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冬の楓  作者: mamio


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3/21

第3話「坂上康太」

1


俺は八時四十分には自分のデスクに着いていた。

始業前の静かなフロアは、まだ人の声もまばらで、キーボードを打つ音だけが乾いて響いている。


九時になると、各部署で朝礼が始まった。

簡単な連絡事項を確認しながら、今日の予定を頭の中でなぞる。


昼からは会議だった。

都内のホテルで、グループ会社との合同会議がある。

必要な書類はすでに揃えてあり、印刷した資料も二十部、同行する後輩に渡してある。

準備に抜けはないはずだった。


気がつけば、時計はもう十一時を回るところだった。


和倉は、一昨日帰国したはずだ。


帰国した日にLINEを送ろうかとも思った。

けれど長旅で疲れているだろうし、翌日は休みだ。

わざわざ連絡するほどの用事でもない。

月曜になれば会社で会えるだろうと思って、そのままにしていた。


なのに、朝から一度も姿を見ていない。


昼からの会議までに片づけるべき仕事は、いくらでもあった。

処理しなければならない案件が机の上に積まれていることも、メールの未読が増えていることも、わかっていた。


それでも、意識は何度も別のところへ飛んだ。

画面を開いたまま手は止まり、考えようとしても頭の中に浮かぶのは仕事のことではない。


ため息をついて、椅子を引いた。

このまま机に向かっていても、効率が上がる気はしなかった。

気分を切り替えるつもりで、社員ラウンジへ向かうことにする。

事業戦略部を出て、エレベーターで十五階まで上がる。

扉が開いた瞬間、見覚えのある後ろ姿が目に入った。


その背中を見た途端、心臓がわずかに跳ねた。


「和倉」


呼びかけると、和倉が振り返った。


「坂上くん」


その声を聞いただけで、胸の奥が軽くなる。

自然と足を速め、和倉との距離を縮めた。


「おかえり」


そう言って笑いかけると、和倉も力の抜けた顔で、


「ただいま」


と答えた。


だが、よく見れば表情に覇気がない。

肌の色もいつもより冴えず、立っているだけで気だるそうだった。


「顔、死んでるけど」


半分冗談めかして言うと、和倉はわずかに眉を下げた。


「時差ボケ」


短い返事が、いつも以上に疲れをにじませる。


「急ぎの仕事ないなら、今日はのんびりやれば?」


そう言うと、和倉はすぐに首を横に振った。


「報告書もまだだし、領収書の整理もできてない」


「今日中ってわけじゃないだろ」


そう返しながら、無理をするところは相変わらずだなと思う。


「ラウンジに来たんじゃないの?」


「そうだけど」


「行こう」


短く促して、先にラウンジのドアを開けた。


コーヒーの香りが漂う静かな空間は、執務フロアよりも空気がゆるんでいた。

ここなら、和倉も少しは気を抜けるかもしれない。


振り返って、和倉の顔を見た。

疲れた顔を隠す気はないらしい。


だからこそ、少しくらい休ませたい。


2


十五時を少し過ぎたころ、俺はホテルの会議室を出た。


会社へ戻ると、案の定、メールボックスには未読が数十件たまっていた。

画面を見た瞬間、うんざりする。

急ぎのものだけに絞って返信し、ひと区切りついたところで息をついた。


今のうちに和倉にもひとこと入れておこうかと思い、社内チャットのリストを開く。

だが、画面に名前を見つけたところで、指を止めた。


やっぱり、違うなと思った。


仕事の延長みたいな画面で誘うのは、なんとなく味気ない。

せっかく会議も終わって、業務もひと段落したのだ。

仕事とは切り離した場所で声をかけたかった。


社内チャットを閉じ、代わりにポケットからスマートフォンを取り出した。

LINEアプリを開き、短く打ち込む。


〈今日、行ける?〉


送ってすぐ、既読がつく。

ほどなくして返信が返ってきた。


KAEDE

〈なにが?〉


思わず笑った。

とぼけているのか、本当にわかっていないのか、そのそっけない返しが和倉らしい。


指を動かした。


〈帰ったら飯行こうって言ってただろ〉


少しして、また返事が来る。


KAEDE

〈今日なの?〉


その一文に、一瞬だけ考える。

無理をさせるなら明日でもいい。

和倉が疲れていることはわかっていたし、会う約束を負担にしたいわけではなかった。


〈嫌なら明日でもいい〉


送ると、今度はほとんど間を置かずに返ってくる。


KAEDE

〈今日でいいよ〉


その文字を見た途端、口元がふっと緩んだ。


それだけのやり取りなのに、不思議と気分が変わる。

張りつめていた一日の終わりに、いつもの日常が戻ってきた気がした。


そのままスマートフォンの検索画面を開いた。


何を食べるか、どこへ行くか。

駅の近くがいいか、少し歩いて落ち着いた店にするか。

ラウンジで見た和倉の疲れた顔を思い出して、駅から遠い店を候補から外した。


仕事のことを考えていたはずなのに、頭の中はもう今夜のことに切り替わっていた。



3


俺が選んだのは、駅に近い炉端焼きの店だった。

月曜日だから、大丈夫だろうと思っていたが、店は想像よりも客が入っていた。

一応、予約を入れておいてよかった。

カウンター二名。

予約をするとき、そこは迷わなかった。

向かい合って座るより、今日は隣にいてほしかった。

気を張ることなく、同じ方向を向くように座りたかった。


席に着くと、和倉は店の中をぐるりと見回した。

気取っていないのに、落ち着ける空気がある。


それから、和倉は俺を見た。


「この店、来たことないね」


「うん」


「坂上くんが探したの?」


「まあ」


そう答えると、和倉は少し目を丸くした。


「珍しい」


「失礼だな」


言い返しながら、苦笑した。

俺は無難な店を選ぶことが多いし、こうして新しい店を探すのも、珍しいと言われれば否定はできなかった。


注文したビールが運ばれてくる。

ジョッキを持ち上げ、和倉のほうへ少し傾けた。


「おかえり」


軽く触れたジョッキが、小さな音を立てる。


和倉はすぐに口をつけた。

喉が渇いていたのだろう。

二口、三口と続けて飲んでから、ようやく息をつく。


その様子を横で見ながら、やっぱり相当疲れているなと思った。


「帰ったの、土曜日でさ」


和倉はすぐに言葉をつないだ。


「それも、夜だった」


ジョッキをテーブルに置きながら、うんざりした顔になる。


「実質、一日しか休みがなくて、時差ボケが続いてる気がする」

「それなのにさぁ、朝から斎藤さんにつかまって、領収書は月末までになんちゃらかんちゃら。細かいったら」


言葉にすることで、ようやく溜めこんでいた疲れが表に出てきたようだった。

それを聞きながら、つい口を挟む。


「先に、コピーだけでも送っといたらよかったのに」


和倉はじろりと俺を見る。


「そんな答え、今いらないから」


「愚痴ね」


「そう。愚痴」


息をついて、力を抜いた。


「じゃあ、どうぞ」


そう言うと、和倉は表情をやわらげた。

隣にいる距離だからこそ、その変化がよくわかる。


今夜はたぶん、正しいことを言うより、気が済むまで話させたほうがいい。

そう判断して、追加の料理を頼むタイミングを考えながら、和倉の次の言葉を待った。



4


しばらくのあいだ、話題は斎藤のことで埋まった。

面倒くさいだの、細かすぎるだの、こっちだって忙しいのだと、和倉は途切れなく言葉を重ねる。


俺は途中で余計な口を挟まず、相づちだけを返した。

最初はまだ眉間にしわが残っていた和倉も、吐き出していくうちに少しずつ顔つきがやわらいでいく。

少し落ち着いてきたのだとわかった。


それならよかった、と思う。

愚痴を言うだけ言わせるために連れ出したわけではないが、少なくとも、来た意味はあったらしい。


せっかくヨーロッパへ出張していたのだ。

斎藤の話ばかりで終わるのも惜しくて、料理の皿に視線を落としたまま、さりげなく話題を変えた。


「で、イタリアはどうだった?」


和倉は少し考えるようにしてから、箸を動かした。


「結構、暑くてびっくりした」

「もっと、イタリアっぽいおいしいものも食べたかったんだけど、疲れちゃって」


そこまで言ってから、ふっと思い出したように顔を上げる。


「あ、でも、フィレンツェでポルチーニ食べた」


「出張でポルチーニ」


そう言うと、和倉はすぐに言い返した。


「昼ご飯で食べるくらい罪ないよ」


その言い方が拗ねたようで、おかしくなった。

責めたつもりはなかったが、和倉のほうは食べたことを正当化したいらしい。


「うまかった?」


そう聞くと、和倉の表情が目に見えてやわらいだ。


「うん。味が濃厚なの。香りもいい」


好きなものの話をしているときの和倉は、声の調子まで変わる。

疲れているはずなのに、その一瞬だけ鮮やかに見えるのが不思議だった。


「よかったな」


そう言うと、和倉はうなずいた。


「近くにドゥオモっていう大聖堂があったんだけど」

「電車の時間もあって、中までは見られなかった」


惜しむような響きに、隣で頷く。


「そうか。まあ、仕事だからな」


「まあね。でも、また行ってもいい」


その返事に、思わず和倉の横顔を見た。

疲れた、しんどいと言いながらも、そんなふうに言えるなら、イタリアは悪くなかったのだろう。


それでも、また行ってもいいと言ったその声を、どこか嬉しく思っていた。


注文していた料理は、もうだいたい出そろっていた。

卓上には串焼きの皿や小鉢が並び、さっきまでの勢いに比べれば、和倉の箸もずいぶんゆっくりになっている。


もう食べないだろうなと思いながらも、一応尋ねた。


「まだ、何か注文する?」


和倉は首を横に振る。


「もういい。お腹いっぱい」


そう言ってから、考えるように視線を上げた。


「最後、ビール一杯だけ」


「大丈夫か?」


思わずそう聞くと、和倉は不思議そうな顔をした。


「いつもこのくらいじゃん」


たしかに、言われてみればその通りだった。

ただ、今日は疲れているぶん、酔いが回るのも早いんじゃないかと思ったのだ。


けれど、和倉の様子を見るかぎり、案外平気そうだった。

さっきまでの気だるげな顔はもう薄れていて、今はちゃんと笑っている。


その顔を見て、安心した。

一週間ぶりだった。

こうして目の前で、肩の力を抜いて笑う和倉を見るのは。


会社にいるときの和倉は、いつも少し気を張っている。


けれど、こうしてプライベートで隣り合っているときの和倉は違った。

面倒な相手には面倒だと顔に出すし、疲れたときは疲れたと言う。

おいしいものを食べれば素直に機嫌がよくなるし、つまらないことで笑う。


そういう隠し方をしないところが、俺には心地よかった。

一緒にいて楽だと思う。

気を使わなくていいという意味ではなく、変に身構えなくてすむのだ。


こんなふうに気軽に会って、飯を食って話して、笑って帰る。

そういう時間が、これからもずっと続けばいいと、ぼんやり思った。


グラスの水滴を指先でなぞりながら、口を開く。


「水曜日、空いてる?」


和倉が目を瞬く。


「あさって?」


「うん」


少し間を置いてから、続けた。


「また、飯食いに行こう」


和倉は呆れたように眉を上げた。


「坂上くん、私以外に友達いないの?」


「いるさ」


苦笑しながら返す。

いるにはいる。

けれど、今こうして誘いたい相手は和倉だった。


「じゃあ、友達誘いなよ」


「やだね」


即答すると、和倉が吹き出す。


「変なの」


その言い方がおかしくて、俺もつられて笑った。

何がどう変なのか、自分でもわかっている。

けれど、説明する気にはなれないし、たぶん説明しないほうがいい。



5


店を出たときには、もう二十時を回っていた。

夜の空気は昼間よりわずかにやわらいでいたが、月曜日の街にはまだ仕事終わりの気配が濃く残っている。


まだもう一軒寄れなくもない時間だった。

けれど、和倉の疲れが完全に抜けたわけではない。

少し惜しい気持ちはあったが、今夜はここまでにしておくのがちょうどいい。


俺たちは並んで駅へ向かった。


その途中で、和倉のスマートフォンが通知音を鳴らした。


もともと手に持っていたらしく、音が鳴ったときにはすでに和倉の視線は画面へ落ちていた。

白く光る画面が、夜の中でその顔をぼんやりと照らし出す。


ぱっと見た限りでは、SNSの通知ではなさそうだった。

見慣れたLINEの画面とも、違って見えた。


しかも和倉は、その画面を見たまま、ふっと表情をゆるめた。

口の端がわずかに上がる。

その変化が小さいぶん、かえって目につく。


何気ないふうを装って聞いた。


「なに?」


和倉は顔を上げる。


「ん? メール」


「仕事の?」


「違う」


それだけだった。

あっさりした返事に、それ以上は聞けなくなる。


何かいい知らせでもあったのだろうかと、ぼんやり考えた。

仕事とも違う別の何かかもしれない。


やがて駅に着き、改札の前で足を止める。

和倉はいつものように、あっさりと片手を上げた。


「じゃね。お疲れ様」


「あさってな。忘れんなよ」


そう言うと、和倉は笑顔を見せた。

そのまま背を向けて、改札の向こうへ消えていく。


水曜日、また会う。

和倉も楽しみにしていてくれるといいと思った。




冬の楓 第3話「坂上康太」 おわり


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