第4話「片桐美紗」
1
演奏のあとの、ほんのわずかな違和感ほど、私の心に長く残るものはなかった。
都内の小さなホールには、まだ弦の余韻が薄く漂っていた。
通し稽古はひとまず一区切りを迎えた。
客席の後方で聴いていたスタッフや、楽器を下ろした共演者たちが、口々に感想を寄せる。
「今日、すごくよかった」
「本番もこれなら問題ないね」
その言葉に偽りはないのだろうと、私にもわかっていた。
けれど私は、譜面台に戻るなり楽譜を開き、細い鉛筆で小さく印をつけた。
三楽章の入り。
ほんのわずかに呼吸が後ろへずれた気がした。
終盤の最後の音も、消えていくまでの長さが足りなかったように思える。
「三楽章の入り、少し遅れましたよね」
「最後の音、もう少し残したかったです」
そう口にすると、隣にいた共演者は苦笑まじりに首を振った。
気にしすぎだと言いたげな表情だったが、私は曖昧に笑うだけだった。
録音を聞き返しても、たしかに大きな乱れはない。
むしろ、一般の観客なら気づきもしない程度の差だろう。
音楽としては十分に整っている。
けれど、その「十分」で良しとすることに、私はどうしても納得できなかった。
私は、才能だけでここまで来たわけではない。
音大時代からずっとそうだった。
指が回らないなら、回るまで繰り返した。
響きが浅いと思えば、ひとつのフレーズに何時間も費やした。
表現が足りないと感じればさまざまな演奏を聴き込み、理解が追いつかなければ本を開き、言葉を探した。
足りないものがあるなら、埋めればいい。
届かないなら、届くまで積み重ねればいい。
努力すれば、昨日より今日のほうがよくなる。
その感覚だけは、何年たっても裏切らなかった。
だからこそ、ほんの小さな不足も見過ごせない。
それは自分を責めるためではなく、明日の音を今日より確かなものにするためだった。
客席の照明がひとつ、またひとつと落とされていく中で、私はもう一度楽譜を見つめた。
さきほど鉛筆でつけた印は、他人にはわからないほど薄い。
それでも私には、それが次へ進むためのはっきりした目印に見えていた。
2
昼の休憩に入ると、私は控室の隅に腰を下ろし、バッグからスマートフォンを取り出した。
さっきまで楽譜に向いていた意識が、ふっとやわらぐ。
画面を開くと、冬吾さんからの返信が届いていた。
前の晩、私が送っていたのは短い一文だった。
〈もう日本には戻られました?〉
それに対する返事は、冬吾さんらしく簡潔だった。
織田冬吾
〈昨日戻りました〉
〈今日は普通に出社してます〉
その二行を見ただけで、口もとがわずかにゆるんだ。
長い移動のあとでも、何事もなかったように普段どおりの顔で仕事をしている姿が目に浮かぶ。
無理をしていないといい、と思いながら、指先で返信を打った。
〈お疲れさまです。時差ぼけは大丈夫ですか?〉
〈ところで、お土産は期待しないほうがいいんでしたよね〉
最後の一文には、小さな冗談を混ぜた。
あまり期待していると思われたくない。
でも、まったく気にしていないふりもできない。
そんな中途半端な気持ちを隠すには、それくらいの軽さがちょうどよかった。
しばらくして届いた返事を見て、またふっと笑った。
織田冬吾
〈そう言いましたけど、一応あります〉
それだけの言葉だったのに、自分の顔がぱっと明るくなる。
イタリアにいるあいだ、冬吾さんは私のことを思い出してくれたのだろうか。
お土産は、空港か駅で、職場の人に配るぶんをまとめて選んだだけかもしれない。
私のためだけに手に取ったものではない可能性のほうが、きっと高い。
それでもよかった。
誰にでも渡すもののひとつだったとしても、冬吾さんからもらえるのなら、それだけで充分うれしい。
好きな人が旅先から持ち帰ったものを、自分が受け取れる。
その事実だけで、私の心は静かに満たされる。
控室の外では、次の合わせに向けて人の動く気配がしていた。
画面を見つめたまま、もう一度だけその短い文を読み返す。
そして、気づかれないほどやわらかな笑みを残したまま、スマートフォンを伏せた。
今だけは、さっきまで気にしていた演奏の小さなほころびよりも、その一言のほうがずっと大切に思えた。
3
伏せたスマートフォンに指先を置いたまま、私はふと、数か月前のことを思い出していた。
冬吾さんと初めて会った、あの公演の夜だった。
東和マテリアルの取引銀行が協賛していた室内楽公演だった。
終演後は関係者を交えた懇親会が開かれ、私も演奏者として挨拶に立っていた。
グラスを片手に、代わる代わる声をかけられる。
「素晴らしい演奏でした」
「感動しました」
「さすが片桐さんですね」
聞き慣れた言葉だった。
ありがたいとは思う。
けれど、その場にふさわしく整えられた賛辞は、どれも似た響きで胸の表面をなぞるだけで、深くは残らないことも知っていた。
その流れで紹介されたのが、冬吾さんだった。
仕事帰りなのか、固すぎないスーツ姿で、どこか場慣れしていないような雰囲気があった。
紹介した相手が自然に彼にも感想を求め、私も軽い気持ちで視線を向けた。
すると冬吾さんは、困ったように眉を寄せて言った。
「すみません。クラシックは詳しくないので、上手いとかは正直わからないです」
一瞬、その場の空気が止まった気がした。
周囲の笑みがわずかに固くなる。
社交辞令を期待していた空気を、彼はためらいなく外してしまったのだ。
けれど冬吾さんは、そのまま言葉を継いだ。
「でも、二曲目は好きでした。途中で一回、静かになるところがあったでしょう。あそこから最後まで、なんかよかったです」
気の利いた感想ではなかった。
専門的な言葉もなければ、曲名をきちんと把握している様子でもない。
それでも私の耳には、その言葉が不思議なほどまっすぐに届いた。
知ったふりをしないのだと、まず思った。
相手に合わせて無難に褒めるのでもなく、自分が受け取ったものだけを、そのまま差し出してくる。
その率直さが、私には少しおかしくて、新鮮だった。
最初は、ただ面白い人だと思っただけだった。
けれど、その後も関係者の集まりで何度か顔を合わせるうちに、気づけば冬吾さんを探していた。
大勢の中にいても、彼の受け答えはどこか飾り気がなく、必要以上に距離を詰めてこない。
それでも、ときどき思いがけない角度から物を言い、私の心に入り込んでくる。
もっと話してみたいと感じたのは、たぶん私のほうが先だった。
だから、連絡先を交換しませんかと切り出したのも、私のほうだった。
あのとき差し出したスマートフォンを、冬吾さんが意外そうな顔で見たことまで、いまもまだ覚えている。
休憩の終わりを告げる気配が近づくなか、私はもう一度スマートフォンを表に返した。
冬吾さんとのトーク画面を、遡ってスクロールする。
並んでいるのは、簡潔な言葉ばかりだった。
返事はいつも短い。
必要なことを、必要なぶんだけ。
愛想よく話を広げるタイプではないし、文面に特別な熱がこもることも少ない。
けれど、無視されたことはなかった。
私が送れば、冬吾さんは返す。
誘えば、予定が空いている日は来る。
食事に行けば、会話は途切れないし、帰りが遅くなれば駅まで送ってくれる。
演奏会にも、一度ちゃんと足を運んでくれた。
それだけ見れば、充分にやさしい人だと思う。
けれど同時に、わかっていた。
冬吾さんのほうから、会いたいと言われたことは、一度もない。
次の予定を決めるのも、連絡を始めるのも、いつも私のほうだ。
その偏りに気づかないほど鈍くはない。
画面を眺めながら、かすかに息をついた。
心に触れる引っかかりはある。
それでも、まだ焦るほどではないと思っていた。
始まり方は、人それぞれなのだろう。
最初から同じ熱量で向き合える相手ばかりではない。
自分の気持ちに慎重な人もいる。
冬吾さんは、たぶんそういう人なのだと考えていた。
時間をかけて、少しずつ距離を測る人。
ならば、自分から一歩ずつ近づいていけばいい。
急がず、けれど途切れさせずに。
そうしていれば、いつか冬吾さんの視線も、いまよりはっきり私へ向くかもしれない。
そのためにできることは、まだあるはずだった。
会う理由をつくることも、話題をつなぐことも、私にはできる。
相手の負担にならない程度に、自分の存在を日常の中へ置いていくことも。
けれど、ただ押せばいいわけではないとも思う。
私には、私なりのプライドがあった。
押し切るようにして交際を承諾させたいわけではない。
私が望む形は、そんなものではなかった。
最後には、冬吾さん自身の気持ちで選んでほしい。
頼まれたからでも、流されたからでもなく、この人がいいと、そう思ってほしい。
画面の上に並ぶ短い文のひとつひとつを見つめながら、いちばん新しいやり取りまで画面を戻した。
いまはまだ、その途中だ。
足りないぶんは、自分で少しずつ埋めていけばいい。
少し考えてから、新しいメッセージを打ち始めた。
4
送信ボタンを押したあと、私は画面を見つめたまま、唇を引き結んだ。
〈では、お土産をいただくついでに、お食事はいかがですか?〉
軽く、自然に誘ったつもりだった。
けれど送ってから、自分の文面を読み返す。
「ついでに」なんて書いたものの、本当は逆だった。
お土産はきっかけにすぎない。
会いたいから食事に誘ったのだと、自分ではよくわかっている。
言いすぎただろうか。
重く見えなかっただろうか。
そんなことを考えてしまうあたり、自分でも少し可笑しい。
さっきまで演奏の細部ばかり気にしていたくせに、今度はたった一文の温度を気にしている。
しばらくして、画面が明るくなった。
織田冬吾
〈いいですよ〉
〈今週なら、木曜か土曜で〉
候補日がふたつ挙げられている。
その文面を見て、ほっと小さく息をついた。
そっけないわけではない。
断るでもなく、曖昧に濁すでもなく、きちんと日を挙げてくれている。
それだけで充分だった。
むしろ冬吾さんらしい、誠実な返し方のように思える。
自分の予定を開いた。
片方の日はレッスンが入っている。
もう片方も、本来なら練習に使おうと思っていた日だった。
けれど、時間をつくれないわけではない。
そう判断した瞬間には、もう迷いはなかった。
〈木曜日なら大丈夫です〉
〈楽しみにしています〉
送ると、ほどなくしてまた返信が来る。
織田冬吾
〈店、探しておきます〉
たったそれだけの一文に、私の心は静かにやわらいだ。
冬吾さんが、店を探してくれる。
ただ誘いに応じただけではなく、冬吾さんもその日のために少し時間を使ってくれる。
そう思うと、食事の約束が自分だけのものではないような気がした。
今週の木曜日。
ただ予定表にひとつ印がついただけなのに、その日だけが急に輪郭を持って見えた。
何を着て行こうか、どんな顔で会おうか、まだ考えるには早いのに、そんなことまで頭の隅に浮かぶ。
スマートフォンを胸の上で軽く抱え、目を伏せた。
人に話せば些細なことだと笑われるかもしれない。
けれど、好きな人と会う約束は、それだけで日常の色を変える。
少なくとも今の私には、そうだった。
5
休憩の終わりを告げるように、控室の外から共演者の声がした。
私は手の中のスマートフォンをそっと伏せ、気持ちを切り替えるように立ち上がった。
胸の奥に残るやわらかな余韻を静かにしまい込み、再びヴァイオリンを手に取る。
ステージに戻ると、さっきまで気になっていた箇所が、まだ私の中に引っかかっていた。
合わせが再開してまもなく、譜面に目を落としたまま、すみません、と声をかける。
「先ほどのところ、もう一度だけお願いしてもいいですか」
共演者たちは慣れた様子でうなずいた。
私は弓を構え、呼吸を整える。
ほんのわずかな入りの間合い、音の受け渡し、最後に残す響き。
そのどれもが、自分の中でぴたりと重なる位置を探すように、何度か音を重ねていく。
さっきより少し前へ。
もう少しだけ長く。
そうやって細部を確かめながら弾き直していくうちに、自分の感覚にすっと収まる瞬間がきた。
音が流れを途切れさせず、最後まで自然につながっていく。
今度は納得できる。
そう思えたところで、余計な力を抜いた。
その様子を見ていた共演者が、半ば呆れたように笑う。
「美紗は本当に妥協しないね」
私もつられて笑った。
責める響きではないことがわかっていたから、素直に受け取れた。
「だって、もう少しよくできるなら、そのほうがいいでしょう?」
軽く返した言葉は、たしかに演奏のことを指していた。
けれど口にした瞬間、冬吾さんのことが浮かんだ。
届かせたい場所があるなら、届くまで整えていけばいい。
その考えは、同じだった。
6
稽古を終えて楽器を片づけたあと、私は帰り支度の手を止め、もう一度スマートフォンを開いた。
さっき交わしたばかりのやり取りが、まだ新しい温度を残したまま画面に並んでいる。
今週の木曜日。
冬吾さんと食事をする。
その事実をちゃんと形にしておきたくて、カレンダーのアプリを開いた。
公演、合わせ、レッスン、移動時間。
整然と並ぶ予定の中に、新しくひとつ書き加える。
ほんの一瞬だけ、指を止めた。
単に「夕食」と入れるほうが無難かもしれない。
人に見られることを考えれば、そのほうが説明もしやすい。
けれど結局、私が打ち込んだのは、「冬吾さん」の四文字だった。
それを表示したまま、しばらく見つめる。
仕事でも演奏でもない、私的な名前が、自分のきちんとした予定表の中にある。
いま手の中にあるのは、ほんの小さな約束だけれど、それはたしかに次へつながっている。
すぐに形にならなくてもかまわない。
その先も、きっと少しずつ続いていく。
スマートフォンをバッグにしまい、少し軽くなった足取りで帰り道へ向かった。
まだ、時間は十分にあると思っていた。
冬の楓 第4話「片桐美紗」 おわり




