第20話 「一年」
1
初秋。
相変わらず、俺たちはお互いの部屋を行き来していた。
週末になると、その日の予定に合わせて、どっちの部屋で寝るかを決める。
特に用事がない日は、楓が俺の部屋に来ることが多い。
こっちのほうが広いからだ。
逆に、映画を観に行くとか、百貨店に寄りたいとか、電車で出かける予定があるときは楓の部屋のほうが都合がいい。
駅に近い。
そういうのは、だいたい効率で決めていた。
今回は特に予定もなくて、一昨日の金曜から楓は俺の部屋にいる。
今日は日曜だ。
朝、窓を開けると、空気がずいぶん冷たくなっていた。
楓と出会ったのも、こんな季節だった。
もうすぐ一年になる。
キッチンから、パンの焼ける匂いがした。
俺はコーヒーを淹れようと思って、そっちに戻った。
食パンをかじりながら、楓がこっちを見る。
たぶん、今日の予定を聞くつもりなんだろう。
特に何もなくても、一応は聞いてくる。
「今日、どうする?」
ほらな、と思う。
「なんかしたいことあんの?」
「特にない」
「じゃあ、映画でも観る?」
「うん」
いつも、この程度で決まってしまう。
朝食を済ませて、俺はもう一度コーヒーを淹れた。
マグカップをふたつ持って、ローテーブルに置く。
楓はキッチンのほうで、がさがさと何かを探していた。
たぶん、お菓子でも探している。
昨日スーパーで、甘いもの売り場の前にしばらくいたのを思い出す。
欲しいなら買えばいいと言っても、太るだの、しまう場所がないだの言って、結局なかなか決めない。
楓がああして迷うのは、たぶん甘いものくらいだ。
なのに大事なことになると、妙に答えが早い。
動画配信サービスのホーム画面を開く。
しばらくして戻ってきた楓が選んだ映画を、俺は黙って一緒に見た。
一年前、飛行機の中で俺が見ていた映画を、楓はもう見ていた。
感想はまるで合わなかった。
でも、あのとき話したのがきっかけだった。
そして今回も、やっぱり感想は合わない。
見終わると、楓はあからさまに不満そうな顔をした。
「なんでさ、あの主人公、真実を言わなかったんだろ。言うべきでしょ」
「言わないほうがよかっただろ」
「どうして?」
「知ったら、相手が選ばないといけなくなる」
「でも、知らないまま決められるの、嫌じゃない?」
「知らないほうが幸せなことだってある」
「それを決めるのは本人でしょ」
エンドロールが終わっても楓は、途中のシーンについてあれこれ言っていた。
意見は、やっぱり一致しない。
楓は俺に合わせてうなずいたりしない。
聞けば自分の考えを返してくるし、俺が何か言えば、ちゃんと楓の言葉で返ってくる。
そういうところが、ずっと変わらない。
楓がふいに言った。
「最初に会ったときも、映画の感想、合わなかったよね」
「覚えてる?」
「覚えてるよ」
「もう、一年だね」
「まだ」
「もうすぐ一年、だろ」
「細かい」
楓は呆れたみたいにそう言って、マグカップに口をつけた。
一年前は、映画の感想が合わないだけの他人だった。
今は、意見が噛み合わないまま、同じ部屋で同じ時間を過ごしている。
それでも一緒にいるんだから、不思議なもんだと思う。
もう一本映画を見終えるころには、昼を過ぎていた。
楓は両手を上に伸ばして、大きく背伸びをする。
「お腹空いた」
「何食べる?」
「外、行く?」
「行くか」
うちから駅までは、歩いて十分くらい。
日曜の午後、俺たちは手をつないで、あてもなくぶらぶら歩いた。
駅前をうろついて、ハンバーガーを頬張って、本屋に寄る。
そのあとスーパーで夕飯の買い物もした。
特別なことは、何もない。
でも、そういういつもの日曜を、楓とふたりで過ごすのは悪くなかった。
2
夕食を食べ終えたあと、楓が壁の時計を見た。
何気ない顔をしているくせに、そういうときだけ少し現実に引き戻されたみたいな目をする。
「そろそろ帰る」
少し面倒そうな言い方だった。
けれど、それもいつものことだ。
帰りたくないわけじゃなくて、帰る支度がただ面倒なだけなのか、本当は帰りたくないのか、そのへんはいまだによくわからない。
「明日早いの?」
「朝から会議」
会議か、と思う。
寝不足で行くのはしんどいだろうし、月曜の朝の電車だって楽じゃない。
そう考えれば、今日のうちに帰るほうが楓にとってはいいはずだった。
楓は立ち上がって、持ってきたバッグに化粧品やブラシをしまい始める。
毎回持ち帰るものだけを、慣れた手つきでバッグにしまっていく。
歯ブラシと部屋着は置いたままだった。
次に来るつもりでいる証拠みたいで、そういうのをいちいち口にするほどでもない。
俺も立ち上がって、椅子の背に掛けてあった上着を取る。
「送る」
楓が手を止めてこっちを見た。
「駅まで?」
「うん」
楓は何も言わなかった。
断るほどでもなくて、素直にうなずくには照れる。
そんなふうに見えた。
「じゃあ、お願い」
そう言って、またバッグの中を整え始める。
俺はそのあいだ、テーブルの上のマグカップを重ねて流しに運んだ。
部屋の中には、夕食の匂いがまだ残っている。
ついさっきまで当たり前みたいに一緒にいたのに、帰る支度が始まると、部屋が広く感じるから不思議だった。
もう二十時だった。
駅までの道を歩きながら、俺は楓に聞いた。
「来週の金曜は?」
「うち来る?」
「行く」
「土曜は?」
「こっちでもいいよ」
「日曜は帰る?」
「月曜は仕事だし、帰る」
「そっか」
そこで会話はいったん途切れた。
夜の空気は昼よりだいぶ冷えていて、並んで歩く足音だけが静かに続く。
次に会うのは金曜。
出張とか、実家で何かあるとか、そういうよほどのことがない限り、金曜から日曜までは一緒に過ごす。
いつからか、それが当たり前になっていた。
どっちの部屋に行くかも、今ので決まった。
日曜の夜になれば、それぞれ自分の部屋に帰る。
それだけのことを確認しただけなのに、来週の予定が見えると、落ち着く。
別に、何か困っているわけじゃない。
俺たちは、お互いちゃんとひとりで暮らしていける大人だ。
仕事もあるし、生活もある。
たぶん、こういうのを安定してるって言うんだと思う。
面倒だと思うことが、まったくないわけじゃない。
着替えを持って移動するとか、明日のことを考えて帰る時間を気にするとか、そういう細かい手間はある。
けれど、それを嫌だと思ったことはなかった。
駅まで歩くこの道も、電車に乗る時間も、どっちかの部屋で過ごす夜も、隣に楓がいるならそれなりに楽しい。
特別なことがなくても、次の金曜を自然に約束して、日曜にはそれぞれの家へ帰る。
そういう繰り返しが、今の俺たちにはちょうどよかった。
3
改札の前で、つないでいた手を離した。
楓が自動改札のほうへ向きかけたところで、俺は声をかける。
「じゃあ、金曜」
楓は一瞬だけ足を止めて、振り返った。
「うん」
それだけ言って、スマートフォンを改札機にかざし、そのまま中へ入っていく。
その背中を見送りながら、一年前のことを思い出していた。
初めて東京で食事をした日も、こうして改札で別れた。
あの日、初めてLINEを交換した。
電車に乗ってすぐ、俺はメッセージを送った。
〈次は割り勘で〉
楓からの返事は、意外だったのを覚えている。
〈次があるんですか?〉
ないと思われてたのかと、そんなことを考えながら返した。
〈ないんですか?〉
返事はすぐだった。
〈あります〉
あのやり取りをしたときは、こんなふうになるなんて思っていなかった。
今はもう、次があることを疑っていない。
来週も、その次も、たぶん三年後も。
楓は俺のそばにいる。
そう思えるくらいには、当たり前になっていた。
それなのに、毎週こうして別々の家に帰って、次に会う日を確認している。
困っているわけじゃない。
不満があるわけでもない。
ひとりで暮らすことに不自由はないし、楓と行き来する今の形だって、ちゃんとうまく回っている。
それでも、楓を見送ったあと、ひとりで部屋に戻る道はいつも少し長く感じた。
楓が帰ったあとの部屋は静かで、雨の日なんかは、このまま帰さなくてもいいのにと思うこともあった。
今夜からまた金曜まで待つ。
そういうことを、これからもずっと繰り返す必要はないんじゃないかと、ふと思った。
一緒に住みたいだけなのかと考えて、それだけではないと思う。
たぶん、もっと単純だった。
三年後も一緒にいると自然に思える楓と、その先もずっと一緒にいたい。
言葉にすると、それだけだ。
理屈っぽく考えていたわりに、答えは拍子抜けするくらい簡単だった。
楓は、ホームへ上がる階段の手前まで来ている。
見慣れた後ろ姿だった。
人の流れに紛れて見えなくなる前に。
階段に足をかけてしまう前に。
今、言わないといけない気がした。
「楓」
少しだけ声を張る。
楓が立ち止まって、振り返った。
「なに?」
俺は一度だけ息を吸った。
「結婚しない?」
「する」
冬の楓 第20話 「一年」 おわり




