第36話 パチンコ屋
休日の昼。
ながとは、一人で街を歩いていた。
以前なら、休日といえば決まっていた。
朝からパチンコ屋。
財布には、その日に使えるだけの金。
負ければATM。
それでも足りなければ、友達に電話。
「ちょっとだけ貸してくれへん?」
その繰り返しだった。
けれど今は違う。
財布の中には、
必要な生活費と、
少しの余裕しか入っていない。
ながとは、昔通っていたパチンコ屋の前で立ち止まった。
自動ドアが開く。
中から、大きな音が漏れてくる。
玉の音。
電子音。
店内放送。
昔なら、その音を聞くだけで胸が高鳴った。
「……久しぶりやな」
入り口まで歩く。
一歩。
また一歩。
そして――
止まった。
「一万円だけなら……」
そんな考えが浮かぶ。
一万円。
勝てば増える。
負けても一万円。
昔の自分なら、
「一万円くらいなら大丈夫」
と思っていた。
でも、ながとは知っている。
一万円だけでは終わらない。
負ければ、
「あと一万円」
になる。
さらに負ければ、
「取り返さなあかん」
になる。
そして、
「誰かに借りよう」
になる。
その先に、
昔の自分がいる。
ながとは、店の中を見た。
あの場所に、
何百回座っただろう。
何千時間使っただろう。
何万円失っただろう。
考えてみても、
正確な金額なんて分からない。
「……俺、何してたんやろな」
笑ってしまった。
店に入らず、
そのまま通り過ぎた。
少し歩いたところで、
スマホが鳴った。
たけしだった。
「もしもし」
『今どこや?』
「昔のパチンコ屋の前」
『お前……打ってへんやろな?』
「打ってない」
『ほんまか?』
「ほんまや」
電話の向こうで、たけしが笑った。
『成長したな』
「うるさいわ」
『昼飯食おうや』
「ええで」
二人は駅前で合流した。
ファミレスに入る。
たけしがメニューを開いた。
「何食う?」
「普通の定食でええわ」
「昔なら一番高いやつ頼んでたやろ」
「昔の俺ならな」
二人で笑った。
食事をしながら、
たけしが言った。
「なあ、ながと」
「ん?」
「仕事、続けてるな」
「まあな」
「前は、すぐ辞めてたやん」
「……うん」
「なんで続けられるようになったん?」
ながとは少し考えた。
「辞めても、何も変わらんから」
「何が?」
「俺の人生」
たけしは黙った。
「前は、嫌なことあったら逃げてた」
「……」
「仕事が嫌なら休む」
「うん」
「金がなくなったら借りる」
「うん」
「負けたら取り返す」
「うん」
「女に振られたら、相手のせいにする」
たけしは苦笑した。
「耳が痛いな」
「俺もや」
ながとは水を飲んだ。
「でもな」
「ん?」
「逃げたら、その瞬間は楽になるけど」
「……」
「あとで全部、自分に返ってくるんやな」
たけしは何も言わなかった。
食事が終わった。
店を出る。
駅まで歩く。
途中で、ながとは昔の高校の方向を見た。
「……あっちやったな」
「何が?」
「俺の高校」
たけしは少し黙った。
ながとの高校時代。
大きな身体。
大きな声。
人を従わせることで、
自分を守っていた。
怖がられることを、
強さだと思っていた。
誰かに逆らわれることを、
自分の価値を否定されることだと思っていた。
だから、
自分に従わない人間を嫌った。
そして、
自分が弱いところを見せることが怖かった。
「……俺、昔から変わってへんかったんかもな」
ながとが呟いた。
たけしは答えなかった。
「高校でも、自分の言うこと聞かせて」
「……」
「仕事でも、嫌になったら逃げて」
「……」
「パチンコでも、負けたら取り返して」
「……」
「さくらにも……」
そこで、ながとの声が止まった。
「自分の思い通りにしたかった」
たけしは、ゆっくり頷いた。
「そうかもしれんな」
「……」
「でも、今は違うやろ」
ながとは少し考えた。
「……まだ分からん」
「なんで?」
「昔の俺が、完全に消えたわけちゃうから」
それは、
正直な答えだった。
怒ることもある。
負けたくないと思うこともある。
自分を認めてほしいと思うこともある。
さくらを思い出して、
胸が痛くなることもある。
それでも――
以前とは違う。
「変わるって、昔の自分を全部消すことちゃうんかもしれんな」
ながとは歩きながら言った。
「じゃあ何や?」
たけしが聞く。
「昔と同じことをしそうになったときに」
ながとは少し考え、
「やらんって選ぶことなんちゃうかな」
たけしは笑った。
「お前、ほんま変わったな」
「……そうか?」
「ああ」
「でもな」
ながとは苦笑した。
「今日はパチンコ打ちたかったで」
「そこは変わってへんな」
二人は笑った。
駅で別れる。
ながとは一人になった。
帰り道。
夕方の街を歩く。
以前なら、
この時間にはパチンコ屋へ向かっていた。
今は、
自分の家へ帰る。
それだけだった。
特別なことではない。
でも――
三十八年間できなかったことを、
少しずつできるようになっていた。
負けたままでも、帰れる。
それが、
ながとにとって初めて知った、
小さな強さだった。




