第35話 お金を返す
それから、さらに時間が過ぎた。
ながとは、少しずつ変わっていた。
劇的ではない。
朝、仕事へ行く。
遅刻をしない。
給料をもらったら、生活費を残す。
余った金を全部使わない。
パチンコに行きたくなっても、
「今日はやめとこう」
と思える日が増えた。
そして――
ある日、ふと思った。
「……そういや」
さくらから借りた一万五千円。
もう返したはずだった。
直接会って返した。
正確には、さくらから返された。
それを思い出した。
「……あれ?」
ながとは眉を寄せた。
あのとき。
さくらは、五人の友達と一緒に来ていた。
そして、一万五千円を返してきた。
「もう、関わりたくありません」
そう言って。
あの金は、
さくらが貸してくれた金だった。
けれど――
自分が返す前に、
彼女が返した。
「……」
ながとは財布を開いた。
一万円札。
五千円札。
合わせて一万五千円。
その金を見つめた。
「……これ」
なんとなく、
財布に入れておくのが嫌になった。
けれど、今さら連絡することもできない。
連絡してはいけない。
約束した。
「どうしたらええんや……」
しばらく考えた。
そして、
まさひこに電話した。
「もしもし」
『なんや?』
「ちょっと聞きたい」
『何や』
「さくらに、金返したい」
電話の向こうが静かになった。
『……もう返したやろ』
「違う」
「俺が借りた金や」
『でも、もう返されたんやろ?』
「そうやけど」
『今さら連絡したら、また怖がらせるぞ』
「分かってる」
『じゃあ、どうする?』
ながとは考えた。
「……俺、あの一万五千円を使わんと置いとく」
『それでええんちゃうか』
「いつか、もし向こうから連絡してきたら、そのとき返す」
『向こうから連絡してくることを期待するなよ』
「分かってる」
『ほんまか?』
「……分かってる」
電話を切った。
ながとは一万円札と五千円札を封筒に入れた。
そして封筒に、
「さくら」
とだけ書いた。
机の引き出しにしまった。
それから、その金を使わなかった。
一か月。
二か月。
三か月。
その間、
さくらから連絡が来ることはなかった。
当然だった。
ながとも、
もう期待しなくなっていた。
ある日。
仕事帰りに、たけしと久しぶりに会った。
「お前、変わったな」
「そうか?」
「ああ」
「どこが?」
「前より静かになった」
「昔がうるさすぎただけやろ」
二人で笑った。
たけしが聞いた。
「さくらちゃん、まだ好きなんか?」
ながとは少し考えた。
「……たぶんな」
「まだか」
「好きやったことは、消えへんやろ」
「まあな」
「でも、もう何もせん」
たけしが頷いた。
「それがええわ」
ながとは空を見上げた。
「俺な」
「ん?」
「昔は、女に好きって言われたことないのが、すごい恥ずかしかったんやと思う」
たけしは黙った。
「だから、さくらに選ばれたかったんやろな」
「……」
「一人の女に選ばれたら、俺の人生も全部肯定されるような気がしてた」
「ながと……」
「でも、そんなわけないよな」
ながとは笑った。
「一人の女に選ばれんかったくらいで、俺の人生全部が駄目になるわけちゃう」
たけしは少し驚いた顔をした。
「お前、そんなこと考えるようになったんか」
「俺もびっくりしてる」
二人で笑った。
その夜。
ながとは引き出しを開けた。
封筒がある。
「さくら」
と書かれた封筒。
中には一万五千円。
ながとはそれを見つめた。
「……ありがとうな」
誰に言うでもなく呟いた。
お金を貸してくれたこと。
一緒に飯を食べてくれたこと。
自分の名前を呼んでくれたこと。
そして、
自分の間違いを教えてくれたこと。
もちろん、
さくらはそんなつもりではなかった。
彼女はただ、
自分の人生を生きていただけだ。
勝手に恋をして。
勝手に期待して。
勝手に傷ついた。
その全部を、
さくらのせいにはできなかった。
ながとは封筒を引き出しの奥に戻した。
そして、
もう一度だけ呟いた。
「幸せになれよ」
今度は、
少しだけ笑っていた。
三十八歳。
まだ人生は長い。
ただ――
ながとには、
まだ向き合わなければならないものがあった。
さくらではない。
三十八年間の、自分自身だった。




