第33話 理由
「自分のために変わる」
そう思ってから、二週間が経った。
ながとは、以前ほどさくらのことを考えなくなっていた。
完全に忘れたわけではない。
むしろ、忘れようとすることをやめた。
思い出したら、
「ああ、まだ好きなんやな」
そう思うだけにした。
追わない。
連絡しない。
探さない。
それだけは守った。
仕事にも、少しずつ慣れてきた。
以前なら面倒だと思っていたことも、
「やっといた方が後で楽やな」
と思えるようになった。
給料が入れば、まず生活費を残す。
借金をしない。
パチンコに行きたいと思っても、
「負けたら、また取り返したくなる」
と考えて、店の前を通り過ぎる。
劇的に人生が変わったわけではない。
ただ、
昔の自分と同じことを繰り返す回数が減っていた。
そんなある日。
仕事帰りに、偶然さくらを見かけた。
駅前だった。
数十メートル先。
さくらは、会社の同僚らしい女性と歩いていた。
ながとの足が止まる。
心臓が速くなる。
三か月ぶりだった。
「……さくら」
思わず声に出しそうになった。
けれど、口を閉じた。
さくらは笑っていた。
以前、自分の前で見せていた笑顔とは違う。
もっと自然だった。
肩の力が抜けている。
楽しそうに話している。
ながとは、少し離れた場所から見ていた。
そして――
もう一人、男性が近づいてきた。
細身。
清潔感のある服装。
背筋が伸びている。
同僚らしい。
「……」
ながとの胸が痛んだ。
男は、さくらに何かを話した。
さくらが笑った。
男も笑った。
それだけだった。
でも、
ながとには十分だった。
「……あいつか」
以前聞いた、
亮介という名前が頭に浮かぶ。
さくらのタイプ。
細マッチョ。
会社員。
話しやすくて、
仕事もできて、
距離の取り方も上手い男。
「……俺と全然違うな」
昔なら、
そう思った瞬間に、
怒りが湧いていた。
「俺の方が好きや」
そう言っていた。
追いかけたくなっていた。
二人の間に割って入りたくなっていた。
でも――
ながとは動かなかった。
さくらが、こちらを向いた。
目が合った。
一瞬だった。
さくらの表情が固まる。
ながとは、それを見た。
胸が締め付けられた。
以前なら、
「やっぱり俺を意識してる」
と都合よく考えていたかもしれない。
でも今は違った。
分かった。
さくらが怖がっている。
だから――
ながとは、一歩後ろに下がった。
さくらの隣にいた女性が、さくらの様子に気づく。
「どうしたの?」
「……ううん」
さくらは小さく首を振った。
そして二人は、そのまま歩いていった。
ながとは追わなかった。
ただ、遠ざかっていく背中を見ていた。
「……幸せそうやな」
小さく呟く。
少しだけ、寂しかった。
でも、それ以上に、
ホッとした。
さくらが普通に笑っている。
それだけでよかった。
……そう思えた自分に、
ながと自身が驚いていた。
その夜。
まさひこから電話が来た。
「今日、さくらちゃん見たらしいな」
「……誰から聞いたんや」
「けんじ」
「そっか」
「大丈夫か?」
「うん」
「何かしたか?」
「何も」
「ほんまか?」
「追いかけてへん」
まさひこが黙った。
「……そっか」
「なあ、まさひこ」
「なんや」
「俺な」
「うん」
「今日、初めて思った」
「何を?」
ながとは少し考えてから言った。
「さくらが俺を好きにならんでも……」
言葉が止まる。
それでも続けた。
「幸せなら、それでええんかなって」
電話の向こうで、
まさひこが静かに息を吐いた。
「……それでええんちゃうか」
「でも、やっぱりちょっと寂しいわ」
「そらそうや」
「俺、まだ好きなんかな」
「知らん」
「なんやそれ」
二人で少し笑った。
電話を切ったあと。
ながとは窓を開けた。
夜風が入ってくる。
昔なら、
自分を選ばなかった女を恨んでいた。
「見る目がない」
「俺の方がええ男や」
「いつか後悔する」
そんなことを考えていた。
でも今は、
そんな言葉が出てこなかった。
ただ一つだけ。
「……さくら」
誰もいない部屋で名前を呼ぶ。
「ごめんな」
何に対して謝っているのか、
自分でも全部は分からない。
金を借りたこと。
何度も連絡したこと。
待ったこと。
友達を巻き込んだこと。
会社に電話したこと。
怖がらせたこと。
そして何より――
自分の「好き」を、
相手にも返してもらえるものだと思っていたこと。
ながとは、しばらく黙っていた。
そして、
「……好きじゃないって言われたら、それで終わりなんやな」
初めて、
その言葉を否定せずに口にした。
胸は痛かった。
でも、
痛いままでいいと思えた。
それが、
失恋というものなのかもしれなかった。




