第19話 「前提」
1
八月の終わり、月城HDでは、次期中期経営計画の検討が始まっていた。
私も医療機器部門の資料づくりに追われている。
市場予測、開発計画、海外展開。
会議で求められるのは、いつだって少し先の未来だ。
三年後の売上。
三年後の市場。
三年後の組織。
三年後に必要な人材。
数字と図表を並べながら、私はそれらをひとつずつ形にしていく。
どの地域で需要が伸びるのか。
どの製品群に投資するべきか。
人員配置をどう変えるべきか。
そういう問いには、いちおう答えられる。
正解ではなくても、今ある材料を集めて、それらしい筋道を立てることはできる。
けれど、自分の三年後のことになると、途端に輪郭がぼやけた。
三年後、私は何をしているのだろう。
今と同じ部署にいるかもしれない。
別の部門へ異動しているかもしれない。
どこか別の土地で働いている可能性だってある。
また海外へ行くことになるのかもしれなかった。
仕事の未来は、自分の希望だけでは決まらない。
会社の方針ひとつで、驚くほどあっさり形を変える。
わかっているつもりだったし、それを前提に働いてきたはずなのに、こうして三年後を並べ立てる資料を作っていると、ときどき足元だけが曖昧になる。
私の未来は、どの資料にも載っていなかった。
金曜日の午後、窓の外は朝よりも暗かった。
台風が近づいているせいで、空は厚い雲を何枚も重ねたみたいに低い。
遠くの景色は白くかすみ、ガラスの向こうで風がときどき強く木を揺らしていた。
社内の空気も、どこか落ち着かない。
交通機関への影響が出る前に帰れるだろうかと、誰もがそわそわしている。
けれど、手元の仕事が減るわけではない。
画面の中には、まだ数字の並びきっていない表が残っていた。
私はキーボードに指を置いたまま、ふと手を止めた。
分からないまま働いて、分からないまま金曜日が終わっていく。
それでも、未来を考える仕事をしている。
おかしくて、なんだか笑えた。
画面の隅には、社内チャットの通知が光っていた。
台風の接近に伴う注意喚起と、必要に応じた早帰りの判断について。
週末を目前にしたオフィスは、いつもより早く閉じていく気配をまとい始めている。
冬吾は電車が動いてるうちに来られるだろうか。
今週はうちで過ごすことになっている。
私は通知を閉じて、開きかけていた表に視線を戻したところで先輩に声を掛けられた。
「和倉さん、もう帰ろう」
「あ、そうですね」
「雨、激しくなると、電車止まるかもよ?」
先輩は、早くもバッグを持っていた。
私も帰ろう。
2
十八時には帰宅できた。
まだ傘は差せたけれど、足元はもうだめだった。
跳ね返った雨で、靴も裾もびっしょり濡れている。
玄関で靴を脱いだときには、もうすっかりうんざりしていた。
急いで着替えていると、玄関の鍵が回る音がした。
続いて扉が開き、冬吾が入ってくる。
「おかえり」
「うん。風、強くなってきたな」
見れば、冬吾も肩口がしっとり濡れていた。
私はタオルを渡して、自分も別のタオルを頭からかぶる。
そのままエアコンのリモコンに手を伸ばした。
背後で冷蔵庫を開ける音がする。
「食べるものある?」
「買ったよ」
今度は冷凍庫を開ける音がした。
「アイス?」
「うん。停電したら溶けるから、早く食べないと」
「備える方向が違うだろ」
「下にコンビニあるし」
「コンビニが倉庫代わりか」
呆れたような声がおかしくて、私はふふっと笑った。
「今日はコンビニで適当に買おうよ」
「じゃ、行くか」
外はこれからもっとひどくなるのに、冬吾はのんびりした声で言った。
冬吾が払ってくれると言うので、鍵だけ持って一階に降りた。
卵が切れていたのを思い出して、私は売り場の前で足を止めた。
パックをひとつ手に取り、そのままかごに入れる。
「冬吾、親子丼でも作ろっか?」
「いいんじゃない?」
それなら味噌汁もあったほうがいい。
そう思って豆腐もかごに入れた。
家の冷蔵庫に玉ねぎと鶏肉があるのは、出る前にちゃんと確認してある。
食後のアイスももう買ってあるから、今夜の献立はそれで迷わず決まった。
少し先の冷蔵ケースの前で、冬吾がビールを取り出しているのが見えた。
私はかごを持って、冬吾のいるところへ歩いていった。
3
テレビでは台風情報が流れ続けていた。
進路予想図と雨雲の映像が、代わる代わる画面に映る。
掃き出し窓には、ときどき外からばしゃっと水をかけられたみたいな音がした。
私たちはローテーブルを挟んで向かい合い、台風情報を聞き流しながら親子丼を食べていた。
部屋の中はエアコンで快適なのに、窓の向こうだけが落ち着かない。
「最近、三年後のことばっかりなの」
私がそう言うと、冬吾は丼に視線を落としたまま聞き返した。
「なに。仕事?」
「うん。中期計画」
「めんどいな」
あっさりした言い方に、笑いそうになる。
「冬吾、三年後って何してると思う?」
冬吾は箸を止めて、考えるような顔をした。
「仕事してるんじゃない?」
「それはわかってるよ」
「今の会社にいるかはわからない」
「転勤とか?」
「あるかもな」
そう言われて、私も考えた。
「私も、どこにいるかわかんない」
「楓はいるだろ」
「……どこに?」
「俺の近くに」
思わず、冬吾を見た。
「私がいる前提?」
「いないの?」
その顔は、三年後に私がいない可能性なんて、最初から考えていないみたいだった。
たしかに私も、三年後の自分から、冬吾だけを切り離して考えたことはなかった。
「いると思う」
「じゃあ、それでいいだろ」
冬吾は、当然みたいにそう言った。
そのことに、私も何の違和感もなかった。
あまりにも簡単に話が終わって、私は拍子抜けした。
「会社の三年計画より雑」
「会社じゃないから」
「普通、逆じゃない?」
「楓は三年後、俺といないの?」
「いる」
「じゃあ、決まりだ」
「決まったんだ」
「うん」
窓の外では、また雨が強く打ちつける音がした。
会社では、三年後の売上も市場も組織も、根拠を並べて説明しなければいけない。
けれど、ここではそんなものは何ひとつ要らなかった。
冬吾が当然みたいに言うから、私もそんな気がしてくる。
三年後も、たぶんこうしているのだろうと、ぼんやり思った。
台風情報の流れる夜に、親子丼を食べながら。
4
台風は速度を落としながら北上していて、関東では日曜日まで雨と風が続く予報になっていた。
けれど、日曜の夕方には雨はかなり弱くなっていた。
窓の外はまだ曇っているし、風もときどき強く吹く。
それでも、もう外に出られないほどではない。
電車も動いていた。
ただ、強風の影響で遅れは出ている。
冬吾は帰ろうと思えば帰れる。
座椅子に座ったまま運行情報を見ている横顔を眺めながら、私はなんとなくそう思っていた。
明日は月曜で、仕事もある。
大井町の部屋に戻るつもりでいるのは自然だった。
「帰るの?」
聞くと、冬吾はスマホから目を上げた。
「帰ろうと思ってた」
「電車、遅れてるよ」
「動いてはいる」
帰れないわけではない。
でも、絶対に帰らなければならないわけでもない。
そう思ってから口にするまでに、間はほとんどなかった。
「別に、今日帰らなくてもよくない?」
「明日のシャツなら、うちにあるよ」
冬吾がこちらを見る。
「ある?」
「前に置いていった」
すると冬吾は、迷う様子もなく言った。
「じゃあ泊まる」
あまりに即決で、私は笑ってしまう。
窓の外では風がまたひと吹きして、ベランダの手すりに雨粒が細かく当たる音がした。
部屋の中は静かで、テレビの天気予報だけが小さく流れている。
大げさな理由なんていらないのだと思う。
電車が少し遅れていて、明日のシャツがここにあって、今日はこのまま一緒にいたいと思った。
それだけだった。
5
八月三十一日、月曜日。
支度を終えてふたりで部屋を出る。
玄関の鍵を閉めるその短い時間さえ、どこか落ち着かない。
週末の昼や夜に一緒に出かけることは何度もあったのに、平日の朝、仕事へ行くために並んで部屋を出るのは珍しかった。
冬吾は、うちに置いてあったシャツを着ていた。
前に泊まったときにそのままになっていた一枚だ。
まさか、こんなふうに役に立つとは思っていなかった。
エレベーターを降りて外に出ると、太陽が照り付けていた。
雨はもう上がっていて、昨日までの荒天が嘘みたいに風もおさまっていた。
濡れたアスファルトだけが、通り過ぎた台風の名残みたいに残っている。
冬吾が空を見上げて言った。
「暑いな」
駅まで、私たちは並んで歩いた。
通勤の人たちに混じって歩くこの時間が、不思議だった。
いつもと同じ月曜の朝のはずなのに、隣に冬吾がいるだけで景色が違って見える。
「シャツ、返す?」
私が聞くと、冬吾は前を向いたまま答えた。
「また置いといて」
「また泊まるの?」
「泊まらないの?」
あまりにも自然に返されて、私は笑ってしまう。
「泊まる」
また三秒で決まった。
そういうところが、冬吾らしいと思う。
変に照れたり、もったいぶったりしない。
必要なら決めるし、決めたら早い。
駅に着くと、人の流れはいつもより多く見えた。
休み明けの朝独特の、まだエンジンのかかりきらない空気が漂っている。
改札の手前で、私たちはそれぞれの通勤方向に分かれる。
「じゃあ、金曜」
「うん」
短く言って、冬吾は先に歩き出した。
私はその背中を見送ってから、自分の改札へ向かう。
昨夜の言葉を、ふと思い出す。
楓はいるだろ。
俺の近くに。
三年後、自分がどこで働いているのかはわからない。
同じ部署にいるのか、異動しているのか、別の場所から通勤しているのかもわからない。
どの家から朝を始めているのかだって、まだ何ひとつわからない。
それでも、そこに冬吾がいると言われたことには、不思議なくらい違和感がなかった。
三年後の予定は、まだ何も決まっていない。
ただ、その中に冬吾がいることだけは、もう予定ではなく前提だった。
冬の楓 第19話 「前提」 おわり




