第8話 「理由」
1
「じゃあ、私も冬吾って呼ぶから」
一瞬、言葉に詰まった。
でも、すぐに楓を見て言った。
「……そうして」
改札を抜けて、別々の方向に分かれる前に、今度は意識して呼ぶ。
「楓。じゃあ、また」
「うん。またね、冬吾」
手を振って背を向けた楓は、すぐに人波の中へ紛れていった。
電車に乗ってからも、楓が口にした俺の名前が、いつまでも耳に残っていた。
駅で彼女を「楓」と呼んだのは、完全な思いつきじゃなかった。
最近、ふとした瞬間に楓を思い出すことが増えていた。
映画のCMを見れば、楓はもうこれを観ただろうかと思う。
買い物中に、ぱっと見ただけでは使い方のわからない生活雑貨を見つければ、楓なら知っているだろうかと考える。
そんなことばかりが、気づけば頭をよぎっている。
最初は、「和倉さんなら」だった。
それがいつの間にか、「楓さんなら」になり、今ではもう、「楓だったら」で考えている。
本人の前で口にしなかったのは、名前で呼んだら、近づきたい気持ちまで伝わってしまいそうだったからだ。
それが、人混みの中で少し距離ができた途端、あっさりこぼれた。
俺は、楓が好きだ。
会いたいし、別れたあとも話したことを思い返す。
何かを見つければ、楓ならどんな顔をするだろうと考える。
これを恋愛感情じゃないと言い張るには、もう無理がある。
ただ、まだ知り合って長いわけじゃない。
楓もきっと同じ気持ちだと決めつけるのは違う気がする。
付き合ってみたら、思っていたのと違うことだってあるのかもしれない。
だから今は、もう少し会いながら、互いのことを知っていけばいい。
好きだとわかったことと、すぐに何かを決めることは、たぶん別だ。
2
翌日、木曜の昼だった。
仕事の手を止めてスマホを見ると、片桐さんからLINEが届いていた。
美紗
〈先日はありがとうございました〉
〈来週あたり、お食事にお誘いしてもいいですか?〉
文面は丁寧で、何もおかしくなかった。
前なら、予定を確認して、空いている日をいくつか返していたと思う。
でも、その日は違った。
予定表を開かずとも、候補日を探す気になれなかった。
片桐さんが悪いわけじゃない。
嫌になったわけでもない。
この前の食事が苦痛だった、なんてこともない。
ただ、前とはもう違っていた。
彼女を好きになれたらいいと思って、何度か会っていた頃とは、もう同じではいられない。
楓が好きだとはっきりわかってしまった今、片桐さんの気持ちに気づいていながら、前と同じように会い続けるのは違うと思った。
それはたぶん、失礼だ。
もっと言えば、ずるい。
けれど、片桐さんは、その気持ちを俺にまっすぐ告げたわけではない。
そんな今の段階で、こちらから「もうふたりでは会えません」とはっきり断るのも不自然な気がした。
それでは、彼女がまだ口にしていない気持ちを、こちらから勝手にあるものとして扱うことになる。
しばらく画面を見たまま考えて、俺は短く返した。
〈すみません、来週は難しいです〉
本当は、来週の予定がすべて埋まっているわけではなかった。
ただ、別の日を挙げるつもりはなかった。
理由を説明しないまま「難しい」とだけ返すのも、十分に曖昧で、ずるいのかもしれない。
それでも、今はこれ以上うまく言えなかった。
ほどなくして、片桐さんから返信が来た。
美紗
〈わかりました。また落ち着いたころに〉
その文を見て、気持ちが重くなる。
片桐さんは、今回は予定が合わなかっただけだと思っているのだろう。
そう思わせる返事をしたのは、俺だった。
再来週なら、とは聞かれなかった。
別の日を挙げられることもなかった。
スマートフォンを伏せると、ため息が出た。
誰かを選ぶなんて、そんな大げさな話じゃない。
けれど、ひとつ返事をするだけで、前と同じところには戻れなくなった気がした。
曖昧なまま会い続けるよりは、これでよかったはずだ。
ただ、曖昧さそのものを終わらせたわけではないことも、自分ではわかっていた。
3
土曜日。
やっと休みだ、と思った。
先週の土曜こそ部屋を片づけようと思っていたのに、結局やらなかった。
洗濯はまだいい。
洗剤を入れてボタンを押せば、あとは乾燥まで勝手に終わる。
でも、掃除はそうはいかない。
ゴミだけは出している。
ただ、脱いだ服も、読みかけの本も、買ってきたままの細々したものも、気づけばそのへんに置きっぱなしになっていた。
ベッドの端に腰かけたまま部屋を見渡して、俺はため息をついた。
仕方ない、と観念して、のろのろと立ち上がった。
掃除が終わるころには、十一時を少し回っていた。
床が見えるだけで、部屋はずいぶんましに見える。
達成感がないわけじゃないが、腹は減る。
昼をどうするか考えながら、何か頼むかとスマートフォンを手に取った。
メールは何件か来ていた。
でも、LINEの通知はなかった。
それなのに、開いたのはLINEだった。
楓とは、水曜に会ったばかりだ。
昨日も少しやり取りをした。
さすがに続けてこっちから連絡したら、会いたがっていると思われるかもしれない。
いや、実際、会いたいんだから間違ってはいない。
そこまで考えて、すっきりした。
別に隠す必要なんてない。
楓がどう思うかは楓の自由で、嫌なら断るだけだ。
俺はトーク画面を開いて、短く打ち込んだ。
〈今日、何してる?〉
送ってから、少し早まったかと思った。
こういうときに限って返事が遅い気がするのは、たぶん気のせいじゃない。
しばらくして、画面が光った。
KAEDE
〈洗濯終わったとこ〉
〈あとは、特にない〉
その二行を見た瞬間、口の端を上げる。
そこで間を置く理由もなくて、すぐに返す。
〈昼飯食わない?〉
既読がつく。
すぐ返ってくるかと思ったのに、数秒、沈黙したままだった。
KAEDE
〈今日?〉
〈今日〉
KAEDE
〈急だね〉
たしかに急だ。
けれど、ここで取り繕うのも違う気がした。
〈嫌?〉
送ってから、心臓がうるさくなる。
こんな短いやり取りひとつで落ち着かなくなるあたり、我ながらどうかしている。
やがて返ってきたのは、たった一行だった。
KAEDE
〈嫌じゃない〉
その文字を見た途端、ふっと笑いが漏れた。
少なくとも、俺が誘ったことを迷惑には思っていない。
それだけのことで、昼飯が少し楽しみになる自分が単純だと思う。
でも、悪くない。
スマートフォンを握ったまま、さてどこに行くかと考える。
会いたいと思って連絡して、本当に会えることになった。
さっきまでただの休みだった土曜が、特別に思えた。
4
楓が来やすいように、待ち合わせは東京駅にした。
相変わらず人が多い。
改札前は待ち合わせの人と通り過ぎる人が入り混じっていて、気を抜くと視界が流される。
待ち合わせは十四時。
昼どきなんて、とっくに過ぎていた。
腹は減っていた。
でも、もう昼飯の中身なんてどうでもいい。
食えればいい。
楓と会えるなら、ハンバーガーでもキッチンカーでも、なんでもよかった。
改札を見ていると、楓が出てきた。
すぐにわかった。
髪は後ろでひとつにまとめていて、服はたぶん仕事ではまず着ないだろうジーンズだった。
足元もスニーカーで、いつもよりずっと軽く見える。
俺だって、アイロンもかけていないシャツにジーンズだ。
仕事のときとは、ずいぶん違って見えているのかもしれない。
「よう」
軽く手を上げると、楓がこっちに気づいて、小走りで寄ってきた。
「仕事じゃない服、初めて見た!」
「俺も」
「思ったより普通だね」
そう言って笑う顔を見て、やっぱり好きだと思った。
「何を期待したの」
「休日もスーツかと」
「そんなわけないでしょ」
楓がくすっと笑う。
そのやり取りだけで、来てよかったと思った。
駅を出て、あてもなくぶらぶら歩く。
行先も決めずに歩いているのに、不思議と気まずさはなかった。
隣に楓がいるだけで、会話は勝手に続いていく。
「今日はお店決めてないの?」
「急に誘ったから」
「じゃあ、冬吾が決めて」
「何食べたい?」
「何でもいい」
「一番困るやつ」
「誘った人が考えて」
「面倒だな」
「今、面倒って言った?」
「言った」
楓が呆れたように笑って、でも楽しそうに俺を見る。
数日前まで敬語で話していたのが、もう嘘みたいだった。
気づけば、どっちも当たり前みたいに砕けた言い方をしている。
そのことが、ひどくうれしい。
名前で呼ぶのも、こうして並んで歩くのも、まだ慣れたとは言えない。
でも、無理をしている感じはなかった。
むしろ、こっちのほうが自然なくらいだ。
「で、ほんとに何でもいいの」
「ほんとに何でもいいよ」
「それ、決める側が一番困る返事だから」
「頑張って」
「他人事だな」
また楓が笑う。
そのたびに、腹が減っていたはずなのに、別のもので満たされていく気がした。
店を探しながら歩く午後が、思った以上に楽しい。
何を食べるかより、誰といるかでこんなに違うのかと、今さらみたいに思う。
楓といると、会話が途切れない。
途切れても、気まずくならない。
こんなにも、気兼ねなく心地よく過ごせる相手に出会えたことを素直に喜んでいた。
5
昼を食べ終えて店を出た。
昼飯を食うというだけなら、それで今日の目的は終わったはずだ。
けれど、俺も楓も帰るとは言わなかった。
近くの本屋に入って、映画や本の話をする。
雑貨店をのぞき、ついでみたいにスーパーまで歩く。
特別なことは何もしていない。
ただ、気になるものを見つけるたびに足を止めて、そのたびに話が続いた。
書店の一角で、飛行機の中で感想が割れた映画のBlue-rayを見つけて、楓が笑った。
「これ、やっぱり最後がよかった」
「説明しすぎ」
「まだ言う?」
「感想は変わらないから」
楓が手に取った本を横からのぞき込めば、「これはたぶん冬吾は好きじゃないよ」と勝手に言われた。
逆に俺が棚の商品を見ていると、「それ、便利そうに見えて使わなくなるやつじゃない」と横から口を出された。
そういうやり取りが、いちいち楽しかった。
気づけば、もう夕方だった。
楓といると、時間が短くなる。
飛行機の十二時間もそうだった。
東京で四時間、ただ話していた夜もそうだ。
長いはずの時間が、いつも気づけば終わりかけている。
今日だって、昼飯を食うだけのつもりだったのに、もうそんな時間だ。
何をしたかと聞かれたら、うまく答えられない。
でも、楓といた時間として、ちゃんと残る気がした。
店をいくつか見て回ったあと、交差点で信号を待っていると、楓がふいに聞いた。
「今日は、何か用事あったの?」
「ないよ」
答えると、楓が不思議そうな顔をする。
「じゃあ、なんで呼んだの?」
俺はすぐには返せなかった。
暇だったから。
ひとりで昼を食うのが面倒だったから。
そのへんを選べば、たぶんいくらでも誤魔化せる。
でも、もうそこまで隠す必要もない気がした。
名前で呼び合って、こうして半日一緒にいて、それでもまだごまかすほうが、むしろ不自然だった。
ちょっと考えてから、俺は楓を見る。
「会いたかったからじゃ、駄目?」
言ったあとで、直接的すぎたかと思った。
けれど、撤回するつもりはなかった。
楓は一瞬黙って、ふっと視線を外した。
横顔にわずかな迷いが見えて、さすがに困らせたかと遅れて不安になる。
やがて楓は小さく息をついて言った。
「……駄目じゃない」
さらに少し間を置いて、楓が続けた。
「私も、会いたかったし」
思わず何か返しかけて、やめた。
うれしいと思った。
今は、それ以上の言葉はいらなかった。
たぶん今のは、ほとんど告白みたいなものだ。
好きだとは言っていない。
それでも、俺がどんな意味で言ったのかは、楓にも伝わった気がした。
今日は、これ以上を言葉にしなくてもいい。
俺たちのあいだには、たしかに通じたものがあった。
信号が青に変わり、俺たちはまた並んで歩き出した。
しばらくして、駅へ向かう道に入った。
隣を歩く楓の手を取りたいと思った。
その距離が遠いわけではないのに、触れるには勇気がいる。
人とすれ違うとき、楓がぶつからないように、背中に軽く手を添えた。
そのまま自分のほうへ寄せる。
触れたのはほんの一瞬で、すぐに離した。
でも、本当はそのまま手を取りたかった。
楓は何も言わなかった。
けれど、今日はそこで止める。
たぶん、それでよかった。
駅が近づいて、別れの空気が混じり始めたころ、俺はさりげなく聞いた。
「次は、急じゃないほうがいい?」
楓はすぐに首を振る。
「急でもいいよ」
「わかった」
そう返すと、楓が笑った。
「毎回急にするって意味じゃないからね」
「わかってる」
次がある前提で話している。
それが、当たり前になり始めている。
別れて電車に乗ってから、今日のことを思い返す。
仕事のついでじゃない。
渡すものがあったわけでもない。
相談したいこともない。
行きたい場所があったわけでもない。
それでも、俺は楓に連絡した。
会う理由がなかったわけじゃない。
楓に会いたかった。
会いたいのが理由だった。
冬の楓 第8話 「理由」 おわり




