↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
冬の楓  作者: mamio


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
19/21

第19話 「前提」

1


八月の終わり、月城HDでは、次期中期経営計画の検討が始まっていた。


私も医療機器部門の資料づくりに追われている。

市場予測、開発計画、海外展開。

会議で求められるのは、いつだって少し先の未来だ。


三年後の売上。

三年後の市場。

三年後の組織。

三年後に必要な人材。


数字と図表を並べながら、私はそれらをひとつずつ形にしていく。

どの地域で需要が伸びるのか。

どの製品群に投資するべきか。

人員配置をどう変えるべきか。

そういう問いには、いちおう答えられる。

正解ではなくても、今ある材料を集めて、それらしい筋道を立てることはできる。


けれど、自分の三年後のことになると、途端に輪郭がぼやけた。


三年後、私は何をしているのだろう。


今と同じ部署にいるかもしれない。

別の部門へ異動しているかもしれない。

どこか別の土地で働いている可能性だってある。

また海外へ行くことになるのかもしれなかった。


仕事の未来は、自分の希望だけでは決まらない。

会社の方針ひとつで、驚くほどあっさり形を変える。

わかっているつもりだったし、それを前提に働いてきたはずなのに、こうして三年後を並べ立てる資料を作っていると、ときどき足元だけが曖昧になる。


私の未来は、どの資料にも載っていなかった。



金曜日の午後、窓の外は朝よりも暗かった。

台風が近づいているせいで、空は厚い雲を何枚も重ねたみたいに低い。

遠くの景色は白くかすみ、ガラスの向こうで風がときどき強く木を揺らしていた。


社内の空気も、どこか落ち着かない。

交通機関への影響が出る前に帰れるだろうかと、誰もがそわそわしている。

けれど、手元の仕事が減るわけではない。

画面の中には、まだ数字の並びきっていない表が残っていた。


私はキーボードに指を置いたまま、ふと手を止めた。


分からないまま働いて、分からないまま金曜日が終わっていく。


それでも、未来を考える仕事をしている。


おかしくて、なんだか笑えた。


画面の隅には、社内チャットの通知が光っていた。

台風の接近に伴う注意喚起と、必要に応じた早帰りの判断について。

週末を目前にしたオフィスは、いつもより早く閉じていく気配をまとい始めている。


冬吾は電車が動いてるうちに来られるだろうか。

今週はうちで過ごすことになっている。


私は通知を閉じて、開きかけていた表に視線を戻したところで先輩に声を掛けられた。


「和倉さん、もう帰ろう」


「あ、そうですね」


「雨、激しくなると、電車止まるかもよ?」


先輩は、早くもバッグを持っていた。


私も帰ろう。



2


十八時には帰宅できた。


まだ傘は差せたけれど、足元はもうだめだった。

跳ね返った雨で、靴も裾もびっしょり濡れている。

玄関で靴を脱いだときには、もうすっかりうんざりしていた。


急いで着替えていると、玄関の鍵が回る音がした。

続いて扉が開き、冬吾が入ってくる。


「おかえり」


「うん。風、強くなってきたな」


見れば、冬吾も肩口がしっとり濡れていた。

私はタオルを渡して、自分も別のタオルを頭からかぶる。

そのままエアコンのリモコンに手を伸ばした。


背後で冷蔵庫を開ける音がする。


「食べるものある?」


「買ったよ」


今度は冷凍庫を開ける音がした。


「アイス?」


「うん。停電したら溶けるから、早く食べないと」


「備える方向が違うだろ」


「下にコンビニあるし」


「コンビニが倉庫代わりか」


呆れたような声がおかしくて、私はふふっと笑った。


「今日はコンビニで適当に買おうよ」


「じゃ、行くか」


外はこれからもっとひどくなるのに、冬吾はのんびりした声で言った。


冬吾が払ってくれると言うので、鍵だけ持って一階に降りた。

卵が切れていたのを思い出して、私は売り場の前で足を止めた。

パックをひとつ手に取り、そのままかごに入れる。


「冬吾、親子丼でも作ろっか?」


「いいんじゃない?」


それなら味噌汁もあったほうがいい。

そう思って豆腐もかごに入れた。

家の冷蔵庫に玉ねぎと鶏肉があるのは、出る前にちゃんと確認してある。

食後のアイスももう買ってあるから、今夜の献立はそれで迷わず決まった。


少し先の冷蔵ケースの前で、冬吾がビールを取り出しているのが見えた。

私はかごを持って、冬吾のいるところへ歩いていった。



3


テレビでは台風情報が流れ続けていた。

進路予想図と雨雲の映像が、代わる代わる画面に映る。

掃き出し窓には、ときどき外からばしゃっと水をかけられたみたいな音がした。


私たちはローテーブルを挟んで向かい合い、台風情報を聞き流しながら親子丼を食べていた。

部屋の中はエアコンで快適なのに、窓の向こうだけが落ち着かない。


「最近、三年後のことばっかりなの」


私がそう言うと、冬吾は丼に視線を落としたまま聞き返した。


「なに。仕事?」


「うん。中期計画」


「めんどいな」


あっさりした言い方に、笑いそうになる。


「冬吾、三年後って何してると思う?」


冬吾は箸を止めて、考えるような顔をした。


「仕事してるんじゃない?」


「それはわかってるよ」


「今の会社にいるかはわからない」


「転勤とか?」


「あるかもな」


そう言われて、私も考えた。


「私も、どこにいるかわかんない」


「楓はいるだろ」


「……どこに?」


「俺の近くに」


思わず、冬吾を見た。


「私がいる前提?」


「いないの?」


その顔は、三年後に私がいない可能性なんて、最初から考えていないみたいだった。

たしかに私も、三年後の自分から、冬吾だけを切り離して考えたことはなかった。


「いると思う」


「じゃあ、それでいいだろ」


冬吾は、当然みたいにそう言った。

そのことに、私も何の違和感もなかった。

あまりにも簡単に話が終わって、私は拍子抜けした。


「会社の三年計画より雑」


「会社じゃないから」


「普通、逆じゃない?」


「楓は三年後、俺といないの?」


「いる」


「じゃあ、決まりだ」


「決まったんだ」


「うん」


窓の外では、また雨が強く打ちつける音がした。


会社では、三年後の売上も市場も組織も、根拠を並べて説明しなければいけない。

けれど、ここではそんなものは何ひとつ要らなかった。


冬吾が当然みたいに言うから、私もそんな気がしてくる。


三年後も、たぶんこうしているのだろうと、ぼんやり思った。


台風情報の流れる夜に、親子丼を食べながら。  



4


台風は速度を落としながら北上していて、関東では日曜日まで雨と風が続く予報になっていた。


けれど、日曜の夕方には雨はかなり弱くなっていた。

窓の外はまだ曇っているし、風もときどき強く吹く。

それでも、もう外に出られないほどではない。

電車も動いていた。

ただ、強風の影響で遅れは出ている。


冬吾は帰ろうと思えば帰れる。


座椅子に座ったまま運行情報を見ている横顔を眺めながら、私はなんとなくそう思っていた。

明日は月曜で、仕事もある。

大井町の部屋に戻るつもりでいるのは自然だった。


「帰るの?」


聞くと、冬吾はスマホから目を上げた。


「帰ろうと思ってた」


「電車、遅れてるよ」


「動いてはいる」


帰れないわけではない。

でも、絶対に帰らなければならないわけでもない。

そう思ってから口にするまでに、間はほとんどなかった。


「別に、今日帰らなくてもよくない?」

「明日のシャツなら、うちにあるよ」


冬吾がこちらを見る。


「ある?」


「前に置いていった」


すると冬吾は、迷う様子もなく言った。


「じゃあ泊まる」


あまりに即決で、私は笑ってしまう。


窓の外では風がまたひと吹きして、ベランダの手すりに雨粒が細かく当たる音がした。


部屋の中は静かで、テレビの天気予報だけが小さく流れている。


大げさな理由なんていらないのだと思う。

電車が少し遅れていて、明日のシャツがここにあって、今日はこのまま一緒にいたいと思った。


それだけだった。



5


八月三十一日、月曜日。


支度を終えてふたりで部屋を出る。

玄関の鍵を閉めるその短い時間さえ、どこか落ち着かない。

週末の昼や夜に一緒に出かけることは何度もあったのに、平日の朝、仕事へ行くために並んで部屋を出るのは珍しかった。


冬吾は、うちに置いてあったシャツを着ていた。

前に泊まったときにそのままになっていた一枚だ。

まさか、こんなふうに役に立つとは思っていなかった。


エレベーターを降りて外に出ると、太陽が照り付けていた。

雨はもう上がっていて、昨日までの荒天が嘘みたいに風もおさまっていた。

濡れたアスファルトだけが、通り過ぎた台風の名残みたいに残っている。


冬吾が空を見上げて言った。


「暑いな」


駅まで、私たちは並んで歩いた。


通勤の人たちに混じって歩くこの時間が、不思議だった。

いつもと同じ月曜の朝のはずなのに、隣に冬吾がいるだけで景色が違って見える。


「シャツ、返す?」


私が聞くと、冬吾は前を向いたまま答えた。


「また置いといて」


「また泊まるの?」


「泊まらないの?」


あまりにも自然に返されて、私は笑ってしまう。


「泊まる」


また三秒で決まった。


そういうところが、冬吾らしいと思う。

変に照れたり、もったいぶったりしない。

必要なら決めるし、決めたら早い。


駅に着くと、人の流れはいつもより多く見えた。

休み明けの朝独特の、まだエンジンのかかりきらない空気が漂っている。

改札の手前で、私たちはそれぞれの通勤方向に分かれる。


「じゃあ、金曜」


「うん」


短く言って、冬吾は先に歩き出した。

私はその背中を見送ってから、自分の改札へ向かう。


昨夜の言葉を、ふと思い出す。


楓はいるだろ。  

俺の近くに。


三年後、自分がどこで働いているのかはわからない。

同じ部署にいるのか、異動しているのか、別の場所から通勤しているのかもわからない。

どの家から朝を始めているのかだって、まだ何ひとつわからない。


それでも、そこに冬吾がいると言われたことには、不思議なくらい違和感がなかった。


三年後の予定は、まだ何も決まっていない。  

ただ、その中に冬吾がいることだけは、もう予定ではなく前提だった。




冬の楓 第19話 「前提」 おわり



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。