第32話 好きじゃない
一週間が過ぎた。
ながとは、さくらに連絡しなかった。
本当に、しなかった。
電話番号も消した。
SNSも見なかった。
友達にも聞かなかった。
駅にも行かなかった。
会社の近くにも行かなかった。
三十八歳になって初めてだった。
「やめて」と言われたことを、
そのまま「やめる」という形にしたのは。
それでも、心の中では毎日のように考えていた。
――さくらは今、何してるんやろ。
――もう俺のこと忘れたんかな。
――俺がいなくなって、楽になったんかな。
答えは分からない。
だから、考えるしかなかった。
仕事中も、ふとした瞬間に思い出す。
休憩中。
コンビニで昼飯を買ったとき。
帰り道。
布団に入ったとき。
どこにいても、頭の片隅にいる。
「……好きって、こんなしんどいんか」
誰もいない部屋で呟いた。
以前のながとは、
好きになったら、
相手も好きになってくれるものだと思っていた。
自分が本気なら。
自分が努力すれば。
自分が変われば。
いつか届く。
そう信じていた。
でも――
届かなかった。
ある休日。
ながとは、久しぶりにまさひこと会った。
喫茶店の隅の席。
二人とも、しばらく黙っていた。
「元気か?」
まさひこが聞いた。
「……元気ちゃう」
「そうか」
「でも、連絡はしてへん」
「聞いてる」
「もう追わん」
まさひこは頷いた。
「それでええ」
「……なあ」
「ん?」
「俺って、そんなにあかんかったんかな」
まさひこはすぐには答えなかった。
「どういう意味や?」
「さくらにとって、俺はそんなに嫌な男やったんかな」
「嫌な男かどうかと、好きになるかどうかは別や」
「……」
「ながと」
「ん?」
「お前が悪いところはあった」
ながとは黙った。
「何度も連絡した」
「……うん」
「待った」
「うん」
「友達を使った」
「……うん」
「会社にも電話した」
「……」
「怖いって言われても、自分の気持ちを優先した」
ながとは下を向いた。
「そこは認めた方がええ」
「……分かってる」
「でもな」
まさひこは続けた。
「だからって、お前が人間として全部駄目なわけちゃう」
ながとは顔を上げた。
「……ほんまか?」
「ああ」
「じゃあ、なんで好きになってもらえへんかったんや」
「それは――」
まさひこは少し笑った。
「理由なんて、そんなもんや」
「そんなもん?」
「人を好きになるのに、資格試験なんかない」
「……」
「お前が六キロ痩せたから合格」
「……」
「仕事を真面目にしたから合格」
「……」
「パチンコを減らしたから合格」
「……」
「そんな話ちゃうやろ」
ながとは黙っていた。
「さくらちゃんは、お前を選ばなかった」
「……」
「それだけや」
胸の奥が痛んだ。
「……それだけ」
「ああ」
「それが、一番きついな」
「そうやな」
ながとはコーヒーを一口飲んだ。
苦かった。
その日の帰り。
駅前で、ながとは一人になった。
スマホを取り出す。
もちろん、さくらの番号はない。
それでも、記憶の中には残っている。
初めて会った日のこと。
閉まっていたパチンコ屋。
二千三百円しかなかった財布。
「金、貸してくれへん?」
そう言った自分。
一万円を貸してくれたさくら。
あのときは、
ただ金が欲しかった。
まさか、その女を好きになるなんて思わなかった。
「……変な話やな」
笑ってしまった。
そして、その笑顔が消えた。
「……俺、本当に好きやったんかな」
自分に問いかける。
今までなら、
迷わず「好きや」と答えていた。
でも今は、
少しだけ分からなくなっていた。
さくらの何が好きだった?
顔。
声。
優しさ。
一緒に飯を食べた時間。
自分を拒絶しなかった最初の頃。
そして――
自分を必要としてくれるかもしれないという期待。
そこまで考えたところで、
まさひこの言葉が蘇った。
「自分を好きになってくれる女が欲しいだけちゃうか」
「……」
否定したかった。
でも、
完全には否定できなかった。
ながとは、空を見上げた。
「俺……」
声が震えた。
「誰かに好きになってほしかっただけなんかな」
答えは出なかった。
ただ、
初めて自分自身に向けた疑問だった。
その夜。
ながとはパチンコ屋の前を通った。
店内から、音が漏れている。
以前なら、
その音を聞いただけで足が止まった。
今日は止まらなかった。
そのまま通り過ぎた。
財布には、
仕事をして貯めた金がある。
誰にも借りていない金。
それを握りしめながら、
ながとは歩いた。
まだ、さくらを忘れたわけじゃない。
まだ、好きかもしれない。
まだ、苦しい。
でも――
一つだけ変わった。
「さくらに好きになってもらうために変わる」
ではなく、
少しだけ、
「自分のために変わる」
という考えが、
初めて生まれた。
それはほんの小さな変化だった。
三十八年間、
自分の人生を誰かのせいにして、
金のせいにして、
運のせいにして、
負けたら取り返そうとしてきた男にとって。
それは、
あまりにも小さく、
そして大きな一歩だった。




