第6話 「会う理由」
1
木曜日、俺は片桐さんとの待ち合わせ場所へ向かっていた。
騒がしい店は、彼女には似合わない気がした。
かといって、高級すぎる店も違う。
ああいう場所は、彼女なら慣れているのかもしれないが、俺はどうにも肩がこる。
待ち合わせは東京駅、十八時四十五分。
駅まで行くと、片桐さんはもう来ていた。
「こんばんは」
声をかけると、片桐さんはきれいに微笑んだ。
「こんばんは」
「相変わらず、お忙しそうですね」
「今日はわざわざ、ありがとうございます」
「いえ。行きましょうか」
店までは、そこから歩いて数分だった。
予約しておいたのは、落ち着いた雰囲気の小さなビストロだ。
店に入って、向かい合って席につく。
片桐さんは酒を飲まない。
メニューを見て、ルイボスティーを選んでいた。
俺だけ酒を頼むのも、なんとなく違う気がして、同じものを頼んだ。
料理をいくつか注文してから、持ってきた紙袋を彼女に差し出す。
「ほんとに買ってきてくださったんですね」
そう言って笑う顔は、品があって、やっぱりきれいだった。
「期待しないほうがいいとは言ったんですけどね」
「でも、買ってきてくださったから」
片桐さんは、嬉しそうに笑っていた。
喜んでもらえたのは、素直に嬉しかった。
片桐さんは美人で、上品で、話していて不快になることがない。
だからといって、義理でここにいるわけでもない。
面倒な付き合いなら、そもそも来ていない。
片桐さんは、ヴァイオリニストだ。
今は演奏会に向けた稽古で忙しいらしい。
「今日も昼間は、合わせの稽古だったんです」
「みんなはもう十分だと言うんですけど、私は納得できないと、何度でもやり直したくなってしまって」
「少し呆れられています」
「片桐さんらしいですね」
そう言うと、彼女はうつむいて、照れたように笑った。
そのタイミングで料理が運ばれてきて、テーブルの上に皿が並んでいく。
「じゃあ、食べましょうか」
彼女は小さく頷いて、フォークを手に取った。
「本番は、来週の日曜日でしたっけ」
「覚えていてくださったんですね」
「前に聞いたので」
片桐さんは、それだけで嬉しそうに笑った。
日程を覚えていたことが、そんなに意外だったのだろうかと思う。
それから、次の公演で弾く曲や、今回の稽古のことを聞いた。
俺には専門的なことまではわからない。
それでも、片桐さんが楽しそうに話すので、聞いていることは苦にならなかった。
片桐さんが俺に向けている気持ちには、前からなんとなく気づいていた。
初めて会ったのは、たしか半年前くらいだ。
何度か顔を合わせ、誘われて食事をするようになった。
仕事に向き合う姿勢も、演奏のために努力を惜しまないところも尊敬できる。
条件だけ見れば、申し分ない相手なのだと思う。
そんな女性が、自分に好意を向けてくれている。
それなのに、自分に合う相手とはどういう人なのか、俺の中ではまだはっきりしなかった。
理想のようなものはある。
だが、そんなものを並べたところで、現実とは別だ。
そもそも世の中の夫婦が、最初から自分にぴたりと合う相手を見つけて結婚しているとも思えない。
最初は特別な感情がなくても、会っていくうちに相手を知って、少しずつ好きになることもあるのかもしれない。
だから、片桐さんからの誘いを断ることはしなかった。
最初から、好きになれるはずがないと思っていたわけではない。
むしろ、好きになれたらいいと思っていた。
会うたびに、これまで知らなかった一面をひとつずつ見つけて、そのどれかが自分の中に残るかもしれない。
そう考えて会っていたのは、嘘ではなかった。
今夜も、普通に楽しかった。
話していて困ることはないし、気まずくもならない。
料理も悪くなく、会話も途切れなかった。
それでも、食事を終えて駅へ向かう道を歩きながら、次に何を聞いてみたいか考えてみた。
けれど、何も浮かばなかった。
歩きながら、そのことをぼんやり考える。
もし彼女から、またお誘いしてもいいですかと聞かれれば、もちろんと答えると思う。
けれど、自分から次の予定を決めたいかと考えると、そこまで気持ちは動かなかった。
その違いが何なのか、うまく言葉にはできない。
好きになれない、そう言い切ってしまうのも、まだ違う気がした。
単に、まだ知らないだけなのかもしれない。
会う回数が増えれば、この先に何かが見えてくるのかもしれない。
答えを出すには、もう少し時間が必要なのだと思っていた。
2
翌日の金曜日。
俺は仕事をしながら、いつもより何度も時計を見ていた。
急ぎの案件が立て込んでいるわけではない。
やるべきことは順に片づけているし、手も止まっていない。
それでも気がつくと、視線だけが壁の時計やパソコンの表示に向かっていた。
十八時に、東京駅で和倉さんと会う。
その予定が頭の片隅にあるせいだと、自分でもわかっていた。
ようやく仕事がひと区切りついて、俺は書類をまとめた。
まだ少し早い。
だが、このあと新しく何か抱え込むよりはいいと思って、会社を出ることにした。
エレベーターを降りて、ビルの外へ出る。
夕方の空気はまだ少し熱を残していて、首もとが窮屈に感じた。
品川駅へ向かって歩きながら、俺はネクタイをゆるめ、そのまま外した。
仕事帰りのまま会うより、このほうが息がしやすい。
待ち合わせには、たぶん早く着く。
けれど、待たせるよりはそのほうがいい。
そう考えたのは事実だった。
東京駅に着くと、人の流れは思ったより多かった。
仕事帰りの足早な人たちに混じって、待ち合わせらしい人影があちこちに見える。
俺は足を止め、視線を巡らせた。
その向こうに、和倉さんの姿を見つけた。
和倉さんは、俺に気づくと軽く手を上げた。
「お疲れ様です」
その声も、表情も、気負いがなかった。
それがありがたかった。
こちらまで身構えずに済む。
飛行機の中でも、フィレンツェのレストランでも、彼女はそんなふうだった。
変に距離を詰めるでもなく、かといってよそよそしくもない。
気軽で、自然で、話していて疲れない。
東京で会っても、やっぱり同じだった。
3
店を出たとき、もう二十二時になろうとしていた。
十八時に予約していたから、四時間近く、食べて飲んで話していたことになる。
ずいぶん長くいたはずなのに、不思議と時間が経った感じがしなかった。
日本でこうして会っているのが不思議だと口にしたのは、俺のほうだった。
和倉さんには「日本人なんだからいますよ」と笑われた。
それでも、あの飛行機の中で隣り合わせになって、フィレンツェで食事をして、帰国してから東京でまた会っている。
こうして言葉にすると、たしかに少し妙だった。
食事の最中、ポルチーニの話になった。
和倉さんは、俺がそれほど気に入っていなかったことを、最初から見抜いていたらしい。
「濃い椎茸でしたね」と言ったときの彼女の笑い声が、まだ耳に残っている。
仕事で何に腹を立てていたのかと聞いたときのことも、印象に残っていた。
和倉さんは少し考えて、「勝手に決められたこと」と答えた。
「できるかどうかじゃなくて、先に聞いてほしかった?」
そう尋ねると、彼女は「そう。それです」と顔を上げた。
考え込んで答えを選んだというより、その場で自分の気持ちの形を見つけたような顔だった。
その表情が、鮮明に浮かぶ。
彼女の愚痴も、イタリアでの出来事も、飛行機の中で見た映画の話も、聞いていて飽きなかった。
何を思ってそう言うのか。
どうしてそこで笑うのか。
なぜ、そんなふうな顔をするのか。
話を聞きながら、俺は何度もその先を知りたいと思っていた。
駅の手前まで来たところで、俺はさっきから考えていたことを口にした。
「LINE、聞いてもいいですか」
どう切り出すのが自然か考えていたくせに、結局はそのまま言うしかなかった。
和倉さんは、やはり気軽な調子で答えた。
「ええ、大丈夫」
その返事に、ほっとする。
メールアドレスしか知らなかった和倉さんの名前が、LINEのリストに加わった。
思ったより嬉しかった。
別れてから電車に乗り、俺はスマートフォンを取り出した。
〈今日はありがとうございました〉
と送ると、和倉さんから、
KAEDE
〈こちらこそ、ごちそうさまでした〉
と返ってきた。
そのあとで、
〈次は割り勘で〉
と送った。
彼女から返ってきたのは、
KAEDE
〈次もあるんですね〉
だった。
その返信を見て、初めて気づいた。
自分の中では、もう次がある前提になっていたらしい。
だから、その返事はむしろ意外だった。
ないと思われていたんだろうか。
そう考えて、今度はすぐに打つ。
〈ないんですか〉
送信して、画面を見たまま待つ。
やがて返ってきたのは、短い一言だった。
KAEDE
〈あります〉
それを見た瞬間、俺は思わず笑った。
安心したのか。
嬉しかったのか。
あるいは、その両方だったのかもしれない。
自分でも、まだよくわからなかった。
帰宅してからも、食事の最中に交わした会話がふと頭に浮かんだ。
仕事の愚痴。
ポルチーニの味の話。
旅先だったからこそ話せたのかもしれない、そんなことまで。
一つひとつを取り出せば、べつに大した話ではない。
特別に盛り上がる話題だったわけでも、忘れられない出来事があったわけでもない。
それなのに、なぜか何度も思い出した。
服を着替えているときも、洗面台の前に立ったときも、寝る前にスマートフォンを置いたあとも、断片みたいに会話が戻ってくる。
あのとき、和倉さんはどういうつもりでああ言ったのか。
どうしてあんなふうに笑ったのか。
あの一瞬、何を考えていたのか。
気になっているのは、会話の内容そのものより、たぶん彼女のほうだった。
会っているあいだが楽しい相手なら、これまでにもいた。
食事の席で話が弾むこともあるし、その場かぎりで気分よく過ごせる相手もいる。
けれど、別れたあとまで言葉が残る相手は、そう多くない。
静かな部屋の中でそんなことを考えて、俺は自分が思っていたよりずっと今夜を引きずっているらしいと気づいた。
4
翌日の土曜日になっても、その感じは変わらなかった。
昨夜会ったばかりなのに、次はいつ会えるだろうと考えている。
スマートフォンを開いて、予定表を見た。
少し迷った。
早すぎる気もした。
昨夜別れたばかりで、もう次の約束を取りつけようとするのは、我ながらどうかと思う。
それでも、画面を閉じる気にはならなかった。
LINEを開いて、和倉さんの名前をタップする。
短く息をついてから、文字を打った。
〈来週、いつ空いてます?〉
送ってしまってから、やはり少し早かったかもしれないと思う。
だが、取り消そうとは思わなかった。
会いたいと思ったから、誘った。
それでいいと思った。
冬の楓 第6話 「会う理由」 おわり




