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冬の楓  作者: mamio


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9/21

第9話 「このままで」

1


朝から、競合他社の公式サイトをいくつも開いていた。

機能一覧、価格体系、導入事例。

それが終われば、今度はSNSと広告のチェック。

競合といっても一社や二社ではない。

海外まで含めて比較しなければならなくて、次の会議までに全部まとめておく必要があった。


二時間も画面に張りつくように文字を追っていると、さすがに目がつらくなってくる。

画面の中の細かな文字だけじゃなく、手元のキーボードまで少しぼやけて見えた。


いったん息をつこうと思って、背もたれに体を預けた。

社員ラウンジに行くことも考えたけれど、エレベーターで上に上がるのも面倒だった。

そこまでして移動する気力が、今はなかった。


しばらく、キーボードに指をかけたまま、ぼんやりする。


するとまた、土曜日のことを思い出した。


また、と思ったのは、今が初めてじゃないからだ。

通勤中にも考えていたし、給湯室でも、ふいに脳裏に浮かんだ。


「会いたかったからじゃ、駄目?」


あのときの冬吾の声は、思い出すたびに熱を持って胸に残る。


それに対して返した自分の言葉も、ちゃんと覚えていた。


「私も会いたかったし」


あのやり取りを、ただの友達同士だったと片づけるのは、もう違う気がした。

いや、気がしたというより、たぶん、もう自分でもわかっている。


私は冬吾のことが好きなんだ、と思う。


「そうかもしれない」と思っていたものが、「たぶんそうなんだ」に変わって、最後には、「やっぱりそうだ」と認めるところまで来ただけだ。


画面を見つめ続けて疲れた目とは別のところで、気持ちが落ち着かない。

私はふぅっと息を吐いて、もう一度ディスプレイに向き直った。

会議用の資料はまだ途中なのに、頭の片隅には、土曜日の冬吾がずっと残ったままだった。


次はいつ会えるんだろう。



昼休みは社食で済ませて、そのまま自分のデスクに戻った。

そのほうが静かに過ごせる。

照明は半分落とされていて、フロア全体が眠たそうに見えた。


私は椅子に座ると、ポケットからスマートフォンを取り出した。

なんとなく、冬吾とのLINEを開く。

特に何か送るつもりがあったわけじゃない。

ただ、見たくなっただけだ。


これまでのやり取りを指でゆっくりたどっていく。

すると、先日私が送った写真が目に留まった。

イタリアフェアの広告を撮ったものだ。


何気なく開いて、少し拡大する。

よく見ると、フェアは今週末までだった。

大蔵屋百貨店、九階催事場。


今からでも、間に合う。


私から誘ってみたら、冬吾は来てくれるだろうか。

そんなことを考えた時点で、もう送る文面は決まっていたのかもしれない。


〈この前のイタリアフェア、今週末までみたい〉


送ってから、画面を見つめる。

自分から連絡したことに、少しだけ鼓動が速くなった。


彼も昼休みだったのだろう。

返信は思ったより早かった。


織田冬吾

〈大蔵屋の?〉


短いやり取りなのに、うれしくなる。


〈そう。土曜日行かない?〉


送信した瞬間、胸のあたりがそわそわした。

これまでだって、冬吾に誘われれば普通に行くと答えていた。

けれど、自分から誘うのは少し違う。


それじゃまるで、会いたいと言っているみたいだ。


いや、みたいじゃない。

実際に、会いたいのだ。


通知音が鳴る。

私はすぐに画面を見た。


〈行く〉


あまりにも短い返事だった。


短すぎる、と思った次の瞬間、なんだか可笑しくなってしまって、私はひとりで肩を揺らしていた。

迷うでもなく、気を持たせるでもなく、ただ一言だけで来ると伝えてくるところが、なんだか冬吾らしい。



2


土曜日の十四時に、大蔵屋の正面玄関で待ち合わせをしていた。

私は早めに家を出て、三十分も前に着いてしまった。


さすがに早すぎたかなと思いながら、一階をゆっくり歩く。

大蔵屋の一階はコスメ売り場が広い。

せっかく時間もあるし、前から気になっていた落ちにくいリップカラーを見てみようと思った。


ブランドの名前は、キャンメルだったか、ルミエルだったか。

うろ覚えのまま売り場の前を行ったり来たりしていると、土曜日の館内は思った以上に人が多くて、少し歩くだけでも人の流れに押される。


きれいに照明が落ちるカウンターの前で足を止めて、並んだ口紅を眺める。

こういうとき、はっきり目的があるわけでもないのに、なんとなく見ているだけで楽しい。


すると、店員がにこやかにこちらへ来た。


「何かお探しですか?」


声をかけられて、私はぴくっと肩を揺らした。

胸元できらりと光るネームプレートに、目がいく。


CANMEL 三崎莉子。


ああ、やっぱりキャンメルだったのか、と思う。

でも、そう思っただけで、何を見たかったのか急にうまく言えなくなった。


「あ、ええ……」


口紅を、と言いかけて、ふと時間が気になった。

スマートフォンを取り出すより先に、近くの時計が目に入る。


十三時五十分。


その数字を見た瞬間、私ははっとした。

もう戻ったほうがいい。


「あ、ごめんなさい。待ち合わせの時間きました」


自分でも変な言い方だと思ったけれど、言い直す余裕もなくて、そのまま軽く頭を下げた。

美容部員の人をほとんど置き去りにするような形で、私は急いで正面玄関へ引き返した。


人の多い一階を抜けながら、こんなに早く来たのに、結局ぎりぎりみたいになっている自分がおかしくなる。

けれど、足は自然と速くなっていた。


冬吾がもう来ているかもしれない。


正面玄関前に戻っても、まだ冬吾の姿は見えなかった。


よかった、と思う。

今日は、私の勝ちだ。


そうして人の流れを見ているうちに、見慣れた姿が目に入った。

冬吾だ。


少し離れたところで私を見つけたらしく、そのまままっすぐこちらへ歩いてくる。

人の多い場所で、誰かを探すように視線を巡らせて、でも私を見つけた瞬間に迷いなく向かってくる、あの顔が私は好きだった。


人混みの中でも、ちゃんと私を見つけてくれる。


私の前まで来ると、冬吾は軽く息をつきながら言った。


「待った?」


「五分」


そう答えると、冬吾が目を細める。


「じゃあ、待ったんだ」


「冬吾が遅いから」


「時間前だけど」


すぐに返されて、私は口をとがらせた。


「私は、もっと前に来てたの」


言いながら、得意な気分になる。


「だから、今日は、私の勝ち」


冬吾が可笑しそうに言った。


「何の勝負?」



3


エスカレーターで、九階まで上がって催事場へ入った。

土曜日で、ひどく混んでいる。


催事場には、イタリアのものがずらりと並んでいた。

お菓子、チーズ、生ハム、オリーブオイル、ワイン、パスタ。

見ているだけで華やかで、どこから見ようか迷うくらいだった。


私は別に詳しいわけではないから、気になったものを片っ端から見ていく。

冬吾も特にイタリア通というわけではないらしく、隣で同じように立ち止まっては、適当なことを言っていた。


それが楽しかった。


「あ、これ見て」


私が足を止めたのは、乾燥ポルチーニの棚だった。

小さな袋に入っているのに、値札を見た瞬間、思わず目を見張る。


「高っ」


声に出した私の横で、冬吾も値札をのぞき込んだ。


「買うの?」


「買わない」


「椎茸にこの値段は出せないよな」


冬吾が笑って言った。


「まだ椎茸って言うんだ」


「濃い椎茸」

「事実だから」


冬吾はそう言って、また笑った。


「フィレンツェの店に謝れ」


私も、笑って応戦した。

笑いながら、同時にあのときのことを思い出していた。


フィレンツェで食べた昼食。

あのときも、こんなふうに食べ物の話をしていた気がする。

まだ今みたいに気軽ではなくて、どこか少し遠慮があった。


あの頃は、

「織田さん」

「和倉さん」

と呼び合っていた。


それが今は、

「冬吾」

「楓」

になっている。


ずいぶん遠くまで来たような気がした。


私は乾燥ポルチーニの袋を見つめたまま、言った。


「なんか変な感じ」


「何が?」


冬吾が隣で聞き返す。


私は少し迷ってから、でもそのまま口にした。


「あの時、こんなふうになると思わなかった」


冬吾はすぐには答えなかった。

静かに私を見て、それから、やわらかく笑う。


「俺も」


言葉は短いけれど、冬吾も同じなんだと思った。


出会ってから、まだそんなに長い時間が経ったわけじゃない。

なのに、今日こうして並んで歩いて、適当なことを言い合って、同じものを見て笑っている。

そんな一つひとつが、もうふたりの思い出になり始めている。


私は棚に並ぶ乾燥ポルチーニから目を離して、冬吾を見た。

すると冬吾も、ちょうど同じように私を見ていて、また笑った。


「オリーブオイル、もう一回見てもいい?」


彼は「いいよ」と頷いた。

いろんな種類のオリーブオイルが並んだコーナーは、会計の列ができていて、「こちらが最後尾」と書いた看板を持った若い男性が立っていた。


「最後尾はこちらでーす」


そう言って声を張り上げていた。



催事場らしい賑やかさの中で、私は棚に並ぶ瓶を順番に見ていった。

小さい瓶は見た目が可愛かったけれど、あれではすぐに使い切ってしまいそうだった。

だからといって、大きな瓶は買ったあとが大変そうだ。

持ち歩くには重いし、今日このあとずっと抱えて歩くことになる。


少し迷って、結局やめた。


パスタも同じだった。

形の違うものがいくつも並んでいて見るのは楽しいけれど、いざ買うとなると量が多い。

主食みたいに毎日食べるならともかく、ひとりで食べるにはなかなか減らなさそうだった。


手に取った袋を、私は元の棚へ戻す。


それを見て、冬吾が言った。


「買わないの?」


「ひとりでこんなに使い切れない」


そう答えると、冬吾は棚の大きな袋のパスタに目をやって、何でもないことみたいに言った。


「半分もらうよ」


私は思わず冬吾を見た。


「どうやって?」


聞き返すと、冬吾は少しも困った様子を見せずに答えた。


「次、会うとき持ってくればいい」


次。


その言葉が、思ったより自然に耳に残った。


「次、あるの?」


確かめたかったのかもしれない。

冬吾が何気なく言ったその先を。


すると冬吾は、すぐに言った。


「ないの?」


その返しがあまりに普通で、私は笑いそうになる。

ないわけがない、みたいな言い方だった。


「ある」


そう答えると、冬吾も笑った。


パスタひとつ買うかどうかの話をしていただけなのに、気づけば、次に会う約束みたいなものがひとつ増えていた。

私はもう一度棚のパスタを見た。

さっきまでより、買う理由ができた気がした。



4


催事場を出て、人の流れから外れたところで足を止めた。

ずっと歩いていたから、少し休みたかった。


「どうする? コーヒーでも飲む?」


冬吾がそう言って、近くの案内板に目をやる。


「ジェラートでもいい」


私が答えると、冬吾は「いいね」と笑った。

そのまま並んで歩きながら、私は隣にいる横顔を見た。


付き合ってはいない。

好きだとも、まだ言っていない。


でも、冬吾は会いたかったと言った。

私も、会いたかったと返した。

今日は私から誘った。

そして今、こうして一緒にいる。


そこにまだ、はっきりした名前はない。


言葉で囲わなくても、置いていかれている感じはしない。

曖昧なまま立ち止まっているのとも違う。


冬吾は、そこを急かさない。

確かめるようなことも言わないし、無理に踏み込んでくることもない。

私が言葉にしていない気持ちごと、そのまま隣に置いてくれる。


だから、居心地がいいんだと思う。

そんな相手は、たぶん多くない。


「楓?」


不意に名前を呼ばれて顔を上げると、冬吾がこちらを見ていた。


「何食べるか決まった?」


考え込んでいたのが顔に出ていたのかもしれない。

私は笑って、「まだ」と答えた。



5


大蔵屋を出ると、外はもう日が暮れていた。

建物の明かりが夜の空気ににじんで、昼間より人の流れがゆるやかに見える。


それなのに、どちらからも帰るとは言わなかった。


気づけば、私たちは駅とは反対の方向へ歩いていた。

自然にそうなった、というのがいちばん近い。

どちらかが誘導したわけでもないのに、足は迷いなくそちらへ向かっていく。


どこへ行くんだろう、と思う。

でも、行き先なんて、どうでもよかった。

このまま冬吾と一緒にいられるなら、それでよかった。


私は隣を歩く冬吾を見た。


「冬吾」


「ん?」


「駅、向こうだよ」


そう言うと、冬吾は前を向いたまま答えた。


「知ってるよ」


その言い方があまりにも自然だった。


「遠回り?」


「してるね」


悪びれた様子もなく返されて、私は冬吾の横顔を見る。

わざとなんだ、と思った。


「いいけど」


口にすると、冬吾がこちらを見た。

ほんの一瞬だけ目が合う。


胸の奥が静かに熱を持つ。


帰る時間だとわかっている。

でも、まだ帰りたくないと思っているのは、たぶん私だけじゃない。


それを確かめ合うような言葉はない。

ないまま、同じ方向へ歩いている。


夜の街は、昼より輪郭がやわらかい。

人の声も、車の音も、遠くで鳴っているみたいに聞こえる。

その中を、冬吾と並んで歩く。


遠回りをしているだけなのに、まるで時間そのものを引き延ばしているみたいだった。

私はそれを指摘しないまま、冬吾の隣を歩き続けた。



大蔵屋百貨店を大きく一周するように歩いて戻ってくると、見慣れた東京駅の姿が前方に見えてきた。

人通りもさっきまでより増えている。

駅に近づいたのだと、景色より先に人の流れでわかった。


前から来た人を避けた拍子に、私は冬吾と数メートル離れた。

ほんの一瞬のことだったのに、その距離が思ったより遠く感じる。


「楓」


呼ばれて顔を上げると、冬吾が手を差し出していた。


私はほとんど迷わず、その手を取った。


離れないように。

はぐれないように。

そんな理由をつけることはできるけれど、それだけじゃなかった。


手をつなぐと、冬吾は私の手をしっかり握った。

強すぎるわけではない。

でも、簡単には離れないようにしているのが伝わってきた。


その感触が、じんわりと手のひらに残る。




やがて、視界がひらけた場所に出た。

もう誰かとぶつかる心配はない。

歩く速さを気にしなくてもいいくらい、まわりにも余裕がある。


それでも、手はつながったままだった。


私は冬吾を見上げた。


「もう、離して大丈夫だよ」


そう言うと、冬吾がこちらを見る。


「嫌?」


思いがけない返しに、私は一瞬言葉に詰まった。


「嫌じゃない」


冬吾はすぐに続けた。


「じゃあ、このままで」


その言い方があまりにも自然で、私は何も返せなくなる。

ただ、つないだ手のぬくもりだけが、はっきりと残った。


冬吾の手は、改札を通り抜ける寸前まで離れなかった。

私も、離そうとは思わなかった。




冬の楓 第9話 「このままで」 おわり



pixivで挿絵を後悔しています。

ひより日和、紅葉便り、冬の楓の116作品掲載しています。

興味のある方は、よかったらどうぞ。

https://www.pixiv.net/users/25376040

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