第2話「織田冬吾」
1
翌朝、俺は予定よりずっと早く目を覚ました。
枕元の時計を見て、まだこんな時間かと思った。
眠ったはずなのに、頭の芯だけが浮いたままのようで、身体のほうが眠気を置き去りにしていた。
時差のせいだろう。
出張には慣れているつもりでも、ヨーロッパは久しぶりだった。
ベッドを抜け出し、窓辺へ向かう。
厚いカーテンを指でつまみ、ゆっくりと開けると、朝の光がするりと部屋へ滑り込んできた。
晴れていた。
九時に現地の拠点から迎えが来る。
市内へ入り、そのあと郊外の顧客工場へ向かう。
午前のうちに顔合わせと打ち合わせ。
午後は現場確認。
考えているうちに、じっとしているほうが落ち着かなかった。
俺は早々に着替えを済ませ、ホテルの朝食会場へ降りた。
食事をしていても、意識の半分は今日の商談に向いている。
資料は日本で十分に詰めてきた。
数字も、想定問答も、抜けがないよう準備した。
それでも、いつも最後にものを言うのは、紙の上に並べた情報ではない。
食事を終えてロビーへ戻ると、約束どおり迎えの車が来た。
現地スタッフの男性はにこやかに迎えてくれ、今日の流れを確認した。
車はホテルを離れ、市内へ向かって走り出す。
最初の十分は雑談。
天気、食べ物、日本の文化。
ビジネスの話は急がない。
相手の温度へ合わせればいい。
会議室へ通され、挨拶を交わし、椅子に着く。
相手の表情を見ながら、俺は急がずに言葉を選んだ。
「ローマはいい天気ですね。今朝、ホテルの窓から街を見たんですが、光がとてもきれいでした」
先方の顔つきが少しやわらぐ。
そこから食事の話になり、日本との朝食の違いの話になり、さらに日本の季節や文化へと会話はほどけていった。
笑いが一度起きたところで、相手の目の奥に、こちらを見る目が少し変わったのを感じた。
机の上の資料にそっと手を置く。
「では、今回の材料改善の提案ですが――」
そう切り出した声は、今朝ホテルで目を覚ましたときより、ずっと落ち着いていた。
2
夕方、ホテルの部屋に戻ると、俺はドアを閉めたところで力が抜けた。
バゲージラックに鞄を置き、そのままベッドの端に腰を下ろす。
マットレスがわずかに沈み込み、全身の力までそこへ吸われていくようだった。
一日中、気を張っていたのだと思う。
イタリア人の挨拶は、どうにも距離が近い。
笑顔も、声も、手振りも、こちらが一歩引く暇もないほどまっすぐで、悪気がないぶん、なおさら調子を合わせるのに神経を使った。
時差ぼけで頭が鈍いことを悟られないように、会話の間も姿勢も崩さずにいたせいで、疲れが今になってまとめて押し寄せてくる。
しばらく動く気になれず、ただ前を向いたまま座っていた。
やがて一息つき、のろのろと上着を脱ぐ。
肩が思った以上にこわばっていて、自分でも少し驚いた。
内ポケットに手を入れ、スマートフォンを取り出す。
画面をつけると、メッセージが届いていた。
片桐美紗。
表示された文面は、短かった。
美紗
〈イタリアには着きました?〉
〈お仕事大変そうですね〉
少し考えてから、短く返した。
〈着きました〉
〈思ったより暑いです〉
それで十分だろうと思った。
通知音にまた手を止める。
思ったより早い返信だった。
日本はもう二十三時のはずだ、と画面の時刻を見た。
美紗
〈お土産期待してもいいですか?〉
文面は軽い。
冗談めいていて、押しつけがましさもない。
けれど今は、気の利いた返事まで期待しないでほしいと思った。
数秒だけ画面を見つめ、それから淡々と文字を打つ。
〈期待しないほうがいいですよ〉
愛想よく返して、本当に土産を期待されても困る。
スマートフォンを伏せて置き、そのまま背中からベッドに倒れ込んだ。
天井は白く、味気ない。
片腕を目元に乗せ、浅く息を吐いた。
3
ローマで迎える二日目は、昨日よりいくらかましな頭で動けた。
昼は顧客とのミーティングがあり、夕方からはローマ拠点のスタッフとの会食だった。
予定表の上では時間が埋まっているだけなのに、実際にこなしていくと、一つひとつが思った以上に長い。
とくに食事の時間が長かった。
会食は仕事の延長でありながら、ただ食べれば終わるものでもない。
話は途切れず、皿が下がればまた次が来る。
気づけば二時間半ほど経っていて、俺は表情を崩さないようにしながら、内心ではひそかに息をついていた。
そろそろ、日本語が恋しい。
そんなことを思うあたり、自分でも疲れているのだろう。
言葉を選ばずに済む会話が、思いのほか遠く感じられた。
ホテルへ戻る車中で、明日の予定を頭の中でなぞった。
明日はフィレンツェだ。
ローマのテルミニ駅から九十分ほど。
そういえば、和倉さんも木曜日はフィレンツェだと言っていた。
名刺はどこへやったかな、としばらく考えた。
ホテルの部屋に戻ってから鞄を開け、名刺入れの中を見たが、入っていない。
記憶をたどる。
受け取ったあと、すぐにしまわなかった気がする。
では、どこに入れたのか。
数秒遅れて、スマートフォンのケース内側にあるカードポケットを思い出した。
開いてみると、そこに収まっていた。
メールアドレスと電話番号は記載されていた。
必要なら連絡はできる。
飛行機を降りる少し前だったか、フィレンツェで時間が合えば、という話をした。
話を振ったのは、俺からだった。
別に深い意味があったわけではない。
たまたま行き先が重なって、現地で知った顔がいるのなら、時間が合えば食事くらいはしてもいい。
和倉さんに夫も付き合っている相手もいないことは、飛行機の中で聞いていた。
なら、ふたりで食事をすることに余計な気を遣う必要もない。
少なくとも、そのつもりで口にした。
けれど、わざわざ名刺を探している時点で、完全に忘れていた話でもない。
知らない街を移動し、慣れない会話を続け、食事の席で笑い、また明日は別の街へ向かう。
そういう数日の中で、日本語で交わせる短いやり取りがひとつあるだけでも、気分は少し違うのかもしれなかった。
4
木曜日の朝、俺は早めにホテルを出てテルミニ駅へ向かった。
構内は朝から人が多く、足早に行き交う旅行者や通勤客のあいだを抜けながら、電光掲示板を見上げる。
フレッチャロッサに乗り、車内で資料を見返しているうちにフィレンツェに着いた。
会議室に通されると、俺は相手の正面に立って握手を交わした。
しっかりと目を見て、力も抜かない。
先方の視線は思ったより強く、値踏みするような鋭さがあったが、そこで逸らせば最初から押される気がした。
相手の圧に負けないように視線を返したせいか、そのあとの話はむしろ進めやすかった。
質疑はあったが、構えていたほどではない。
数字の確認も、導入後の見通しも、要点を押さえて返していけば十分だった。
会議室を出るころには、強張っていた力が抜けていた。
時刻を見ると、そろそろ十三時になるところだった。
何か適当に腹に入れてもいい。
そう思って店を探しかけたところで、思い出す。
和倉さん。
歩きながらスマートフォンを取り出した。
画面を開き、少し考えてからメールを打つ。
〈織田冬吾です〉
〈まだ、フィレンツェにいます?〉
送ってしまえば、それだけの短い文面だった。
返事がなければ、それはそれでいい。
たまたま予定が合わないだけだ。
そう割り切ったまま、十分くらいは待ってみようと思った。
その間、このあたりを見て回ってもいい。
フィレンツェのサンタ・マリア・ノヴェッラ駅から少し歩くと、ドゥオモと呼ばれる大聖堂がある。
この辺りを見て回るだけでも、時間をつぶす場所には困らない。
そう思いながら歩き出しかけたとき、通知が入った。
KAEDE
〈います〉
短い返事に、足を止める。
〈昼は、もう食べました?〉
そう返すと、間を置かずに次が来る。
KAEDE
〈まだです。今終わったところ〉
〈時間あればどうですか?〉
KAEDE
〈はい。大丈夫です〉
〈じゃあ、ドゥオモの前で〉
送信すると、予定がひとつ整う感覚があった。
仕事の合間に、知った顔と昼を食べるだけだ。
けれど、見知らぬ街の昼どきに、待ち合わせの相手がいるというのは、思っていたより悪くなかった。
スマートフォンをしまい、人の流れに沿って歩き出した。
5
どこで仕事をしていたのか、俺はあえて聞かなかった。
ドゥオモの前で待ちながら、人の流れをぼんやり目で追う。
そんなに待たないうちに、彼女は来た。
向こうから歩いてくる姿を見つけた瞬間、ああ、と思った。
やっぱり小さい。
飛行機を降りて、入管まで一緒に歩いたときにもそう感じた。
小さいといっても、子どもっぽいという意味ではない。
百六十センチないくらいだろうか。
人込みの中では埋もれそうなのに、不思議と見失わない。
歩き方のせいか、姿勢のせいか、あるいは、俺が意識して見ていたからかもしれなかった。
薄手のジャケットに、グレーのパンツ。
余計な飾り気のない格好は、仕事の途中らしく見えた。
観光で浮き立った雰囲気がないのも、俺には気が楽だった。
彼女は俺の前まで来ると、風にあおられて乱れた髪を手で直しながら言った。
「ほんとに会いましたね」
その言い方に、口元を緩めた。
「これは、会ったっていうか、待ち合わせたから」
「あ、確かに」
素直に頷く。
俺は周囲を見回しながら言った。
「ちょっと、この辺り見てたんですけど、ランチによさそうな店はありますね」
「だけど、日本人が多かった」
「ツアーで連れて行かれる店かもしれないですね」
和倉さんもあたりを見た。
たしかに、この近くで入りやすそうな店には、どこか似た空気の客が集まっている気がする。
「どうします。ツアーの店にする?」
笑って言うと、彼女もつられたように笑って頷いた。
「探してる時間がもったいないから、そこでいいです」
「ツアーのお店だって、イタリア料理ですから」
もっともだった。
軽く頷いて、人の流れを避けながら歩き出す。
彼女も隣に並ぶ。
肩が触れるほど近くはないが、離れすぎてもいない。
その中途半端な距離が、かえってちょうどよかった。
何を話すつもりで呼んだのか、俺自身、はっきり決めていたわけではない。
ただ、フィレンツェで時間が合えばと口にしたのは自分で、その約束がこうして形になっただけだ。
ふたりでそのまま、最初に目についた店のほうへ歩いていった。
昼を過ぎていたせいか、入った店は空いていた。
通された席に向かい合って座ると、ひと息つけた気がした。
歩いているあいだは人の流れもあって落ち着かなかったが、椅子に腰を下ろすと、昼の時間が緩んだ。
おすすめはあるかと聞くと、店員は身振りを交えてひとつの料理を勧めてきた。
ポルチーニのグリル。
秋しか食べられないのだと、妙に強く推される。
そこまで言うならと頼んでみたものの、俺には正直、名前以上の情報はなかった。
向かいに座る和倉さんを見て、飛行機の中で受けた印象とは少し違うと思った。
あのときより、今のほうがよく喋る。
快活、という言葉がいちばん近い気がした。
和倉さんがバッグを膝にのせて言った。
「お仕事、終わったんですか?」
「このあと、十六時からもう一件」
「そっちは?」
「こっちは終わり」
「いいですね」
「俺は夜までかかりそうです」
そう言うと、和倉さんは少し気の毒そうな顔をしたが、すぐに話題を変えた。
「ローマでは、おいしいもの食べました?」
「いや、ひとりなんで適当ですよ」
「イタリアまで来て?」
「和倉さんは、評判の店とか探していくの?」
「あ……いや、私も疲れちゃって、今回適当」
そこで少し笑ってしまう。
雑談のあいだに料理が運ばれてきた。
大きな皿に、大きなきのこがのっていた。
オリーブオイルをまとって、べったりと皿に張りついている様子は、思っていたよりずっと無骨だった。
「これ、ポルチーニ?」
和倉さんが皿をのぞき込むようにして言う。
「そうらしい」
「香りはいいですね」
たしかに香りはよかった。
けれど、口に入れてみると、俺には濃い椎茸にしか思えない。
まずいわけではないが、そこまで感動するほどでもない。
そう判断したところで、和倉さんはコクがあっておいしいと素直に言って食べていた。
その反応を見ているうちに、自分の舌が雑なのかもしれないという気がしてくる。
一枚の皿を、思いがけずふたりでシェアする形になったが、和倉さんはまったく気にしていないようだった。
取り分ける手つきにもためらいがない。
その自然さに、俺のほうが拍子抜けする。
「ローマの朝市にも行ってみたかったんですけど、そんな時間なさそうです」
そう言って、和倉さんはフォークを置いた。
「また、来ればいい」
深く考えずに、そう返していた。
「ローマにですか?」
「やり残したと思うなら、また来たらいいじゃないですか」
和倉さんは少し目を細めた。
「今度来るなら、ミラノやヴェネツィアに行ってみたいです」
「織田さんは、またローマでもいい?」
問われて、少し考える。
「だって、まだ見てないところ、いっぱいありますよ」
「でも、足は踏み入れました」
「雰囲気はわかりましたから」
その言い方がおかしくて、笑った。
来たことがある、という事実だけで気が済む人間もいるし、少し見ただけでは足りないと思う人間もいる。
たぶん和倉さんは前者で、俺は後者なのだろう。
「コロッセオとかサンピエトロ大聖堂とか、見たくないですか?」
「うーん。まあ、確かに。見たいかも」
そこで和倉さんが、ふっと笑った。
会話の流れは軽いのに、なぜか妙に落ち着く。
相手がよく喋るからか、自分が頑張って場をつながなくても間がもつからか。
理由ははっきりしない。
ただ、ひとりで適当に昼を済ませるはずだった時間が、思ったより悪くないものに変わっていた。
皿の上のポルチーニをもう一切れ口に運ぶ。
やはり、濃い椎茸だと思った。
だが、それを口に出すのはやめておいた。
和倉さんが本当においしそうに食べているので、水を差す気にはなれなかったからだ。
二時間もいないうちに、昼の時間は終わった。
和倉さんは駅へ向かい、俺も午後の予定に戻るため店を出た。
「じゃあ、帰国したら、今度は東京で飯でも食いましょう」
「ええ。また」
そう言葉を交わして別れ、俺はそのまま歩き出した。
しばらくして、和倉さんからメールが届く。
〈今日はありがとうございました。午後も頑張ってください〉
足を止めることもなく画面を見て、
〈こちらこそ。和倉さんも〉
とだけ返した。
帰りの電車では、しばらく仕事のメールを見ていたが、そのうちスマートフォンをしまった。
窓の外を流れていく景色をぼんやり眺めながら、日本に帰ったら、また飯でも行けばいいか、と思う。
もっとも、いつ誘うのか、本当に誘うのか、そこまではまだ決めていなかった。
冬の楓 第2話「織田冬吾」 おわり




