↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
冬の楓  作者: mamio


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
7/21

第7話 「名前」

1


昨夜、帰宅したのは二十三時少し前だった。


今日は土曜日で休み。

枕元で充電ケーブルにつながれたままのスマートフォンに目をやると、時刻はもう十時を回っていた。

寝すぎた、と思う。

けれど、そう思ったところで急にしゃんとできるわけでもなく、私はぼんやり天井を見つめていた。


ようやくのろのろと身を起こし、部屋着に着替えて、洗面台で顔を洗う。

目が覚めたところで何か食べようと冷蔵庫を開けたけれど、中には大したものが入っていなかった。


今週は月曜、水曜、金曜と外で食べた。

そのあいだの火曜と木曜も、買ってきたもので簡単に済ませた。

そんな生活をしていると、冷蔵庫の中身はいつも中途半端になる。


幸い、このマンションの一階にはコンビニがある。

とりあえず何か買おうと決めて、私は髪をひとつにまとめた。


スマートフォンと鍵だけを持って玄関へ向かう。

靴を履こうとしたところで、手にしていたスマートフォンが短く震えた。


画面を見ると、織田さんからだった。


織田冬吾

〈来週、いつ空いてます?〉


昨日会ったばかりなのに、もう次の予定を聞いてきている。

その早さに少し驚く。

けれど同時に、また会いたいと思っていたのも本当だった。


頬がゆるむ。

たぶん今、かなりだらしない顔をしている。

鏡を見なくてもわかった。


薄暗い玄関で立ったまま、私はカレンダーアプリを開いた。


月曜日は競合の新製品チェックがある。

たぶん遅くなる。


火曜日はリサーチ会社との会合。

これも何時に終わるかわからない。

水曜日か金曜日なら、たぶん定時で帰れる。


少し考えてから、私は短く打った。


〈水曜か金曜で〉


送ってすぐに返信が来る。

彼も今日は休みなのかもしれない。


織田冬吾

〈じゃあ、水曜日〉


「はや」


思わず声が漏れた。


織田さんは慎重そうに見えるのに、こういうところではあまり迷わない人なのかもしれない。

飛行機で初めて彼を見たときは、淡々としていて、落ち着いて物事をこなしていく人という印象だった。

もっとも、第一印象なんてあてにならないことも多いけれど。


私はそのまま水曜日の予定をカレンダーに入れる。


画面に表示された名前を見つめて、小さくつぶやいた。


「織田さん」


その四文字だけで、また口元がゆるむ。


スマートフォンをポケットにしまって、私は玄関のドアを開けた。

さっきまで億劫だったはずなのに、足取りは思ったより軽かった。



2


また、新しい一週間が始まった。


エレベーターの扉が開いて、プロダクトマーケティング部へ向かう廊下を歩いていると、前の角から曲がってきた坂上くんと、ちょうど正面で鉢合わせした。


「おう」


「おはよ」


軽く挨拶だけして、そのまますれ違うものだと思っていた。

けれど坂上くんは立ち止まり、私を見る。


「水曜、行ける?」


先週と同じような調子の、いつもの誘いだった。


水曜は無理だ。


その答えは、考えるまでもなく出た。


「水曜は、予定がある」


言ってから、ほんの少しだけ間が空いた。

坂上くんは意外そうでもなく、ただ拍子抜けしたような顔で口を開いた。


「珍しいな」


「そう?」


「水曜、だいたい空いてるだろ」


「毎週空いてるわけじゃないよ」


それだけ言えば、十分だった。


坂上くんは、誰とどこへ行くのかを細かく聞いてくるタイプじゃない。

私もわざわざ、織田さんと食事だとは言わない。


水曜日に予定があるのは嘘じゃない。

坂上くんに自分の予定をひとつひとつ報告する義務もない。

それに、織田さんのことは、まだ誰かに説明するような関係でもなかった。

そもそも、聞かれてもいない。


そこまで考えて、私は自分の中に引っかかるものを感じた。


もし、坂上くんに「誰と?」と聞かれていたら。


私はすぐに答えられただろうか。


たぶん、詰まったと思う。


いや、そんなことを考える必要ある?


心の中でそう言い返してみても、きっぱりとは言い切れなかった。


別に隠したいわけじゃない。

ただ、言葉にした途端、まだ曖昧なものまで輪郭を持ってしまいそうで、それが落ち着かないだけだ。


坂上くんはもう、それ以上は何も言わなかった。


「じゃあ、また今度な」


「うん」


短いやり取りを終えて、私たちは今度こそすれ違う。


そのまま数歩進んでから、私は浅い息をついた。


水曜日に予定がある。

それだけのことなのに、胸の内側がわずかに熱を持っている気がした。

朝礼がもう始まるのに、意識の一部だけが、少し先の水曜日に触れたまま離れない。



3


今日は、朝のメールチェックを済ませたら、そのまま外へ出る予定だった。


展示会に行くのだ。


競合他社のブースをひと通り見て回って、気になるところは足を止める。

実物に触れて、デモも体験して、必要があれば担当者にも質問する。

画面越しではわからないことを拾うには、やっぱり現地に行くのが早い。


会場に着いてからは、思った以上に時間が早く過ぎた。

ひとつブースを見るたびに確認したいことが増えて、気づけば昼になっていた。


同行した同僚たちと交代で昼食を取ることになり、私は近くの店に入って簡単にサンドイッチを頼んだ。

席について、張っていた背中を緩めた。

アイスコーヒーにストローを差したところで、スマートフォンが鳴った。


LINEだった。


表示された名前を見て、私は目を細める。


織田冬吾

〈水曜日、肉と魚どっちがいいですか?〉


ずいぶん大雑把な聞き方だと思った。


私はすぐに打ち返す。


〈雑ですね〉


間を置かずに返ってきた。


織田冬吾

〈店をふたつまで絞りました〉


それなら最初からそう言えばいいのに、と思う。

けれど、その少し足りない説明の仕方が、なんだか織田さんらしい気もした。


正直、どちらでもよかった。

肉でも魚でも困らない。

でも、たまには魚もいい。

お刺身は好きだ。


〈じゃあ、お魚で〉


織田冬吾

〈わかりました〉


そこでやり取りは終わるかと思った。

私はアイスコーヒーをひと口飲んだところで、つい口元がゆるんだ。

こんなふうに平日の昼間に連絡を取り合っていること自体が、なんだか可笑しい。


スマートフォンをバッグにしまおうとした、そのときだった。

また通知音が鳴る。


織田冬吾

〈ポルチーニはありません〉


思わず、吹き出しそうになった。


ひとりで昼を食べながら声を出して笑うのはさすがに恥ずかしい。

私は慌ててハンカチを口元に当てて、息を止める。

肩だけが小さく震えた。


〈なくていいです〉

〈濃い椎茸なんでしょ〉


返すと、すぐにまた届く。


織田冬吾

〈好きだって言ってませんでした?〉


好きでも、あれは秋の短い時期にしか食べられないきのこだ。


「ほんとに、もう」


小さく声が漏れた。


〈私は好きです〉

〈織田さんが、濃い椎茸って言ったの〉


織田冬吾

〈事実を言っただけです〉


真面目なふりをした、どうでもいいやり取りだった。

敬語のままなのに、話していることはくだらない。

けれど、そういうやり取りほど楽しくて、気がつけば昼休みいっぱいまでLINEは続いていた。


サンドイッチはとっくに半分以上なくなっていて、アイスコーヒーの氷もだいぶ溶けている。


午後もまだ展示場を回らなければいけない。

少し前まで仕事のことだけでいっぱいだった頭の中に、水曜日のことが静かに居座っていた。



夕方まで展示会場を何周もして、気づけばずいぶん歩き回っていた。

会場を出て駅に着いた頃には、もう日が暮れている。

足は重いのに、頭の中だけがまだ仕事の続きみたいにざわついていて、改札へ向かう人の流れに混じりながら、私はぼんやりと構内を歩いていた。


そのとき、柱に貼られた大きな広告が目に入った。


また笑いそうになる。


なんてタイムリーなんだろう。


イタリアフェアの広告だった。

真ん中にはポルチーニの写真が大きく載っていて、その周りをパスタやトマトの写真が囲んでいる。

少し洒落た雰囲気のデザインで、キャッチコピーまでしっかり目に入った。


【ポルチーニがほほ笑む季節です】


それを見た瞬間、昼のLINEを思い出した。


私は足を止めて、スマートフォンを取り出す。

広告にレンズを向けて一枚撮ってから、そのままLINEを開いた。

もう迷うことなく、指は織田さんとのチャット画面を選んでいる。


写真を添えて、短く打つ。


〈見つけました〉


送ると、ほどなく返信が来た。


織田冬吾

〈買うんですか?〉


〈高いからやめました〉


すると、すぐ次が届く。


織田冬吾

〈椎茸にしては高いですね〉


私はふっと吹き出した。


ほんとうに、この人はこういうところだけ妙にぶれない。


昼のやり取りを引っぱっているだけなのに、ちゃんと返してくるのが可笑しい。

しかも、真面目そうな顔で打っているのだと想像できてしまうから、なおさらだった。


人の流れを邪魔しないように柱の脇へ寄って、私は口元を押さえる。

さっきまで展示会で張っていた気が、すうっとほどけていくのがわかった。


ただの広告を見つけただけなのに、こんなふうに送ってしまう自分がおかしい。

でも同時に、こういうどうでもいいことを共有したい相手として、真っ先に織田さんの顔が浮かんだ。


これから先も、何か面白いものを見つけたら、たぶん私は彼に知らせるのだろう。


そう思いながらスマートフォンをしまい、私は再び人の流れに戻った。

足の疲れは変わらないはずなのに、帰り道は軽くなった気がした。



4


水曜日は、何としてでも定時で上がるつもりだった。


朝から、視察報告と新規技術調査書を書き進める。

合間にメールを確認して、返すべきものは先に返しておく。

今日は少しでも机の上に仕事を残したくなかった。


時計を気にする回数が、自分でもわかるくらい多い。


十七時半になって、私はエレベーターホールへ早足で向かった。

彼との待ち合わせは、前回と同じ十八時。

間に合うとわかっていても、少し急いでしまう。


待ち合わせ場所に着いたのは五分前だった。

これなら悪くないと思ったのに、彼はもうそこに立っていた。


「お疲れ様です」


軽く手を上げて、織田さんが言う。


「お疲れ様です。今日、早かった?」


そう言いながら近づくと、彼は口元をゆるめた。


「五分くらい」

「俺の勝ち」


「何の勝負?」


自分で言っておいて、楽しそうなのが可笑しい。

私は笑って、そのまま彼の隣を歩き出した。


織田さんが選んでくれた魚の店は、「海鮮大漁」という名前だった。

勢いのある店名だなと思ったけれど、案内された店内は思ったより落ち着いていて、今日はカウンター席に通された。


とりあえずビールを頼んで、刺身の盛り合わせが出てくる。

続いて海老の塩焼き、鯖の味噌煮。

並んだ料理を見ただけで、たしかに今日は魚で正解だったかもしれないと思う。


「魚で正解だったでしょ」


織田さんが、にやりと笑って私を見る。


「いいお魚を選んだのはお店の人でしょ」


「店を選んだのは俺だから」


得意げな言い方が、なんだか子どもっぽくて可笑しい。


そんなふうに、最初はまだ整っていた会話も、時間が経つにつれてだんだん崩れていった。

気づけば敬語は残っていても、話し方の距離はかなり近くなっている。

もう、仕事相手みたいな話し方ではなかった。


休日は何をしているのか。

最近読んだ本や観た映画は何か。

料理はするのか。

よく行くスーパーはあるのか。

果ては、特定のスーパーのプライベートブランドが意外と侮れない、なんて話までしていた。


本当に、どうでもいい生活の話ばかりだった。


でも、そういう話で時間が流れていくのが心地よかった。

どちらかが無理に話題を探している感じもなくて、思いついたことをそのまま口にして、それがちゃんと会話になっていく。


私は、先週の土曜日は起きたら十時だった、という話をした。


すると織田さんが少し目を上げて、こちらを見る。


「休みの日、寝て過ごすの?」


「予定がなければ、起きる必要ないでしょ」


「一日は減りますよ」


「寝てても、疲れが取れるなら目的には近づいてるでしょ」


そう返した瞬間、彼が間を置いて言った。


「それ、俺が飛行機で言ったやつ」


私はグラスに口をつけたまま、目だけで彼を見る。

織田さんは、ただ面白そうにこちらを見ていた。


「覚えてたんですか」


「言った本人だから」


「私は気に入ったから使っただけです」


「そういうことにしておきます」


その言い方が優しくて、私はなんとなく視線を外した。


こういう、何でもないやり取りが増えていくたびに、最初に会ったときの少し硬い印象が、静かにほどけていく。

落ち着いていて、淡々としていて、簡単には崩れなさそうに見えた人が、こうしてたまに楽しそうに笑う。


そのたびに、私も楽しい。



5


店を出ると、雨が降っていた。


私は傘を持っていなかった。

織田さんは鞄から折り畳み傘を取り出して、私を見た。


「駅まで、一緒に入る?」


「入れてください」


傘を持つのは、自然に織田さんだ。

身長差を考えれば、そのほうが歩きやすい。

けれど、ひとつの傘にふたりで入ると、思った以上に距離が近い。

歩くたびに肩や腕がかすかに触れる。

そのたびに意識して離れると、今度は傘の外へ出てしまう。


「そっち、濡れる」


「織田さんのほうが濡れてる」


「和倉さんが外に逃げるからでしょ」


「近いと歩きにくいから」


「離れるほうが濡れるよ」


最後の言い方には、もう敬語がなかった。


私は黙って、それからほんの少し織田さんのほうへ寄った。

触れないように気をつけるのを、やめる。

そうしたところで何かが変わるわけじゃないのに、その小さなことがなんとなく意識に残った。


駅に着いて、傘を閉じると、さっきまでの近さが嘘みたいに消える。

改札へ向かって並んで歩きながら、私はもうここで別れるのだと思った。


まだ二十一時を少し過ぎたくらいだった。

帰らなければならない時間じゃない。

そう思ったら、足がそのまま前へ進むのをためらった。


少し迷ってから、私は自分から口を開く。


「織田さん、まだ時間ある?」


「あるけど」


「コーヒー飲んで帰らない?」


織田さんは緩く目を細めた。


「いいよ」


その返事を聞いたとき、ほっとした。

どうしてかはわからなかった。


気づけば、私たちはもう敬語に戻っていなかった。



6


駅の中のカフェで、私たちはさらに一時間ほど話した。


話していた内容は、別に大したことじゃない。

さっきの食事の続きみたいなことや、学生時代の話。

嫌いな食べ物のことや、最近、話題になったニュース。

どれも、わざわざ誰かに聞かせるほどの話ではない。


それでも、不思議なくらい時間が過ぎるのが早かった。

友達に話すように、言葉が自然に出てくる。


店を出ると、今度こそ改札へ向かう。


夜の駅は人が多い。

仕事帰りの人たちが絶えず行き交っていて、隣を歩いていた彼とのあいだにも、人が入り込んだ。

私は人の流れに押されるように、数メートル先へ進んでしまう。


そのとき、後ろから声がした。


「楓」


足が止まった。


振り返ると、織田さんが人のあいだを抜けて、こちらへ歩いてくる。


「今、呼んだ?」


そう聞くと、織田さんは一瞬だけきょとんとした顔をした。


「え?」


「楓って」


そこでようやく、自分がそう呼んだことに気づいたらしい。

織田さんはほんの少しだけ言葉を詰まらせた。


「あ……嫌だった?」


嫌なわけがない。


私はただ、驚いただけだった。

織田さんの声で呼ばれた自分の名前が、まだ耳の奥に残っている。

たった三つの音なのに、さっきまでとは違う響きに聞こえた。


「嫌じゃない」


そう答えると、織田さんは安心したように目元をゆるめた。


その顔を見ていたら、私も黙っているのが惜しくなった。


「じゃあ、私も冬吾って呼ぶから」





冬の楓 第7話 「名前」 おわり



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。