第5話 「東京」
1
少し酔っているのかもしれない。
でも、このくらいなら平気だと思った。
温かい座席に座るのはよくない。
たぶん、座ったら寝る。
どうせまだ二十一時前だし、車内を見回しても座席は空いていない。
坂上くんと駅の改札で別れてすぐ、私はスマートフォンのメールアプリを開いた。
差出人は織田冬吾。
〈織田です〉
〈無事に帰れました?〉
彼から連絡が来るとは思っていなかった。
名刺には「東和マテリアル株式会社」「電子材料事業本部」とあった。
暇な仕事ではないだろうし、出張中に聞いた話からしてもかなり忙しいはずだ。
私だって、それなりに忙しいのだから、そのくらいはわかる。
フィレンツェで別れるとき、彼はたしかに「帰国したら、また飯でも食いましょう」と言っていた。
けれど旅先で交わす「また」は、そのまま立ち消えになることも多い。
社交辞令とまでは言わなくても、日常に戻れば薄れていく類いの言葉だと思っていた。
私はドアの脇に立って、揺れに備えながら「返信」をタップした。
〈帰れました。昨日はほとんど寝てました〉
〈織田さんもご無事なようで、よかったです〉
駅をふたつ過ぎたころ、彼から返事が届く。
〈疲れました〉
〈今日は普通に仕事してます〉
翌日から仕事か、と少し驚いた。
時差もあるだろうし、荷物の片づけも、会社への報告もあるはずだ。
それでも私が返したのは、ずいぶん軽い一文だった。
〈元気ですね〉
送ってすぐ、また通知があった。
〈元気じゃありません〉
〈帰りたいです〉
私は声を立てずに、目尻だけで笑った。
イタリアで話していたときの、少し乾いたような、でもどこか正直な彼の口調がそのまま浮かぶ。
そんなふうに短いやり取りを続けていたとき、ふいに届いた一文に、私は画面を見つめた。
〈今度、東京でも飯食いに行きませんか?〉
フィレンツェで聞いた「帰国したら」を思い出す。
あれは本当に、ただの旅先の言葉ではなかったらしい。
約束というほど大げさなものではなくても、あの会話の続きをまた彼とできるのだと思うと、素直にうれしかった。
〈いいですね〉
返すと、すぐに「水曜日」か「金曜日」と候補が送られてきた。
水曜日は坂上くんとの約束がある。
迷うまでもない。
〈金曜日なら大丈夫です〉
そう打って送信してから、私はスマートフォンを握ったまま、窓に映る自分の顔をちらりと見た。
頬が熱いのは、お酒のせいだけではない気がした。
私は窓から目を逸らし、もう一度スマートフォンの画面を見た。
2
水曜日、私は坂上くんと駅から少し離れた店に入った。
坂上くんとふたりで食事をするのは珍しいことじゃない。
ただ、二日と空けずに続くのは、少し珍しかった。
同じ会社にいるから共通の話題はいくらでもあるし、気を遣いすぎなくていい相手でもある。
「今日の会議、長すぎ」
「わかる。長いと集中切れるよな」
そんなやり取りから始まって、気づけば同僚の話になっていた。
「また、経理の斎藤さんに領収書のこと言われた」
「今度はなんて?」
「経費で落とせないとかなんとか」
「なんの領収書」
「ホテル近くのスーパーで買ったお菓子。1.5ユーロ」
「そりゃ無理だろ」
「ほんと細かいったら」
くだらない話で笑って、仕事の愚痴をこぼして、それなりにおいしいものを食べる。
帰りは駅まで並んで歩いて、改札でじゃあまたと手を振る。
いつもの流れだった。
これはこれで、ちゃんと楽しい。
気楽で、安心できる時間だと思う。
でも、その夜の帰り道、私の頭の片隅にはずっと金曜日があった。
織田さんと会う約束をしている金曜日。
理由をはっきり言葉にできるほどではない。
それでも、楽しみにしていることだけは、もう認めてもよかった。
3
金曜日。
月城ホールディングスの定時は十七時半で、織田さんとは十八時に東京駅近くの和食店の前で待ち合わせをしていた。
金曜の夕方らしく、店の前は落ち着かないほど人が多かった。
仕事帰りらしい人たちが次々に暖簾の向こうへ消えていく。
その流れを眺めながら、私は少し早めに着いた自分を持て余していた。
けれど、待ったのは五分もなかった。
人の波の向こうに織田さんの姿を見つけた。
仕事帰りだから当然スーツ姿だった。
飛行機の中で見たときも、ノータイでよく似た格好をしていた気がする。
今日もタイは外していて、たぶんここへ来る途中で外したのだろうと思った。
フィレンツェで会ったときには、ネイビーにシルバーの斜めストライプのタイを締めていたことまで、なぜかまだ覚えている。
織田さんは私を見つけると、まっすぐこちらへ歩いてきた。
私は目が合ったタイミングで軽く手を上げた。
「お疲れ様です」
「お疲れ様です。待ちました?」
「いいえ。二分くらいじゃないですか?」
そう答えると、織田さんはくすっと笑った。
「十分とか言われなくてよかった」
その言い方がおかしくて、私もつられて笑う。
彼は笑ったまま、目を細めて私を見下ろした。
金曜の夕方のざわついた街の中で、その一瞬だけ、そこだけ空気がやわらかくなった気がした。
席に着くと、私たちはまずビールを頼んだ。
メニューを開いた織田さんが、ついでのような自然さで尋ねる。
「嫌いなものとか、食べられないものあります?」
「あるかもしれないけど、少ないです」
そう答えると、織田さんはうなずいた。
「じゃ、その都度で」
いかにも彼らしい言い方だと思った。
必要以上に気を回しすぎず、それでもちゃんと気にかけてくれる感じがする。
運ばれてきたビールで乾杯して、一口飲んだあとだった。
織田さんがグラスを置いて、ふっと私を見た。
「なんか、不思議ですね」
「なにがですか?」
「和倉さんが日本にいるのが」
「日本人なんだからいますよ」
そう返すと、彼は笑った。
「わかってるんですけど」
でも、その感覚は私にもわかった。
私の中でも、織田さんはまだ、イタリアにいる人のままだった。
飛行機の中で隣り合って、食事をして、別れた相手。
その人が今は東京で、こうして私の向かいに座っている。
そのことが、たしかに不思議だった。
メニューを見ながら、私はふと思いついて言った。
「今日はイタリアンじゃないんですね」
「しばらくいいかと思って」
真顔で返されて、私は笑う。
「私、ポルチーニならまだいけますよ」
そう言うと、織田さんは意味ありげに口もとをゆるめた。
「あれ、そんなに旨かったですか?」
「織田さん、あんまりだったでしょう?」
「椎茸は好きです」
「そんなこと聞いてません」
思わず吹き出しそうになりながら返すと、彼も笑った。
あのとき、フィレンツェでは結局ちゃんと聞けなかった感想が、こんなふうに今さら出てくるのがおかしかった。
「濃い椎茸でしたね」
織田さんがそう言って、また笑って、私もつられて笑った。
旅先の記憶が、そのまま東京の夜につながっていく気がした。
二杯目のビールが半分ほど減ったころ、話題は自然と、帰国してからの仕事のことに移っていた。
「帰国早々、新しい案件のメンバーに加えられました」
「私ならできると思ったっていうんですよ」
「できるできないじゃなくて、結構面倒な感じなんです」
「やる人がいないから、私に回ってきたのかと思って」
そこまで言ってからグラスを置くと、織田さんが静かに聞いた。
「仕事が増えたことが嫌なんですか?」
「それも嫌です」
「一番は?」
少し考えて、私は眉を寄せた。
「……勝手に決められたこと?」
「できるかどうかじゃなくて、先に聞いてほしかった?」
「そう。それです」
口にした瞬間、胸の中で引っかかっていたものの形が、はっきりした気がした。
私は、自分のいないところで話が進んで、気づけば当然みたいにその中に入れられていたことが嫌だったのだ。
坂上くんなら、たぶんこういうときは何も挟まず、私が言いたいだけ言うまで待ってくれる。
けれど織田さんは、少し違った。
問い返されることで、自分が何に腹を立てているのかを、私自身が見つけることになる。
「それなら、俺だってありますよ」
「納期を早めろとかね」
「帰国直後ですよ」
「織田さんが引き受けるの、わかってて言ってるんですよ、それ」
そう言うと、織田さんはわずかに考える顔をした。
「そうかもしれないですね」
「嫌なら断ればいいのに」
「和倉さんにも、そのまま返しますよ」
「私の話は別です」
「同じでしょ」
なんとなく彼となら、楽しく飲めると思っていた。
やっぱりその通りだった。
飛行機の中で話して、フィレンツェで二時間足らず食事をしただけ。
仕事で直接つながっているわけでもなく、共通点といえば同じ会社員だということくらいだった。
それなのに、織田さんとの会話は不思議なくらい途切れなかった。
愚痴をこぼして、軽く返されて、笑っているうちに時間が過ぎていく。
その気楽さが心地いいことを、私はもうちゃんと知り始めていた。
食事が終わっても、私たちはなかなか席を立たなかった。
料理の皿が下げられても、グラスの中身が少なくなっても、話題はまだ続いた。
仕事のこと、旅先のこと、どうでもいいようなことまで、少しずつ広がっていく。
お互いのことをまだよく知らないからこそ、知りたいことが次々に浮かぶのかもしれなかった。
ふと時計を見ると、もう二十二時になろうとしていた。
フィレンツェのときは、このあと彼に仕事があった。
だからあの日は、どこかで終わりの線を引く必要があった。
でも、今日は違う。
時間で切り上げなければならない理由は、少なくとも今のところ見当たらなかった。
だからこそ、ここで終わるのが少し惜しいと思っている自分に、私は静かに気づいていた。
そうは言っても、時間だけは過ぎていく。
私たちはどちらからともなく顔を上げて、そろそろ切り上げたほうがいいのだろうという空気になった。
店を出て、駅までの道を並んで歩く。
夜の空気はやわらかくて、食事のあとの酔いを静かに冷ましてくれた。
私は歩きながら、ずっと思っていたことを口にした。
「東京でも、普通に話せましたね」
織田さんがこちらを見る。
「話せないと思ってたんですか?」
「旅先だから話せた可能性もあるでしょう?」
そう言うと、織田さんは口端だけで笑った。
「俺もね、思ってました」
「思ってたんですか」
「和倉さんもじゃないですか」
その返し方がおかしくて、私は声を出して笑った。
旅先だけで終わるかもしれなかった相手。
けれど実際には、東京で会っても、同じように言葉が続いた。
気まずくもならず、無理に話題を探すこともなく、自然に笑えた。
空の上で話したことも、旅先で向かい合った時間も、ちゃんと今につながっていたのだと思うと、それがただうれしかった。
4
駅が見えてきたころ、私は次もあるのだろうかと思っていた。
今日で終わってしまうのは、少し惜しい。
けれど自分から次の話を持ち出すには、まだためらいがあった。
そんなことを考えていたとき、織田さんがふいに口を開いた。
「そういえば、ずっとメールですね」
「名刺しか交換していませんから」
そう答えると、彼は少し間を置いてから言った。
「LINE聞いてもいいですか?」
「ええ、大丈夫」
駅の手前で足を止めて、私たちはスマートフォンを取り出した。
画面を向け合って、必要な操作をするだけの短い時間なのに、変に落ち着かない。
私の画面には、織田冬吾。
彼の画面には、KAEDE。
それを見たとき、仕事で使うメールアドレスと電話番号しか知らなかったふたりの距離が、変わったような気がした。
ただ、私生活の縁に、そっと足をかけたくらいの小さな一歩だった。
改札をくぐって、ホームへ上がる手前で、私たちはまた立ち止まった。
ほんの数秒、どちらからともなく顔を上げて、自然に笑う。
「じゃあ、また」
「はい。また」
次の約束は、まだ決めないままだった。
それでも、不思議とそれを不安には思わなかった。
また会えるかもしれない、ではなく、きっとまた会うのだろうと、どこかで静かに思えていたからだ。
電車に乗って間もなく、スマートフォンが震えた。
画面を見ると、織田さんからLINEが届いていた。
織田冬吾
〈今日はありがとうございました〉
私は口もとをゆるめて、すぐに返信する。
〈こちらこそ、ごちそうさまでした〉
すると、間を置かずにまた返ってきた。
織田冬吾
〈次は割り勘で〉
その一文に、胸の奥がふっと明るくなる。
私は指先で、ほとんど考えるより先に打っていた。
〈次もあるんですね〉
すぐに既読がついて、返事が来る。
織田冬吾
〈ないんですか〉
思わず笑ってしまった。
少しだけ意地悪で、でもちゃんと次を前提にしている言い方が、いかにも織田さんらしい気がした。
〈あります〉
送ってから、私はしばらくその画面を見ていた。
ふと顔を上げると、窓ガラスは夜の暗さを映して、鏡のようになっていた。
そこに映る自分の顔を見て、私は少し驚く。
思っていたよりも、ずっと楽しそうだった。
冬の楓 第5話 「東京」 おわり




