第39話 もう、追わない
それから、さらに数か月が過ぎた。
季節はまた変わっていた。
ながとは、相変わらず同じ仕事をしていた。
相変わらず、給料は多くない。
相変わらず、仕事で怒られることもある。
パチンコに行きたいと思う日もある。
何もかも嫌になる日もある。
でも――
以前とは違った。
「辞めたら楽になる」
そう思ったときも、
「でも、明日も仕事行くか」
と考えるようになった。
それだけだった。
大きな成功はない。
人生が劇的に好転したわけでもない。
ただ、
逃げる回数が少し減った。
ある休日。
ながとは駅前の商業施設へ買い物に来ていた。
必要なものを買って、
帰ろうとしたときだった。
人混みの向こうに、
見覚えのある女性がいた。
小柄な身体。
長い髪。
白いコート。
「……」
ながとの足が止まった。
さくらだった。
心臓が、
一気に速くなる。
何か月ぶりだろう。
もっと長く感じた。
さくらは一人ではなかった。
隣に、
男がいる。
細身。
清潔感のある服装。
背が高い。
そして、
さくらが笑っている。
「……亮介」
ながとは、その名前を思い出した。
二人は楽しそうに話していた。
亮介が何かを言う。
さくらが笑う。
その笑顔を見て、
胸が締め付けられる。
昔なら――
走っていた。
声をかけていた。
「俺の方が好きや」
そう言っていたかもしれない。
でも。
ながとは、
動かなかった。
その場から、
一歩も近づかなかった。
さくらがこちらを見る。
目が合う。
ほんの一瞬。
さくらの表情が固まった。
ながとは、
それを見てすぐに分かった。
彼女の中には、
まだ恐怖が残っている。
胸が痛んだ。
でも、
近づいてはいけない。
それも分かった。
ながとは、
ゆっくり視線を外した。
そして、
その場を離れようとした。
そのとき。
「ながとさん?」
声がした。
さくらだった。
足が止まる。
数秒。
振り返る。
さくらは、
少し離れたところに立っていた。
亮介も一緒だった。
「……久しぶりやな」
ながとは、それだけ言った。
さくらは小さく頷いた。
「……お久しぶりです」
それ以上、
何も言えない。
ながとも、
何を言えばいいのか分からなかった。
昔なら、
ここで必死になっていた。
謝る。
説明する。
好きだと言う。
もう一度だけ話してほしいと頼む。
でも、
今は違った。
「……元気そうやな」
ながとが言った。
「はい」
さくらが答える。
その声は、
以前より穏やかだった。
「仕事は?」
「順調です」
「そうか」
「ながとさんは?」
「俺も、まあまあや」
それだけだった。
沈黙が続く。
ながとは、
さくらの隣にいる亮介を見た。
亮介は何も言わない。
警戒しているようにも見えた。
でも、
ながとはもう、
嫉妬しなかった。
いや。
正確には、
嫉妬した。
胸が痛い。
悔しい。
「俺やったら」
という思いも、
一瞬だけ浮かんだ。
でも、
その感情をそのまま行動にはしなかった。
「……じゃあ」
ながとは言った。
「俺、帰るわ」
さくらが少し驚いた顔をした。
「……はい」
ながとは一歩下がった。
そして、
「さくら」
名前を呼ぶ。
さくらが顔を上げた。
ながとは、
しばらく迷った。
「……幸せにな」
それだけ言った。
「……」
さくらは、
小さく頭を下げた。
「ありがとうございます」
ながとは笑った。
そして、
振り返った。
歩く。
一歩。
二歩。
三歩。
もう、
振り返らなかった。
背中に視線を感じる気がした。
でも、
振り返らなかった。
駅を出る。
外の空気が冷たかった。
ながとはポケットに手を入れた。
「……終わったな」
そう呟いた。
胸が痛かった。
涙が出そうだった。
でも、
歩いた。
追わなかった。
電話しなかった。
誰かに頼まなかった。
「俺の方が好き」とも言わなかった。
ただ、
彼女の人生を、
彼女に返した。
そして、
自分の人生も、
自分のところへ戻した。
しばらく歩いたところで、
ながとは空を見上げた。
「……さくら」
もう一度だけ名前を呼ぶ。
「元気でな」
それで十分だった。
今度こそ、
本当に終わった。
けれど――
ながとはまだ知らなかった。
この恋が終わったあとに、
自分が初めて向き合うことになる、
「三十八年間の自分の人生」
という、
もう一つの物語が残っていることを。




