最終話 さくら
それから、数日が経った。
ながとは、いつも通り仕事へ行った。
朝起きて、
顔を洗って、
コンビニで朝飯を買って、
仕事へ行く。
何も変わらない。
いや。
変わったのかもしれない。
以前なら、朝起きた瞬間から思い出していた。
さくらは何をしているだろう。
誰といるだろう。
俺のことを少しでも考えているだろうか。
そんなことばかり考えていた。
今は違う。
たまに思い出す。
でも、
「元気かな」
それだけだった。
そして、
それ以上は考えなかった。
ある日の仕事帰り。
ながとは一人で歩いていた。
給料が入ったばかりだった。
スマホを取り出して、
銀行口座を見る。
残高を確認する。
「……俺の金やな」
誰に借りたものでもない。
パチンコで増やしたものでもない。
誰かに返してもらったものでもない。
自分が働いて得た金だった。
少しだけ、
嬉しかった。
帰宅すると、
部屋の隅に置いてある封筒が目に入った。
そこには、
今も名前が書いてある。
『さくら』
中には、
一万五千円。
あの日、
彼女が返してきた金。
ながとは、それをずっと使わなかった。
「返すために追わない」
そう書いた紙も入っている。
ながとは封筒を手に取った。
そして、
しばらく眺めた。
「……もう、返せへんかもしれんな」
そう思った。
もちろん、
返したい。
でも、
返すために彼女へ連絡することはしない。
それが、
今のながとにできることだった。
封筒を元の場所へ戻す。
そして、
テレビをつけた。
くだらない番組が流れている。
ながとは、
小さく笑った。
「俺、何してんねやろ」
昔なら、
こんな夜はパチンコに行っていた。
金がなければ、
誰かに借りた。
負ければ、
取り返そうとした。
仕事が嫌になれば、
辞めようと思った。
誰かに否定されれば、
その人間を敵だと思った。
好きな女に振られれば、
「俺の方が好きや」
と言って、
相手の気持ちを無視した。
全部、
自分が傷つかないためだった。
負けたくなかった。
嫌われたくなかった。
捨てられたくなかった。
だから、
誰かに勝とうとした。
誰かに選ばれようとした。
誰かに認めてもらおうとした。
でも。
今なら少し分かる。
人生は、
いつも勝てるわけじゃない。
好きな人に、
好きになってもらえるわけでもない。
頑張ったからといって、
報われるわけでもない。
正しいことをしたからといって、
欲しいものが手に入るわけでもない。
それでも、
生きていかなければならない。
翌朝。
ながとは仕事へ向かった。
途中、
以前よく通ったパチンコ屋の前を通った。
店の中から、
派手な音が聞こえる。
少しだけ、
足が止まる。
「……一万円くらいなら」
そんな考えが浮かぶ。
でも、
ながとは歩き出した。
「やめとこ」
それだけだった。
大きな決意ではない。
感動的な決断でもない。
ただ、
今日は行かない。
それだけ。
それでいい。
仕事では、
またミスをした。
上司から注意された。
「すみません。確認します」
昔なら、
腹を立てていた。
自分を馬鹿にされたと思っていた。
でも、
今は違う。
間違えたなら、
直せばいい。
怒られたからといって、
自分の人生全部が否定されたわけじゃない。
帰り道。
ながとは空を見上げた。
夕焼けだった。
ふと、
さくらのことを思い出した。
初めて会った日のこと。
閉まったパチンコ屋。
二千三百円しかなかった自分。
「金、貸してくれへん?」
そう言った自分。
一万円を貸してくれた彼女。
最初は、
ただ金を貸してくれる女だと思っていた。
それが、
いつの間にか好きになっていた。
会いたくなった。
声が聞きたくなった。
名前を呼んでほしくなった。
そして、
自分を選んでほしくなった。
でも、
彼女は選ばなかった。
それだけの話だった。
さくらが悪かったわけじゃない。
自分だけが悪い、
という話でもない。
ただ、
好きという気持ちが、
同じ方向を向かなかった。
ながとは、
そのことをようやく受け入れられた。
「……俺、好きやったんやな」
小さく呟く。
そして、
少し笑った。
「でも、好きになってもらえへんかったな」
悲しかった。
やっぱり、
悲しかった。
胸の奥が、
少し痛かった。
でも、
もう追いかけたいとは思わなかった。
さくらの前に現れて、
「俺を見てくれ」
と言いたいとも思わなかった。
亮介に勝ちたいとも思わなかった。
ただ、
一つだけ願った。
「幸せになれよ」
それだけだった。
そして、
ながとは歩き出した。
さくらとは、
もう二度と会わないかもしれない。
それでもいい。
あの恋は、
ながとの人生を変えた。
ただし、
さくらがながとを変えたわけではない。
最後に変わることを選んだのは、
ながと自身だった。
三十八年間。
逃げて、
借りて、
負けて、
怒って、
誰かのせいにして、
誰かに選ばれることばかり考えてきた。
その人生を、
一日で変えることなんてできない。
これからも、
パチンコをしたくなる日がある。
仕事を辞めたくなる日もある。
誰かに認めてもらいたくなる日もある。
寂しくなる日もある。
さくらを思い出す日も、
きっとある。
それでも。
そのたびに、
自分で選べばいい。
逃げるのか。
向き合うのか。
借りるのか。
働くのか。
追いかけるのか。
手放すのか。
その選択だけは、
自分でできる。
ながとは、
家へ向かって歩いた。
誰も待っていない。
特別な予定もない。
それでも、
なぜか少しだけ、
足取りが軽かった。
「明日も仕事行こ」
それだけ言って、
笑った。
――恋は、
終わった。
でも、
人生は終わっていない。
そして、
これがながとにとって、
初めて自分自身の人生を歩き始めた瞬間だった。
好きになることと、好きになってもらうことは、同じじゃない。
それでも、
誰かを好きになったことまで、
間違いだったわけじゃない。
ながとは、
最後まで振り返らずに歩いていった。
その先に、
何が待っているのかは分からない。
新しい恋かもしれない。
何もない日々かもしれない。
それでもいい。
今度は、
誰かに選ばれるためではなく、
自分の人生を生きるために。
――完――




