第1話 「和倉楓」
新連載『冬の楓』です。
今回は、偶然出会った二人と、その二人のそばにいた人たちのお話です。
短い時間の中で近づいていく関係と、長い時間を重ねても届かない想い。
誰かひとりが悪いわけではない、そんな恋愛を書いてみました。
全20話を予定しています。
最後までお付き合いいただけたらうれしいです。
挿絵はpixivに掲載していきます。https://www.pixiv.net/users/25376040
1
手荷物検査場を抜けると、私はため息をついた。
搭乗口までの案内表示を見上げた瞬間、こんなに遠いのか、と胸の内でつぶやいた。
成田空港は、出発する人間に最後の覚悟をさせるために、わざと搭乗口を遠く作っているのではないか。
そんな馬鹿げたことまで考えた。
旅行なら、この長い通路さえ楽しかったかもしれない。
土産物店をのぞき、搭乗前のコーヒーを飲みながら、現地に着いたらどこへ行こうかと考える。
けれど私の頭の中にあるのは、観光地ではなく訪問先のビルの名前で、名物料理ではなく打ち合わせの開始時刻だった。
向かう先はローマ。
レオナルド・ダ・ヴィンチ空港。
歴史上の天才の名を冠した空港へ向かうというのに、自分が運んでいくのは夢ではなく仕事の資料だと思うと、変に可笑しく、そしてうんざりした。
フライトは長い。
ひと眠りして目が覚めても、まだ雲の上なのだろう。
映画を見ても、本を読んでも、機内食を終えても、到着まではきっと遠い。
何をして過ごそうかと考えながら、結局いちばん現実的なのは、少し眠って少し仕事をして、あとは時間が過ぎるのを待つことだとわかっていた。
ローマに着けば、現地の時間ではまだその日が続いている。
けれど私にとっては、もう十分に一日を使い切ったあとだ。
得をしたはずの時間が、少しも得には思えない。
むしろ、同じ一日をもう一度働かされるような気さえした。
搭乗口へ続く通路を歩きながら、私はガラスの向こうの機体を見た。
あれに乗れば、十数時間後にはイタリアだ。
遠い国のはずなのに、仕事は容赦なく現実の輪郭をして待っている。
せめて帰りの便では、ただ帰るだけの気持ちで座れたらいい。
そんなことを思いながら、私は歩幅を変えずに搭乗口へ向かった。
搭乗口近くのベンチに腰を下ろした私は、何か飲み物でも買おうかと考えながら、ぼんやりと人の流れを眺めていた。
長いフライトの前に、ペットボトルのお茶を一本くらい持っていてもいいかもしれない。
そう思ったとき、バッグの中でLINEの通知音が鳴った。
画面に表示された名前を見て、私は目を落とす。
坂上康太。
会社の同期で、大学を一浪しているぶん、年齢は私のひとつ上だった。
仕事の合間に言葉を交わし、ときどきこうして食事に誘ってくる相手でもある。
届いていたのは、短い二行だった。
〈出張がんばって〉
〈帰ったら、飯食いに行こう〉
気負いのない文面が、坂上くんらしいと思った。
励ましというには軽く、けれど突き放しているわけでもない、そのほどよい距離感に、私は力が抜けるのを感じた。
ちょうどそのとき、搭乗案内のアナウンスが流れ、ゲートが開いた。
待っていた乗客たちが一斉に立ち上がり、列を作りはじめていた。
お茶を買うなら今かもしれないと一瞬思ったものの、私はその考えをすぐに打ち消した。
なくても困るほどではない。
それに、今はもう余計な動きを増やしたくなかった。
スマートフォンをバッグにしまい、私はゆっくりと立ち上がる。
そして、そのまま搭乗列の最後尾へ静かに並んだ。
座席は翼より少し前の、窓側だった。
私は搭乗券に記された座席番号を見てから、頭上の表示に視線を移した。
間違いない。
すでに、通路側の席に男性が座っていた。
私が足を止めると、男性はすぐに気づいたように腰を浮かせた。
「どうぞ」
「すみません」
私は軽く頭を下げ、前を通してもらって窓側の席に身を収める。
隣の男性は、端正な顔立ちをしていた。
背も高く、肩幅もある。
エコノミーの座席では、さすがに窮屈なのではないかと一瞬思う。
こういう人は、普通に結婚していそうだ。
男性が座り直したとき、左手が目に入った。
指輪はしていない。
けれど、男の人は結婚していても指輪をしないことがあるし、それだけではわからない。
だからといって、確かめたいほど気になったわけでもなかった。
今は他人のことより、自分がこれから十時間以上この場所で過ごすのだという現実のほうが、よほど重かった。
2
離陸して一時間が過ぎた。
最初の一時間、私は窓の外を眺めたり、スマートフォンに残っていた未読メールを読んだりして時間をつぶしていた。
けれど、それだけで満たされるほど機内の時間は短くない。
やっぱり、搭乗前にお茶でも一本買っておけばよかったと思う。
喉が渇いたというより、何か口に入れていたいような、そんな手持ち無沙汰な感覚だった。
私は前の座席の下に押し込んでいたバッグを引き寄せた。
たしか、二週間ほど前に買ったのど飴が入っていたはずだ。
ガムのように四角い飴が並んだ、小さな箱型のパッケージ。
手を突っ込んで中を探ると、指先にそれらしい感触が触れた。
見つけた。
二週間も入れたまま忘れていたくせに、見つけた途端にうれしくなる自分がおかしかった。
のど飴を膝の上に置き、バッグを座席の下へ戻そうとした、そのときだった。
飴の箱が膝から滑り落ちる。
床に落ちたそれは、隣の席の男性の足元まで転がっていった。
男性は機内モニターで映画を探していたが、気づくとすぐに身をかがめ、飴を拾い上げてくれた。
「すみません。ありがとうございます」
「大丈夫です」
差し出された飴を受け取ると、男性は口元だけでわずかに笑った。
その表情が思いのほかやわらかくて、悪くないと思った。
「一時間しか経ってないのに、もうこれです」
半分は独り言のつもりで言うと、男性は少し肩を揺らした。
「あと十一時間ありますからね」
その言い方が現実的で、私は小さく笑う。
「あと十一回くらいなら、拾いますよ」
「一時間に一回ですか」
「そのくらいなら」
「本当に十一回拾ってもらったら、報酬払いますよ」
男性は声を立てずに笑い、また画面へ視線を戻した。
私はのど飴をひとつ口に入れる。
やさしい甘さが広がる。
窓の外には、途切れなく雲が続いていた。
その白さをぼんやり見ているうちに、張っていた意識が少しずつゆるみ、私はいつのまにか眠りへ落ちていった。
3
目が覚めたとき、通路の奥から客室乗務員がワゴンを押してきていた。
機内食の配布が始まったのだとわかる。
前方の席から順に、ビーフかチキンかを尋ねているらしかった。
それでも、ビーフは当たり外れが大きそうな気がして、私は順番が来るとチキンを選んだ。
無難なほうにしておこうという、ただそれだけの判断だった。
隣の男性は、食事と一緒にビールを頼んでいた。
缶を受け取る様子を横目で見て、私も気が変わる。
機内では普通に出してもらえるらしいし、長いフライトの途中で飲む理由としては十分だった。
私もビールを頼んだ。
仕事で乗った飛行機の中で、こんなふうに周りにつられるのもどうかと思ったが、断る理由もなかった。
眠っていたあとのぼんやりした頭には、冷たい飲み物のほうがむしろ都合がいい気もした。
テーブルの上に並べられた機内食は、予想どおり特別なものには見えなかった。
けれど、温かいだけマシだった。
アルミの容器のふたを開けていると、隣の男性が声をかけてきた。
「お仕事ですか」
「ええ、そうです」
私が答えると、男性は軽くうなずいた。
「俺もです」
その返しが思いのほか自然で、私は気を緩めた。
何の仕事なのだろうと興味がわき、手を止めずに尋ねる。
「どういうお仕事なんですか」
「ああ、半導体です」
「最先端って感じですね」
そう言うと、男性はわずかに笑った。
「そうでもないですよ。うちは素材なんで」
「こっちは精密機器です。映像関係の」
「ああ、そちらも十分最先端じゃないですか」
そう言って、彼はビールのプルトップを開け、一口飲んだ。
「ローマでお仕事ですか」
「ローマが拠点です。途中でフィレンツェにも行きます」
私も缶のプルトップに指をかけた。
ぬるくなる前に飲んでしまいたいと思い、そのまま口をつける。
「俺もローマです。フィレンツェは一日だけですけど」
「へえ」
思ったより行き先が近い。
私は隣の男性を見た。
もっとも、それ以上そこに意味を見つけるほど、浮ついた気分でもなかった。
ビールを三分の一ほど飲んで缶をテーブルに戻す。
それからフォークでチキンを刺し、ひと口食べてから、また缶に手を伸ばした。
「移動って、面倒じゃないですか」
隣の男性がこちらを向いた。
「そのあいだ、何もできないし」
すると彼は、あっさりと言った。
「俺は好きですよ」
私は思わず聞き返す。
「十二時間でも?」
「何もしなくても、目的地に近づいてるでしょう」
少し間があって、私は眉を上げた。
「そこですか」
「楽じゃないですか。寝てても進んでる」
その言い方がおかしくて、私は笑った。
「なるほどね」
その後は、特に何を話すでもなく過ごしていた。
私は文庫本を読み、彼は映画を見ている。
ふと画面が目に入り、私はその映画を前に見たことがあると思い出した。
たしか、ラストがよかった。
「最後、めちゃくちゃ面白くなかったです?」
彼は画面を見たまま言った。
「俺、途中のほうが好きでした」
「えー」
「最後、ちょっと説明しすぎじゃない?」
「そこ説明してくれないと困るでしょ」
「俺は要らない」
「合わないですね」
「ですね」
そう言って、ふたりで少し笑う。
またしばらく黙る。
私は本を読み、彼は別の映画を見る。
会話は続かないのに、気まずさも続かなかった。
今度は彼が機内誌を広げ、何かの記事を真剣に読んでいる。
「そこ読むんですか?」
「面白くない?」
「全然」
「そうか」
それだけで終わる、どうでもいいやり取りだった。
けれど、そのどうでもよさがかえって心地よかった。
長いフライトの時間は、黙っているだけではやけに長い。
だからといって、無理に埋めるほどのものでもない。
少し黙って、少し話す。
その繰り返しのなかで、時間は思ったより穏やかに流れていった。
4
やがて、機内の照明がゆっくりと落とされた。
到着してからのことを思えば、少しでも眠っておかなければきつい。
そうわかってはいても、私はすぐには目を閉じられなかった。
機体を包むように絶えず響いているエンジン音が、意識するとかえって耳につく。
それでも、疲れには勝てなかったのだろう。
気づけば、私は眠りに落ちていた。
次に目を覚ましたとき、窓の外には朝焼けが広がっていた。
薄く滲んだ橙色が、雲の縁を静かに染めている。
しばらく見とれていると、隣の気配が動いた。
彼も目を覚ましたらしく、シートの上で小さく身じろぎする。
「今、どの辺ですかね」
低く抑えた声がして、私は視線を窓の外に向けたまま答えた。
「全然わからない」
少し間を置いてから、私は続ける。
「ずいぶん長く乗ってるはずですけど」
「まだ着かないですね」
そう言われて、私は小さく笑った。
「移動は好きだって言ってましたよね」
「好きですけど、長いものは長いです」
その言い方がおかしくて、また笑いそうになる。
けれど、まだ眠っている乗客も多い。
口元を手で覆い、声を漏らさないようにして肩だけを揺らした。
それから私たちは、自然と静かな声で話した。
「出張、多いんですか」
「国内も入れれば、それなりに」
「そんなに家を空けて、奥さんが大変そうですね」
「奥さん、いませんよ」
思わず、彼の顔を見た。
「え」
「いると思ってました?」
「なんとなく。結婚してそうだから」
「どういう意味ですか、それ」
「悪い意味じゃないです」
彼は少し笑ってから、今度は私に尋ねた。
「そちらは?」
「結婚してません」
「彼氏は?」
「いませんよ」
答えてから、私も聞き返す。
「彼女はいないんですか?」
「いません」
「そうなんですね」
それだけの話だった。
どちらも相手がいないとわかったからといって、何かが変わったわけではない。
会話はそのまま、別の話題へ移っていった。
どんな食べ物が好きかとか、一人暮らしだと何を作るかとか、旅行先では何を食べたくなるかとか、そんな他愛ないことばかりだった。
機内の十二時間のうち、実際に言葉を交わしていた時間は、半分にも満たないはずだった。
むしろ黙っている時間のほうがずっと長い。
朝焼けの光はゆっくりと薄れていき、窓の外の色も少しずつ変わっていく。
ローマまでは、もう少し。
長いと思っていた時間は、まだ終わっていないのに、終わりが見えはじめると急に名残惜しさのようなものを帯びはじめる。
私には、それが少し意外だった。
飛行機は静かに、西へ進み続けていた。
5
飛行機は着陸態勢に入り、シートベルト着用を促す案内が機内に流れた。
ローマまでは、もう二十分もかからないだろう。
私は息をつき、座席に深くもたれた。
長かったフライトも、ようやく終わる。
隣を見ると、彼もちょうど上着を羽織るところだった。
そこで私は、少し迷った。
名刺を渡しておこうかと思ったのだ。
仕事で接点ができる可能性は低い。
それでも、思いがけない縁が何かにつながることはある。
迷うくらいなら、渡しておいたほうがいい。
そう思って口を開く。
「そういえば、お名前知らないままですね」
彼がふっと笑う。
「ああ、ほんとですね」
私はバッグの内ポケットから名刺入れを取り出し、一枚抜いて差し出した。
すると彼も上着の内ポケットに手を入れ、名刺を取り出す。
受け取った名刺に目を落とすより先に、彼の声が私の名を呼んだ。
「和倉さん」
不意に名字を口にされて、私は顔を上げる。
「はい」
「フィレンツェは木曜日でしたよね」
確認するというより、思い出したことをそのまま口にしたような言い方だった。
「そうです」
「俺も木曜です」
「時間が合えば、ご飯でもどうですか」
「いいですね」
「じゃあ連絡します」
「ええ、タイミング合えばいいですね」
そう返して、私も笑う。
その直後、機体がゆるやかに高度を下げはじめた。
窓の外の景色が近づいてくる。
やがて飛行機は、レオナルド・ダ・ヴィンチ空港に到着した。
6
飛行機を降りてから、彼とはしばらく並んで歩いていた。
入国審査で別の列へ並ぶところで、私は彼を見て「じゃあ」と声をかけた。
「お仕事、頑張ってくださいね」
彼も軽く手を上げて言った。
「和倉さんも」
それだけで別れた。
空港からまっすぐローマ駅へ向かうつもりだった。
空港内でTrainの表示を探して、ローマ・テルミニ駅を目指す。
レオナルド・エクスプレスという急行列車に乗った。
これに乗れば、ローマまで直通らしい。
車内で、ポケットに入れた名刺を取り出した。
織田冬吾。
なるほど、知る人ぞ知る半導体の素材メーカーだった。
そのとき、バッグの中でスマートフォンが震えた。
LINEだ。
坂上康太だった。
〈着いた?〉
KAEDE
〈着いた〉
名刺を持ったままだったことに気づいたのに、バッグに入れたのはスマートフォンだった。
名刺をもう一度見た。
あれほど長いと思っていた十二時間は、終わってしまえば、思っていたよりずっと短かった。
冬の楓 第1話「和倉楓」 おわり
第1話を読んでくださって、ありがとうございました。
『冬の楓』は、四人それぞれの気持ちが少しずつ重なりながら進んでいく物語です。
誰かを好きになる時間の長さと、その想いの深さは、必ずしも同じではないのかもしれない。
そんなことを考えながら書きました。
これから少しずつ、それぞれの関係が動いていきます。
次回も読んでもらえたらうれしいです。




