第38話 俺の人生
季節が変わった。
ながとの生活も、少しずつ変わっていた。
朝は決まった時間に起きる。
仕事へ行く。
帰ってくる。
給料が入れば、必要な金を残す。
借りない。
無理に増やそうとしない。
パチンコ屋の前を通っても、入らない日が増えた。
もちろん、行きたくなる日はある。
負けた気分になる日もある。
仕事で嫌なことがあれば、
「全部どうでもええわ」
と思うこともある。
それでも、
昔のように全部投げ出すことはなくなった。
ある給料日の夜。
ながとは通帳を見ていた。
残高は、大した金額ではない。
けれど、
以前とは違う。
「……俺の金や」
誰にも借りていない。
誰かに返す必要もない。
自分が働いて得た金。
それだけのことなのに、
妙に嬉しかった。
三十八歳になって、
初めて感じる感覚だった。
その夜。
ながとは机の引き出しを開けた。
中には、
一枚の紙と、
封筒が入っている。
封筒には、
「さくら」
と書いてある。
中には一万五千円。
もう、ずっと使っていない。
「……どうしようかな」
しばらく考えた。
返したい。
でも、
返すために連絡することはできない。
連絡すれば、
さくらの生活を乱すかもしれない。
それはもう、
したくなかった。
ながとは封筒を閉じた。
そして、
紙に一言だけ書いた。
「返すために追わない」
それを封筒の上に重ねた。
これでいい。
そう思った。
翌休日。
ながとは久しぶりに一人で遠くまで出かけた。
目的地はない。
電車に乗って、
知らない駅で降りた。
昔なら、
「何のために?」
と思っただろう。
でも、
何のためでもよかった。
コンビニでコーヒーを買う。
公園のベンチに座る。
子どもが走っている。
犬を散歩させている人がいる。
カップルが歩いている。
普通の休日。
ながとは、その光景を眺めていた。
「……俺も、こういうのでよかったんやな」
派手なことはいらなかった。
大金も。
大勝ちも。
誰かから羨ましがられることも。
誰かに、
「お前はすごい」
と言われることも。
ただ、
明日も仕事へ行ける。
飯が食える。
寝る場所がある。
借金を増やさない。
それだけでも、
人生は続いていく。
そして、
その「普通」が、
昔の自分にはなかった。
ながとは空を見上げた。
「俺の人生……」
口に出してみる。
「まだ終わってへんな」
その言葉が、
不思議と胸に残った。
さくらとの恋は終わった。
それは、
もう変えられない。
彼女は自分を選ばなかった。
たぶん、
これからも選ばない。
それでいい。
――いや。
「それでいい」と思えるようになるまで、
かなり時間がかかった。
本当は、
まだ少し悔しい。
まだ少し寂しい。
まだ、
「俺やったら」
と思う瞬間もある。
でも、
それを相手にぶつけなくなった。
それだけで、
少し違う人間になれた気がした。
夕方。
ながとは駅へ向かった。
改札を通る。
ホームで電車を待つ。
ふと、
目の前を若い女性が通り過ぎた。
一瞬、
さくらに見えた。
胸が跳ねる。
しかし、
別人だった。
ながとは苦笑した。
「……まだ引きずってるな」
それでも、
追わなかった。
ただ、
電車に乗った。
窓の外を見る。
流れていく景色。
そして、
ふと思った。
もし、あの日。
パチンコ屋が閉まっていなかったら。
もし、
二千三百円しか持っていなかった自分が、
誰かに金を借りなかったら。
もし、
さくらと出会わなかったら。
自分は、
何も変わらなかっただろう。
そう考えると、
少しだけ不思議だった。
あの恋は、
自分にとっては苦しいものだった。
恥ずかしいこともした。
相手を怖がらせた。
たくさん間違えた。
でも、
その恋が終わったことで、
初めて自分の人生を考えるようになった。
だからといって、
「あの恋があってよかった」
とは簡単には言えない。
さくらが怖い思いをしたことは、
なかったことにはできない。
ながとは、それを分かっていた。
だからこそ、
二度と同じことをしない。
それが、
今の自分にできることだった。
電車が駅に到着する。
ながとは立ち上がった。
ホームへ降りる。
そして、
家へ向かって歩き出した。
三十八歳。
高校を中退した。
正社員にもならなかった。
ギャンブルに金を使った。
人から金を借りた。
恋愛では、
自分の気持ちを相手に押しつけた。
決して、
立派な人生ではない。
でも。
それでも、
ここから先は自分で選べる。
「……明日も仕事行こ」
ながとは歩いた。
誰かに選ばれるためではなく。
誰かを振り向かせるためでもなく。
自分の人生を、自分で生きるために。
そして数か月後――
ながとは、
思いもしなかった場所で、
さくらを見かけることになる。
今度こそ。
本当の意味で、
二人の恋に終止符を打つために。




