第9話 「このままで」
1
朝から、競合他社の公式サイトをいくつも開いていた。
機能一覧、価格体系、導入事例。
それが終われば、今度はSNSと広告のチェック。
競合といっても一社や二社ではない。
海外まで含めて比較しなければならなくて、次の会議までに全部まとめておく必要があった。
二時間も画面に張りつくように文字を追っていると、さすがに目がつらくなってくる。
画面の中の細かな文字だけじゃなく、手元のキーボードまで少しぼやけて見えた。
いったん息をつこうと思って、背もたれに体を預けた。
社員ラウンジに行くことも考えたけれど、エレベーターで上に上がるのも面倒だった。
そこまでして移動する気力が、今はなかった。
しばらく、キーボードに指をかけたまま、ぼんやりする。
するとまた、土曜日のことを思い出した。
また、と思ったのは、今が初めてじゃないからだ。
通勤中にも考えていたし、給湯室でも、ふいに脳裏に浮かんだ。
「会いたかったからじゃ、駄目?」
あのときの冬吾の声は、思い出すたびに熱を持って胸に残る。
それに対して返した自分の言葉も、ちゃんと覚えていた。
「私も会いたかったし」
あのやり取りを、ただの友達同士だったと片づけるのは、もう違う気がした。
いや、気がしたというより、たぶん、もう自分でもわかっている。
私は冬吾のことが好きなんだ、と思う。
「そうかもしれない」と思っていたものが、「たぶんそうなんだ」に変わって、最後には、「やっぱりそうだ」と認めるところまで来ただけだ。
画面を見つめ続けて疲れた目とは別のところで、気持ちが落ち着かない。
私はふぅっと息を吐いて、もう一度ディスプレイに向き直った。
会議用の資料はまだ途中なのに、頭の片隅には、土曜日の冬吾がずっと残ったままだった。
次はいつ会えるんだろう。
昼休みは社食で済ませて、そのまま自分のデスクに戻った。
そのほうが静かに過ごせる。
照明は半分落とされていて、フロア全体が眠たそうに見えた。
私は椅子に座ると、ポケットからスマートフォンを取り出した。
なんとなく、冬吾とのLINEを開く。
特に何か送るつもりがあったわけじゃない。
ただ、見たくなっただけだ。
これまでのやり取りを指でゆっくりたどっていく。
すると、先日私が送った写真が目に留まった。
イタリアフェアの広告を撮ったものだ。
何気なく開いて、少し拡大する。
よく見ると、フェアは今週末までだった。
大蔵屋百貨店、九階催事場。
今からでも、間に合う。
私から誘ってみたら、冬吾は来てくれるだろうか。
そんなことを考えた時点で、もう送る文面は決まっていたのかもしれない。
〈この前のイタリアフェア、今週末までみたい〉
送ってから、画面を見つめる。
自分から連絡したことに、少しだけ鼓動が速くなった。
彼も昼休みだったのだろう。
返信は思ったより早かった。
織田冬吾
〈大蔵屋の?〉
短いやり取りなのに、うれしくなる。
〈そう。土曜日行かない?〉
送信した瞬間、胸のあたりがそわそわした。
これまでだって、冬吾に誘われれば普通に行くと答えていた。
けれど、自分から誘うのは少し違う。
それじゃまるで、会いたいと言っているみたいだ。
いや、みたいじゃない。
実際に、会いたいのだ。
通知音が鳴る。
私はすぐに画面を見た。
〈行く〉
あまりにも短い返事だった。
短すぎる、と思った次の瞬間、なんだか可笑しくなってしまって、私はひとりで肩を揺らしていた。
迷うでもなく、気を持たせるでもなく、ただ一言だけで来ると伝えてくるところが、なんだか冬吾らしい。
2
土曜日の十四時に、大蔵屋の正面玄関で待ち合わせをしていた。
私は早めに家を出て、三十分も前に着いてしまった。
さすがに早すぎたかなと思いながら、一階をゆっくり歩く。
大蔵屋の一階はコスメ売り場が広い。
せっかく時間もあるし、前から気になっていた落ちにくいリップカラーを見てみようと思った。
ブランドの名前は、キャンメルだったか、ルミエルだったか。
うろ覚えのまま売り場の前を行ったり来たりしていると、土曜日の館内は思った以上に人が多くて、少し歩くだけでも人の流れに押される。
きれいに照明が落ちるカウンターの前で足を止めて、並んだ口紅を眺める。
こういうとき、はっきり目的があるわけでもないのに、なんとなく見ているだけで楽しい。
すると、店員がにこやかにこちらへ来た。
「何かお探しですか?」
声をかけられて、私はぴくっと肩を揺らした。
胸元できらりと光るネームプレートに、目がいく。
CANMEL 三崎莉子。
ああ、やっぱりキャンメルだったのか、と思う。
でも、そう思っただけで、何を見たかったのか急にうまく言えなくなった。
「あ、ええ……」
口紅を、と言いかけて、ふと時間が気になった。
スマートフォンを取り出すより先に、近くの時計が目に入る。
十三時五十分。
その数字を見た瞬間、私ははっとした。
もう戻ったほうがいい。
「あ、ごめんなさい。待ち合わせの時間きました」
自分でも変な言い方だと思ったけれど、言い直す余裕もなくて、そのまま軽く頭を下げた。
美容部員の人をほとんど置き去りにするような形で、私は急いで正面玄関へ引き返した。
人の多い一階を抜けながら、こんなに早く来たのに、結局ぎりぎりみたいになっている自分がおかしくなる。
けれど、足は自然と速くなっていた。
冬吾がもう来ているかもしれない。
正面玄関前に戻っても、まだ冬吾の姿は見えなかった。
よかった、と思う。
今日は、私の勝ちだ。
そうして人の流れを見ているうちに、見慣れた姿が目に入った。
冬吾だ。
少し離れたところで私を見つけたらしく、そのまままっすぐこちらへ歩いてくる。
人の多い場所で、誰かを探すように視線を巡らせて、でも私を見つけた瞬間に迷いなく向かってくる、あの顔が私は好きだった。
人混みの中でも、ちゃんと私を見つけてくれる。
私の前まで来ると、冬吾は軽く息をつきながら言った。
「待った?」
「五分」
そう答えると、冬吾が目を細める。
「じゃあ、待ったんだ」
「冬吾が遅いから」
「時間前だけど」
すぐに返されて、私は口をとがらせた。
「私は、もっと前に来てたの」
言いながら、得意な気分になる。
「だから、今日は、私の勝ち」
冬吾が可笑しそうに言った。
「何の勝負?」
3
エスカレーターで、九階まで上がって催事場へ入った。
土曜日で、ひどく混んでいる。
催事場には、イタリアのものがずらりと並んでいた。
お菓子、チーズ、生ハム、オリーブオイル、ワイン、パスタ。
見ているだけで華やかで、どこから見ようか迷うくらいだった。
私は別に詳しいわけではないから、気になったものを片っ端から見ていく。
冬吾も特にイタリア通というわけではないらしく、隣で同じように立ち止まっては、適当なことを言っていた。
それが楽しかった。
「あ、これ見て」
私が足を止めたのは、乾燥ポルチーニの棚だった。
小さな袋に入っているのに、値札を見た瞬間、思わず目を見張る。
「高っ」
声に出した私の横で、冬吾も値札をのぞき込んだ。
「買うの?」
「買わない」
「椎茸にこの値段は出せないよな」
冬吾が笑って言った。
「まだ椎茸って言うんだ」
「濃い椎茸」
「事実だから」
冬吾はそう言って、また笑った。
「フィレンツェの店に謝れ」
私も、笑って応戦した。
笑いながら、同時にあのときのことを思い出していた。
フィレンツェで食べた昼食。
あのときも、こんなふうに食べ物の話をしていた気がする。
まだ今みたいに気軽ではなくて、どこか少し遠慮があった。
あの頃は、
「織田さん」
「和倉さん」
と呼び合っていた。
それが今は、
「冬吾」
「楓」
になっている。
ずいぶん遠くまで来たような気がした。
私は乾燥ポルチーニの袋を見つめたまま、言った。
「なんか変な感じ」
「何が?」
冬吾が隣で聞き返す。
私は少し迷ってから、でもそのまま口にした。
「あの時、こんなふうになると思わなかった」
冬吾はすぐには答えなかった。
静かに私を見て、それから、やわらかく笑う。
「俺も」
言葉は短いけれど、冬吾も同じなんだと思った。
出会ってから、まだそんなに長い時間が経ったわけじゃない。
なのに、今日こうして並んで歩いて、適当なことを言い合って、同じものを見て笑っている。
そんな一つひとつが、もうふたりの思い出になり始めている。
私は棚に並ぶ乾燥ポルチーニから目を離して、冬吾を見た。
すると冬吾も、ちょうど同じように私を見ていて、また笑った。
「オリーブオイル、もう一回見てもいい?」
彼は「いいよ」と頷いた。
いろんな種類のオリーブオイルが並んだコーナーは、会計の列ができていて、「こちらが最後尾」と書いた看板を持った若い男性が立っていた。
「最後尾はこちらでーす」
そう言って声を張り上げていた。
催事場らしい賑やかさの中で、私は棚に並ぶ瓶を順番に見ていった。
小さい瓶は見た目が可愛かったけれど、あれではすぐに使い切ってしまいそうだった。
だからといって、大きな瓶は買ったあとが大変そうだ。
持ち歩くには重いし、今日このあとずっと抱えて歩くことになる。
少し迷って、結局やめた。
パスタも同じだった。
形の違うものがいくつも並んでいて見るのは楽しいけれど、いざ買うとなると量が多い。
主食みたいに毎日食べるならともかく、ひとりで食べるにはなかなか減らなさそうだった。
手に取った袋を、私は元の棚へ戻す。
それを見て、冬吾が言った。
「買わないの?」
「ひとりでこんなに使い切れない」
そう答えると、冬吾は棚の大きな袋のパスタに目をやって、何でもないことみたいに言った。
「半分もらうよ」
私は思わず冬吾を見た。
「どうやって?」
聞き返すと、冬吾は少しも困った様子を見せずに答えた。
「次、会うとき持ってくればいい」
次。
その言葉が、思ったより自然に耳に残った。
「次、あるの?」
確かめたかったのかもしれない。
冬吾が何気なく言ったその先を。
すると冬吾は、すぐに言った。
「ないの?」
その返しがあまりに普通で、私は笑いそうになる。
ないわけがない、みたいな言い方だった。
「ある」
そう答えると、冬吾も笑った。
パスタひとつ買うかどうかの話をしていただけなのに、気づけば、次に会う約束みたいなものがひとつ増えていた。
私はもう一度棚のパスタを見た。
さっきまでより、買う理由ができた気がした。
4
催事場を出て、人の流れから外れたところで足を止めた。
ずっと歩いていたから、少し休みたかった。
「どうする? コーヒーでも飲む?」
冬吾がそう言って、近くの案内板に目をやる。
「ジェラートでもいい」
私が答えると、冬吾は「いいね」と笑った。
そのまま並んで歩きながら、私は隣にいる横顔を見た。
付き合ってはいない。
好きだとも、まだ言っていない。
でも、冬吾は会いたかったと言った。
私も、会いたかったと返した。
今日は私から誘った。
そして今、こうして一緒にいる。
そこにまだ、はっきりした名前はない。
言葉で囲わなくても、置いていかれている感じはしない。
曖昧なまま立ち止まっているのとも違う。
冬吾は、そこを急かさない。
確かめるようなことも言わないし、無理に踏み込んでくることもない。
私が言葉にしていない気持ちごと、そのまま隣に置いてくれる。
だから、居心地がいいんだと思う。
そんな相手は、たぶん多くない。
「楓?」
不意に名前を呼ばれて顔を上げると、冬吾がこちらを見ていた。
「何食べるか決まった?」
考え込んでいたのが顔に出ていたのかもしれない。
私は笑って、「まだ」と答えた。
5
大蔵屋を出ると、外はもう日が暮れていた。
建物の明かりが夜の空気ににじんで、昼間より人の流れがゆるやかに見える。
それなのに、どちらからも帰るとは言わなかった。
気づけば、私たちは駅とは反対の方向へ歩いていた。
自然にそうなった、というのがいちばん近い。
どちらかが誘導したわけでもないのに、足は迷いなくそちらへ向かっていく。
どこへ行くんだろう、と思う。
でも、行き先なんて、どうでもよかった。
このまま冬吾と一緒にいられるなら、それでよかった。
私は隣を歩く冬吾を見た。
「冬吾」
「ん?」
「駅、向こうだよ」
そう言うと、冬吾は前を向いたまま答えた。
「知ってるよ」
その言い方があまりにも自然だった。
「遠回り?」
「してるね」
悪びれた様子もなく返されて、私は冬吾の横顔を見る。
わざとなんだ、と思った。
「いいけど」
口にすると、冬吾がこちらを見た。
ほんの一瞬だけ目が合う。
胸の奥が静かに熱を持つ。
帰る時間だとわかっている。
でも、まだ帰りたくないと思っているのは、たぶん私だけじゃない。
それを確かめ合うような言葉はない。
ないまま、同じ方向へ歩いている。
夜の街は、昼より輪郭がやわらかい。
人の声も、車の音も、遠くで鳴っているみたいに聞こえる。
その中を、冬吾と並んで歩く。
遠回りをしているだけなのに、まるで時間そのものを引き延ばしているみたいだった。
私はそれを指摘しないまま、冬吾の隣を歩き続けた。
大蔵屋百貨店を大きく一周するように歩いて戻ってくると、見慣れた東京駅の姿が前方に見えてきた。
人通りもさっきまでより増えている。
駅に近づいたのだと、景色より先に人の流れでわかった。
前から来た人を避けた拍子に、私は冬吾と数メートル離れた。
ほんの一瞬のことだったのに、その距離が思ったより遠く感じる。
「楓」
呼ばれて顔を上げると、冬吾が手を差し出していた。
私はほとんど迷わず、その手を取った。
離れないように。
はぐれないように。
そんな理由をつけることはできるけれど、それだけじゃなかった。
手をつなぐと、冬吾は私の手をしっかり握った。
強すぎるわけではない。
でも、簡単には離れないようにしているのが伝わってきた。
その感触が、じんわりと手のひらに残る。
やがて、視界がひらけた場所に出た。
もう誰かとぶつかる心配はない。
歩く速さを気にしなくてもいいくらい、まわりにも余裕がある。
それでも、手はつながったままだった。
私は冬吾を見上げた。
「もう、離して大丈夫だよ」
そう言うと、冬吾がこちらを見る。
「嫌?」
思いがけない返しに、私は一瞬言葉に詰まった。
「嫌じゃない」
冬吾はすぐに続けた。
「じゃあ、このままで」
その言い方があまりにも自然で、私は何も返せなくなる。
ただ、つないだ手のぬくもりだけが、はっきりと残った。
冬吾の手は、改札を通り抜ける寸前まで離れなかった。
私も、離そうとは思わなかった。
冬の楓 第9話 「このままで」 おわり
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ひより日和、紅葉便り、冬の楓の116作品掲載しています。
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