第3話「坂上康太」
1
俺は八時四十分には自分のデスクに着いていた。
始業前の静かなフロアは、まだ人の声もまばらで、キーボードを打つ音だけが乾いて響いている。
九時になると、各部署で朝礼が始まった。
簡単な連絡事項を確認しながら、今日の予定を頭の中でなぞる。
昼からは会議だった。
都内のホテルで、グループ会社との合同会議がある。
必要な書類はすでに揃えてあり、印刷した資料も二十部、同行する後輩に渡してある。
準備に抜けはないはずだった。
気がつけば、時計はもう十一時を回るところだった。
和倉は、一昨日帰国したはずだ。
帰国した日にLINEを送ろうかとも思った。
けれど長旅で疲れているだろうし、翌日は休みだ。
わざわざ連絡するほどの用事でもない。
月曜になれば会社で会えるだろうと思って、そのままにしていた。
なのに、朝から一度も姿を見ていない。
昼からの会議までに片づけるべき仕事は、いくらでもあった。
処理しなければならない案件が机の上に積まれていることも、メールの未読が増えていることも、わかっていた。
それでも、意識は何度も別のところへ飛んだ。
画面を開いたまま手は止まり、考えようとしても頭の中に浮かぶのは仕事のことではない。
ため息をついて、椅子を引いた。
このまま机に向かっていても、効率が上がる気はしなかった。
気分を切り替えるつもりで、社員ラウンジへ向かうことにする。
事業戦略部を出て、エレベーターで十五階まで上がる。
扉が開いた瞬間、見覚えのある後ろ姿が目に入った。
その背中を見た途端、心臓がわずかに跳ねた。
「和倉」
呼びかけると、和倉が振り返った。
「坂上くん」
その声を聞いただけで、胸の奥が軽くなる。
自然と足を速め、和倉との距離を縮めた。
「おかえり」
そう言って笑いかけると、和倉も力の抜けた顔で、
「ただいま」
と答えた。
だが、よく見れば表情に覇気がない。
肌の色もいつもより冴えず、立っているだけで気だるそうだった。
「顔、死んでるけど」
半分冗談めかして言うと、和倉はわずかに眉を下げた。
「時差ボケ」
短い返事が、いつも以上に疲れをにじませる。
「急ぎの仕事ないなら、今日はのんびりやれば?」
そう言うと、和倉はすぐに首を横に振った。
「報告書もまだだし、領収書の整理もできてない」
「今日中ってわけじゃないだろ」
そう返しながら、無理をするところは相変わらずだなと思う。
「ラウンジに来たんじゃないの?」
「そうだけど」
「行こう」
短く促して、先にラウンジのドアを開けた。
コーヒーの香りが漂う静かな空間は、執務フロアよりも空気がゆるんでいた。
ここなら、和倉も少しは気を抜けるかもしれない。
振り返って、和倉の顔を見た。
疲れた顔を隠す気はないらしい。
だからこそ、少しくらい休ませたい。
2
十五時を少し過ぎたころ、俺はホテルの会議室を出た。
会社へ戻ると、案の定、メールボックスには未読が数十件たまっていた。
画面を見た瞬間、うんざりする。
急ぎのものだけに絞って返信し、ひと区切りついたところで息をついた。
今のうちに和倉にもひとこと入れておこうかと思い、社内チャットのリストを開く。
だが、画面に名前を見つけたところで、指を止めた。
やっぱり、違うなと思った。
仕事の延長みたいな画面で誘うのは、なんとなく味気ない。
せっかく会議も終わって、業務もひと段落したのだ。
仕事とは切り離した場所で声をかけたかった。
社内チャットを閉じ、代わりにポケットからスマートフォンを取り出した。
LINEアプリを開き、短く打ち込む。
〈今日、行ける?〉
送ってすぐ、既読がつく。
ほどなくして返信が返ってきた。
KAEDE
〈なにが?〉
思わず笑った。
とぼけているのか、本当にわかっていないのか、そのそっけない返しが和倉らしい。
指を動かした。
〈帰ったら飯行こうって言ってただろ〉
少しして、また返事が来る。
KAEDE
〈今日なの?〉
その一文に、一瞬だけ考える。
無理をさせるなら明日でもいい。
和倉が疲れていることはわかっていたし、会う約束を負担にしたいわけではなかった。
〈嫌なら明日でもいい〉
送ると、今度はほとんど間を置かずに返ってくる。
KAEDE
〈今日でいいよ〉
その文字を見た途端、口元がふっと緩んだ。
それだけのやり取りなのに、不思議と気分が変わる。
張りつめていた一日の終わりに、いつもの日常が戻ってきた気がした。
そのままスマートフォンの検索画面を開いた。
何を食べるか、どこへ行くか。
駅の近くがいいか、少し歩いて落ち着いた店にするか。
ラウンジで見た和倉の疲れた顔を思い出して、駅から遠い店を候補から外した。
仕事のことを考えていたはずなのに、頭の中はもう今夜のことに切り替わっていた。
3
俺が選んだのは、駅に近い炉端焼きの店だった。
月曜日だから、大丈夫だろうと思っていたが、店は想像よりも客が入っていた。
一応、予約を入れておいてよかった。
カウンター二名。
予約をするとき、そこは迷わなかった。
向かい合って座るより、今日は隣にいてほしかった。
気を張ることなく、同じ方向を向くように座りたかった。
席に着くと、和倉は店の中をぐるりと見回した。
気取っていないのに、落ち着ける空気がある。
それから、和倉は俺を見た。
「この店、来たことないね」
「うん」
「坂上くんが探したの?」
「まあ」
そう答えると、和倉は少し目を丸くした。
「珍しい」
「失礼だな」
言い返しながら、苦笑した。
俺は無難な店を選ぶことが多いし、こうして新しい店を探すのも、珍しいと言われれば否定はできなかった。
注文したビールが運ばれてくる。
ジョッキを持ち上げ、和倉のほうへ少し傾けた。
「おかえり」
軽く触れたジョッキが、小さな音を立てる。
和倉はすぐに口をつけた。
喉が渇いていたのだろう。
二口、三口と続けて飲んでから、ようやく息をつく。
その様子を横で見ながら、やっぱり相当疲れているなと思った。
「帰ったの、土曜日でさ」
和倉はすぐに言葉をつないだ。
「それも、夜だった」
ジョッキをテーブルに置きながら、うんざりした顔になる。
「実質、一日しか休みがなくて、時差ボケが続いてる気がする」
「それなのにさぁ、朝から斎藤さんにつかまって、領収書は月末までになんちゃらかんちゃら。細かいったら」
言葉にすることで、ようやく溜めこんでいた疲れが表に出てきたようだった。
それを聞きながら、つい口を挟む。
「先に、コピーだけでも送っといたらよかったのに」
和倉はじろりと俺を見る。
「そんな答え、今いらないから」
「愚痴ね」
「そう。愚痴」
息をついて、力を抜いた。
「じゃあ、どうぞ」
そう言うと、和倉は表情をやわらげた。
隣にいる距離だからこそ、その変化がよくわかる。
今夜はたぶん、正しいことを言うより、気が済むまで話させたほうがいい。
そう判断して、追加の料理を頼むタイミングを考えながら、和倉の次の言葉を待った。
4
しばらくのあいだ、話題は斎藤のことで埋まった。
面倒くさいだの、細かすぎるだの、こっちだって忙しいのだと、和倉は途切れなく言葉を重ねる。
俺は途中で余計な口を挟まず、相づちだけを返した。
最初はまだ眉間にしわが残っていた和倉も、吐き出していくうちに少しずつ顔つきがやわらいでいく。
少し落ち着いてきたのだとわかった。
それならよかった、と思う。
愚痴を言うだけ言わせるために連れ出したわけではないが、少なくとも、来た意味はあったらしい。
せっかくヨーロッパへ出張していたのだ。
斎藤の話ばかりで終わるのも惜しくて、料理の皿に視線を落としたまま、さりげなく話題を変えた。
「で、イタリアはどうだった?」
和倉は少し考えるようにしてから、箸を動かした。
「結構、暑くてびっくりした」
「もっと、イタリアっぽいおいしいものも食べたかったんだけど、疲れちゃって」
そこまで言ってから、ふっと思い出したように顔を上げる。
「あ、でも、フィレンツェでポルチーニ食べた」
「出張でポルチーニ」
そう言うと、和倉はすぐに言い返した。
「昼ご飯で食べるくらい罪ないよ」
その言い方が拗ねたようで、おかしくなった。
責めたつもりはなかったが、和倉のほうは食べたことを正当化したいらしい。
「うまかった?」
そう聞くと、和倉の表情が目に見えてやわらいだ。
「うん。味が濃厚なの。香りもいい」
好きなものの話をしているときの和倉は、声の調子まで変わる。
疲れているはずなのに、その一瞬だけ鮮やかに見えるのが不思議だった。
「よかったな」
そう言うと、和倉はうなずいた。
「近くにドゥオモっていう大聖堂があったんだけど」
「電車の時間もあって、中までは見られなかった」
惜しむような響きに、隣で頷く。
「そうか。まあ、仕事だからな」
「まあね。でも、また行ってもいい」
その返事に、思わず和倉の横顔を見た。
疲れた、しんどいと言いながらも、そんなふうに言えるなら、イタリアは悪くなかったのだろう。
それでも、また行ってもいいと言ったその声を、どこか嬉しく思っていた。
注文していた料理は、もうだいたい出そろっていた。
卓上には串焼きの皿や小鉢が並び、さっきまでの勢いに比べれば、和倉の箸もずいぶんゆっくりになっている。
もう食べないだろうなと思いながらも、一応尋ねた。
「まだ、何か注文する?」
和倉は首を横に振る。
「もういい。お腹いっぱい」
そう言ってから、考えるように視線を上げた。
「最後、ビール一杯だけ」
「大丈夫か?」
思わずそう聞くと、和倉は不思議そうな顔をした。
「いつもこのくらいじゃん」
たしかに、言われてみればその通りだった。
ただ、今日は疲れているぶん、酔いが回るのも早いんじゃないかと思ったのだ。
けれど、和倉の様子を見るかぎり、案外平気そうだった。
さっきまでの気だるげな顔はもう薄れていて、今はちゃんと笑っている。
その顔を見て、安心した。
一週間ぶりだった。
こうして目の前で、肩の力を抜いて笑う和倉を見るのは。
会社にいるときの和倉は、いつも少し気を張っている。
けれど、こうしてプライベートで隣り合っているときの和倉は違った。
面倒な相手には面倒だと顔に出すし、疲れたときは疲れたと言う。
おいしいものを食べれば素直に機嫌がよくなるし、つまらないことで笑う。
そういう隠し方をしないところが、俺には心地よかった。
一緒にいて楽だと思う。
気を使わなくていいという意味ではなく、変に身構えなくてすむのだ。
こんなふうに気軽に会って、飯を食って話して、笑って帰る。
そういう時間が、これからもずっと続けばいいと、ぼんやり思った。
グラスの水滴を指先でなぞりながら、口を開く。
「水曜日、空いてる?」
和倉が目を瞬く。
「あさって?」
「うん」
少し間を置いてから、続けた。
「また、飯食いに行こう」
和倉は呆れたように眉を上げた。
「坂上くん、私以外に友達いないの?」
「いるさ」
苦笑しながら返す。
いるにはいる。
けれど、今こうして誘いたい相手は和倉だった。
「じゃあ、友達誘いなよ」
「やだね」
即答すると、和倉が吹き出す。
「変なの」
その言い方がおかしくて、俺もつられて笑った。
何がどう変なのか、自分でもわかっている。
けれど、説明する気にはなれないし、たぶん説明しないほうがいい。
5
店を出たときには、もう二十時を回っていた。
夜の空気は昼間よりわずかにやわらいでいたが、月曜日の街にはまだ仕事終わりの気配が濃く残っている。
まだもう一軒寄れなくもない時間だった。
けれど、和倉の疲れが完全に抜けたわけではない。
少し惜しい気持ちはあったが、今夜はここまでにしておくのがちょうどいい。
俺たちは並んで駅へ向かった。
その途中で、和倉のスマートフォンが通知音を鳴らした。
もともと手に持っていたらしく、音が鳴ったときにはすでに和倉の視線は画面へ落ちていた。
白く光る画面が、夜の中でその顔をぼんやりと照らし出す。
ぱっと見た限りでは、SNSの通知ではなさそうだった。
見慣れたLINEの画面とも、違って見えた。
しかも和倉は、その画面を見たまま、ふっと表情をゆるめた。
口の端がわずかに上がる。
その変化が小さいぶん、かえって目につく。
何気ないふうを装って聞いた。
「なに?」
和倉は顔を上げる。
「ん? メール」
「仕事の?」
「違う」
それだけだった。
あっさりした返事に、それ以上は聞けなくなる。
何かいい知らせでもあったのだろうかと、ぼんやり考えた。
仕事とも違う別の何かかもしれない。
やがて駅に着き、改札の前で足を止める。
和倉はいつものように、あっさりと片手を上げた。
「じゃね。お疲れ様」
「あさってな。忘れんなよ」
そう言うと、和倉は笑顔を見せた。
そのまま背を向けて、改札の向こうへ消えていく。
水曜日、また会う。
和倉も楽しみにしていてくれるといいと思った。
冬の楓 第3話「坂上康太」 おわり




