第34話 細マッチョ
それから、さらに一か月が過ぎた。
ながとは、さくらに会わなかった。
会わないようにしていた、というより。
会っても追わないと決めていた。
その間も、仕事は続けた。
給料が入れば、まず生活費を確保する。
残った金を全部パチンコに持っていくこともなくなった。
以前の自分なら考えられないことだった。
体重も、少しずつ落ちていた。
鏡を見る。
「……まあ、前よりマシやな」
それくらいだった。
もう、
「これならさくらが振り向くかもしれない」
とは思わなかった。
そんなある日。
まさひこと昼飯を食べていた。
「ながと」
「ん?」
「聞いた話なんやけどな」
「なんや」
「さくらちゃん、亮介と付き合ってるらしい」
箸が止まった。
「……そうなん?」
「ああ」
「いつから?」
「最近らしい」
ながとは黙った。
胸の奥が、ズキッと痛んだ。
分かっていた。
いつか、そうなるかもしれないと思っていた。
それでも。
実際に聞くと苦しかった。
「……そっか」
「大丈夫か?」
「大丈夫ちゃう」
正直に答えた。
「でも、何かする気はない」
まさひこは黙ってながとを見た。
「ほんまに?」
「うん」
「昔のお前なら、絶対そんなこと言わんかったな」
「……俺もそう思う」
ながとは水を飲んだ。
しばらく黙ってから、
「なあ、まさひこ」
「ん?」
「俺、昔、さくらの好きなタイプ聞いたやろ?」
「ああ」
「細マッチョが好きやって」
「言ってたな」
「俺、それ聞いたとき、痩せたらいけると思ったんや」
「……」
「今考えたら、めちゃくちゃ単純やな」
まさひこは少し笑った。
「単純やけど、人間なんてそんなもんや」
「でもな」
ながとは自分の腹を見た。
「細マッチョになったら好きになってくれる、って考えてた」
「うん」
「でも、違った」
「何が?」
「細マッチョになったからって、好きになるわけちゃう」
「当たり前や」
「でも俺には、それが分からんかった」
ながとは少し笑った。
「俺、女のこと何も知らんかったんやな」
「それはあるな」
「そもそも、恋愛したこともほとんどないし」
「……」
「だから、好きになったら、努力して、相手に選ばれるもんやと思ってた」
まさひこは何も言わなかった。
ながとは続けた。
「でも違った」
「うん」
「努力するのは自分のためにはなる」
「そうや」
「でも、相手の気持ちまで変えられへん」
「そういうことや」
ながとは、しばらく黙っていた。
「……亮介って、細マッチョなん?」
まさひこが吹き出した。
「そこ気になるんかい」
「いや、ちょっと」
「知らんわ」
「まあ、ええけど」
二人で笑った。
ほんの少しだけ。
ながとの胸にあった痛みが、
薄くなった気がした。
その夜。
ながとは一人でコンビニへ向かった。
以前なら、
さくらと出会った日のことを思い出していた。
閉まったパチンコ屋。
二千三百円。
借りた一万円。
あの日から始まった。
最初は、
金だった。
次に、
暇つぶし。
その次に、
会いたいという気持ち。
そして、
好きになった。
いつの間にか、
自分の人生を変えてくれる女だと思っていた。
違った。
さくらは、
自分の人生を変えるために現れた人ではない。
ただ、
自分の人生の中に一時的に現れた、
一人の女性だった。
その女性には、
その女性の人生がある。
好きな男も。
仕事も。
友達も。
帰りたい家も。
守りたい日常も。
それを奪ってまで、
自分を選ばせる権利なんて、
自分にはなかった。
「……遅かったな」
ながとは笑った。
そして帰宅した。
スマホを見る。
さくらの連絡先はない。
SNSも見ない。
もう、
知りたいとは思わなかった。
その代わり、
自分の銀行口座を確認した。
少しだけ残高が増えている。
「……これなら、もう誰にも金借りんで済むな」
小さく笑った。
パチンコに使わなかった金。
人から借りなかった金。
働いて得た金。
それを見て、
ながとは初めて、
自分の人生の中に、
さくら以外のものがあることに気づいた。
仕事。
金。
身体。
友達。
そして、
これからの時間。
まだ三十八歳。
遅いかもしれない。
でも、
全部終わったわけじゃない。
その夜。
ながとは、布団の中で目を閉じた。
最後に一度だけ、
さくらの顔を思い出した。
「……幸せになれよ」
それ以上は、
何も言わなかった。
そして眠った。
翌朝。
目覚ましが鳴る。
ながとは起き上がった。
仕事へ行くために。
それは、
誰かに好かれるためではない。
誰かに選ばれるためでもない。
ただ、
自分の生活を続けるためだった。




