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冬の楓  作者: mamio


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2/21

第2話「織田冬吾」

1


翌朝、俺は予定よりずっと早く目を覚ました。


枕元の時計を見て、まだこんな時間かと思った。

眠ったはずなのに、頭の芯だけが浮いたままのようで、身体のほうが眠気を置き去りにしていた。

時差のせいだろう。

出張には慣れているつもりでも、ヨーロッパは久しぶりだった。


ベッドを抜け出し、窓辺へ向かう。

厚いカーテンを指でつまみ、ゆっくりと開けると、朝の光がするりと部屋へ滑り込んできた。


晴れていた。


九時に現地の拠点から迎えが来る。

市内へ入り、そのあと郊外の顧客工場へ向かう。

午前のうちに顔合わせと打ち合わせ。

午後は現場確認。


考えているうちに、じっとしているほうが落ち着かなかった。

俺は早々に着替えを済ませ、ホテルの朝食会場へ降りた。


食事をしていても、意識の半分は今日の商談に向いている。

資料は日本で十分に詰めてきた。

数字も、想定問答も、抜けがないよう準備した。

それでも、いつも最後にものを言うのは、紙の上に並べた情報ではない。


食事を終えてロビーへ戻ると、約束どおり迎えの車が来た。

現地スタッフの男性はにこやかに迎えてくれ、今日の流れを確認した。

車はホテルを離れ、市内へ向かって走り出す。



最初の十分は雑談。

天気、食べ物、日本の文化。

ビジネスの話は急がない。


相手の温度へ合わせればいい。


会議室へ通され、挨拶を交わし、椅子に着く。

相手の表情を見ながら、俺は急がずに言葉を選んだ。


「ローマはいい天気ですね。今朝、ホテルの窓から街を見たんですが、光がとてもきれいでした」


先方の顔つきが少しやわらぐ。


そこから食事の話になり、日本との朝食の違いの話になり、さらに日本の季節や文化へと会話はほどけていった。

笑いが一度起きたところで、相手の目の奥に、こちらを見る目が少し変わったのを感じた。


机の上の資料にそっと手を置く。


「では、今回の材料改善の提案ですが――」


そう切り出した声は、今朝ホテルで目を覚ましたときより、ずっと落ち着いていた。


2


夕方、ホテルの部屋に戻ると、俺はドアを閉めたところで力が抜けた。


バゲージラックに鞄を置き、そのままベッドの端に腰を下ろす。

マットレスがわずかに沈み込み、全身の力までそこへ吸われていくようだった。


一日中、気を張っていたのだと思う。


イタリア人の挨拶は、どうにも距離が近い。

笑顔も、声も、手振りも、こちらが一歩引く暇もないほどまっすぐで、悪気がないぶん、なおさら調子を合わせるのに神経を使った。

時差ぼけで頭が鈍いことを悟られないように、会話の間も姿勢も崩さずにいたせいで、疲れが今になってまとめて押し寄せてくる。


しばらく動く気になれず、ただ前を向いたまま座っていた。


やがて一息つき、のろのろと上着を脱ぐ。

肩が思った以上にこわばっていて、自分でも少し驚いた。

内ポケットに手を入れ、スマートフォンを取り出す。

画面をつけると、メッセージが届いていた。


片桐美紗。


表示された文面は、短かった。


美紗

〈イタリアには着きました?〉

〈お仕事大変そうですね〉


少し考えてから、短く返した。


〈着きました〉

〈思ったより暑いです〉


それで十分だろうと思った。


通知音にまた手を止める。

思ったより早い返信だった。

日本はもう二十三時のはずだ、と画面の時刻を見た。


美紗

〈お土産期待してもいいですか?〉


文面は軽い。

冗談めいていて、押しつけがましさもない。

けれど今は、気の利いた返事まで期待しないでほしいと思った。


数秒だけ画面を見つめ、それから淡々と文字を打つ。


〈期待しないほうがいいですよ〉


愛想よく返して、本当に土産を期待されても困る。

スマートフォンを伏せて置き、そのまま背中からベッドに倒れ込んだ。


天井は白く、味気ない。

片腕を目元に乗せ、浅く息を吐いた。



3


ローマで迎える二日目は、昨日よりいくらかましな頭で動けた。

昼は顧客とのミーティングがあり、夕方からはローマ拠点のスタッフとの会食だった。

予定表の上では時間が埋まっているだけなのに、実際にこなしていくと、一つひとつが思った以上に長い。


とくに食事の時間が長かった。


会食は仕事の延長でありながら、ただ食べれば終わるものでもない。

話は途切れず、皿が下がればまた次が来る。

気づけば二時間半ほど経っていて、俺は表情を崩さないようにしながら、内心ではひそかに息をついていた。


そろそろ、日本語が恋しい。


そんなことを思うあたり、自分でも疲れているのだろう。

言葉を選ばずに済む会話が、思いのほか遠く感じられた。


ホテルへ戻る車中で、明日の予定を頭の中でなぞった。


明日はフィレンツェだ。

ローマのテルミニ駅から九十分ほど。


そういえば、和倉さんも木曜日はフィレンツェだと言っていた。


名刺はどこへやったかな、としばらく考えた。



ホテルの部屋に戻ってから鞄を開け、名刺入れの中を見たが、入っていない。

記憶をたどる。

受け取ったあと、すぐにしまわなかった気がする。

では、どこに入れたのか。


数秒遅れて、スマートフォンのケース内側にあるカードポケットを思い出した。


開いてみると、そこに収まっていた。


メールアドレスと電話番号は記載されていた。

必要なら連絡はできる。


飛行機を降りる少し前だったか、フィレンツェで時間が合えば、という話をした。


話を振ったのは、俺からだった。


別に深い意味があったわけではない。

たまたま行き先が重なって、現地で知った顔がいるのなら、時間が合えば食事くらいはしてもいい。

和倉さんに夫も付き合っている相手もいないことは、飛行機の中で聞いていた。

なら、ふたりで食事をすることに余計な気を遣う必要もない。


少なくとも、そのつもりで口にした。

けれど、わざわざ名刺を探している時点で、完全に忘れていた話でもない。


知らない街を移動し、慣れない会話を続け、食事の席で笑い、また明日は別の街へ向かう。

そういう数日の中で、日本語で交わせる短いやり取りがひとつあるだけでも、気分は少し違うのかもしれなかった。



4


木曜日の朝、俺は早めにホテルを出てテルミニ駅へ向かった。

構内は朝から人が多く、足早に行き交う旅行者や通勤客のあいだを抜けながら、電光掲示板を見上げる。


フレッチャロッサに乗り、車内で資料を見返しているうちにフィレンツェに着いた。



会議室に通されると、俺は相手の正面に立って握手を交わした。

しっかりと目を見て、力も抜かない。

先方の視線は思ったより強く、値踏みするような鋭さがあったが、そこで逸らせば最初から押される気がした。

相手の圧に負けないように視線を返したせいか、そのあとの話はむしろ進めやすかった。


質疑はあったが、構えていたほどではない。

数字の確認も、導入後の見通しも、要点を押さえて返していけば十分だった。

会議室を出るころには、強張っていた力が抜けていた。


時刻を見ると、そろそろ十三時になるところだった。


何か適当に腹に入れてもいい。

そう思って店を探しかけたところで、思い出す。


和倉さん。


歩きながらスマートフォンを取り出した。

画面を開き、少し考えてからメールを打つ。


〈織田冬吾です〉

〈まだ、フィレンツェにいます?〉


送ってしまえば、それだけの短い文面だった。


返事がなければ、それはそれでいい。

たまたま予定が合わないだけだ。

そう割り切ったまま、十分くらいは待ってみようと思った。

その間、このあたりを見て回ってもいい。


フィレンツェのサンタ・マリア・ノヴェッラ駅から少し歩くと、ドゥオモと呼ばれる大聖堂がある。

この辺りを見て回るだけでも、時間をつぶす場所には困らない。


そう思いながら歩き出しかけたとき、通知が入った。


KAEDE

〈います〉


短い返事に、足を止める。


〈昼は、もう食べました?〉


そう返すと、間を置かずに次が来る。


KAEDE

〈まだです。今終わったところ〉


〈時間あればどうですか?〉


KAEDE

〈はい。大丈夫です〉


〈じゃあ、ドゥオモの前で〉


送信すると、予定がひとつ整う感覚があった。


仕事の合間に、知った顔と昼を食べるだけだ。

けれど、見知らぬ街の昼どきに、待ち合わせの相手がいるというのは、思っていたより悪くなかった。


スマートフォンをしまい、人の流れに沿って歩き出した。



5


どこで仕事をしていたのか、俺はあえて聞かなかった。


ドゥオモの前で待ちながら、人の流れをぼんやり目で追う。

そんなに待たないうちに、彼女は来た。


向こうから歩いてくる姿を見つけた瞬間、ああ、と思った。


やっぱり小さい。


飛行機を降りて、入管まで一緒に歩いたときにもそう感じた。

小さいといっても、子どもっぽいという意味ではない。

百六十センチないくらいだろうか。

人込みの中では埋もれそうなのに、不思議と見失わない。

歩き方のせいか、姿勢のせいか、あるいは、俺が意識して見ていたからかもしれなかった。


薄手のジャケットに、グレーのパンツ。

余計な飾り気のない格好は、仕事の途中らしく見えた。

観光で浮き立った雰囲気がないのも、俺には気が楽だった。


彼女は俺の前まで来ると、風にあおられて乱れた髪を手で直しながら言った。


「ほんとに会いましたね」


その言い方に、口元を緩めた。


「これは、会ったっていうか、待ち合わせたから」


「あ、確かに」


素直に頷く。


俺は周囲を見回しながら言った。


「ちょっと、この辺り見てたんですけど、ランチによさそうな店はありますね」

「だけど、日本人が多かった」


「ツアーで連れて行かれる店かもしれないですね」


和倉さんもあたりを見た。

たしかに、この近くで入りやすそうな店には、どこか似た空気の客が集まっている気がする。


「どうします。ツアーの店にする?」


笑って言うと、彼女もつられたように笑って頷いた。


「探してる時間がもったいないから、そこでいいです」

「ツアーのお店だって、イタリア料理ですから」


もっともだった。


軽く頷いて、人の流れを避けながら歩き出す。

彼女も隣に並ぶ。

肩が触れるほど近くはないが、離れすぎてもいない。

その中途半端な距離が、かえってちょうどよかった。


何を話すつもりで呼んだのか、俺自身、はっきり決めていたわけではない。

ただ、フィレンツェで時間が合えばと口にしたのは自分で、その約束がこうして形になっただけだ。


ふたりでそのまま、最初に目についた店のほうへ歩いていった。


昼を過ぎていたせいか、入った店は空いていた。


通された席に向かい合って座ると、ひと息つけた気がした。

歩いているあいだは人の流れもあって落ち着かなかったが、椅子に腰を下ろすと、昼の時間が緩んだ。


おすすめはあるかと聞くと、店員は身振りを交えてひとつの料理を勧めてきた。

ポルチーニのグリル。

秋しか食べられないのだと、妙に強く推される。

そこまで言うならと頼んでみたものの、俺には正直、名前以上の情報はなかった。


向かいに座る和倉さんを見て、飛行機の中で受けた印象とは少し違うと思った。

あのときより、今のほうがよく喋る。

快活、という言葉がいちばん近い気がした。


和倉さんがバッグを膝にのせて言った。


「お仕事、終わったんですか?」


「このあと、十六時からもう一件」

「そっちは?」


「こっちは終わり」


「いいですね」

「俺は夜までかかりそうです」


そう言うと、和倉さんは少し気の毒そうな顔をしたが、すぐに話題を変えた。


「ローマでは、おいしいもの食べました?」


「いや、ひとりなんで適当ですよ」


「イタリアまで来て?」


「和倉さんは、評判の店とか探していくの?」


「あ……いや、私も疲れちゃって、今回適当」


そこで少し笑ってしまう。


雑談のあいだに料理が運ばれてきた。


大きな皿に、大きなきのこがのっていた。

オリーブオイルをまとって、べったりと皿に張りついている様子は、思っていたよりずっと無骨だった。


「これ、ポルチーニ?」


和倉さんが皿をのぞき込むようにして言う。


「そうらしい」


「香りはいいですね」


たしかに香りはよかった。

けれど、口に入れてみると、俺には濃い椎茸にしか思えない。

まずいわけではないが、そこまで感動するほどでもない。

そう判断したところで、和倉さんはコクがあっておいしいと素直に言って食べていた。


その反応を見ているうちに、自分の舌が雑なのかもしれないという気がしてくる。


一枚の皿を、思いがけずふたりでシェアする形になったが、和倉さんはまったく気にしていないようだった。

取り分ける手つきにもためらいがない。

その自然さに、俺のほうが拍子抜けする。


「ローマの朝市にも行ってみたかったんですけど、そんな時間なさそうです」


そう言って、和倉さんはフォークを置いた。


「また、来ればいい」


深く考えずに、そう返していた。


「ローマにですか?」


「やり残したと思うなら、また来たらいいじゃないですか」


和倉さんは少し目を細めた。


「今度来るなら、ミラノやヴェネツィアに行ってみたいです」

「織田さんは、またローマでもいい?」


問われて、少し考える。


「だって、まだ見てないところ、いっぱいありますよ」


「でも、足は踏み入れました」

「雰囲気はわかりましたから」


その言い方がおかしくて、笑った。

来たことがある、という事実だけで気が済む人間もいるし、少し見ただけでは足りないと思う人間もいる。

たぶん和倉さんは前者で、俺は後者なのだろう。


「コロッセオとかサンピエトロ大聖堂とか、見たくないですか?」


「うーん。まあ、確かに。見たいかも」


そこで和倉さんが、ふっと笑った。


会話の流れは軽いのに、なぜか妙に落ち着く。

相手がよく喋るからか、自分が頑張って場をつながなくても間がもつからか。

理由ははっきりしない。

ただ、ひとりで適当に昼を済ませるはずだった時間が、思ったより悪くないものに変わっていた。


皿の上のポルチーニをもう一切れ口に運ぶ。


やはり、濃い椎茸だと思った。


だが、それを口に出すのはやめておいた。

和倉さんが本当においしそうに食べているので、水を差す気にはなれなかったからだ。


二時間もいないうちに、昼の時間は終わった。

和倉さんは駅へ向かい、俺も午後の予定に戻るため店を出た。


「じゃあ、帰国したら、今度は東京で飯でも食いましょう」


「ええ。また」


そう言葉を交わして別れ、俺はそのまま歩き出した。



しばらくして、和倉さんからメールが届く。


〈今日はありがとうございました。午後も頑張ってください〉


足を止めることもなく画面を見て、


〈こちらこそ。和倉さんも〉


とだけ返した。


帰りの電車では、しばらく仕事のメールを見ていたが、そのうちスマートフォンをしまった。

窓の外を流れていく景色をぼんやり眺めながら、日本に帰ったら、また飯でも行けばいいか、と思う。

もっとも、いつ誘うのか、本当に誘うのか、そこまではまだ決めていなかった。




冬の楓 第2話「織田冬吾」 おわり


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