ、また」


「おう。またな、さくら」


「……はい」


 駅へ向かって歩く。


 数十メートル進んだところで、さくらは一度だけ振り返った。


 ながとはまだ立っていた。


 こちらを見ている。


 さくらは、すぐに前を向いた。


 足が少し速くなる。


 ――この人、本当に私のこと好きなのかな。


 そう思った。


 でも同時に、別の考えも浮かんだ。


 ――私じゃなくて、お金が必要なだけなんじゃないかな。


 その疑いは、消えなかった。


     *


 ながとは、そのままパチンコ店へ向かった。


 ポケットの中には5,000円。


 歩きながらスマホを見る。


 さくらとのトーク画面。


 さっきの、


『ながとさん』


 という文字を思い出す。


「……やっぱ可愛いな」


 そして、少し笑う。


「俺、ほんまに好きなんかな」


 答えは出なかった。


 ただ――


 次に会う理由が欲しかった。


 金を借りるためだけじゃない。


 そう思いたかった。


 けれど。


 パチンコ店の自動ドアが開いた瞬間。


 ながとの頭に浮かんだのは、


 ――5,000円あったら、今日もう一回勝負できる。


 という考えだった。


 そしてその後に、


 ――勝ったら、さくらに何か買ってやろう。


 という考えが続いた。


 それが恋なのか。


 ただの欲なのか。


 ながとには、まだ分からなかった。


 ただ一つ分かっていた。


 さくらの「ながとさん」という呼び方が――


 今まで感じたことのないほど、嬉しかった。


 そして、その嬉しさをもう一度味わいたいと思っていた。

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