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冬の楓  作者: mamio


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18/21

第18話 「ただいま」

1


三月だった。


四月一日には、月城HDの本社ビルではなく、グループ合同でホテルを借りて入社式が行われるらしい。


新入社員たちは、これから三か月の研修を経て、それぞれの配属先へ向かう。

研修を終えた新入社員の中には、最初から地方へ配属される者も少なくない。


異動があるのは、新入社員だけではない。

三月は人事異動の時期でもある。

坂上くんは転勤願を出しているらしいと噂で聞いた。

希望を出していなくても、ある日突然転勤が決まることは、そう珍しくない。


この春、私には今のところそういう話はない。


転勤は免れたけれど、出張までは免れなかった。

きっと、過去に同じような出張を経験していたからだろう。

十日も日本を離れなければならない。


私生活は、特に変わりなかった。

金曜日の夜は冬吾と会って、そのまま日曜日まで一緒に過ごす。

どちらの家に行くかは、そのときの都合で決まるだけだ。


そんなふうに時間を重ねていても、一緒に住もうという話にはならない。

たぶん、今のままでもお互いに困っていないからだと思う。


それでも、私には冬吾がいないと困る。

生活が立ちゆかなくなるわけではない。

ただ、精神衛生上よくない。

それだけのことだ。


そして今日は、金曜日だった。


定時後、私は冬吾のところへ行く。



2


駅前で買い物をして、冬吾にLINEを入れた。

返ってきたのは、いつもより三十分ほど遅くなるという短い返事だった。

どうせ冷蔵庫の中には、大したものは入っていない。


鍵は預かっている。

私の部屋の鍵も、冬吾に預けてある。

今ではもう、勝手知ったる冬吾の家だった。


ずっと置きっぱなしの部屋着に着替えてエプロンをつけた。


時間のかかる料理をするつもりはない。

適当に済ませる。

電子レンジとは、もう友達みたいなものだ。


スーパーで鶏肉が安かった。

何を作るか少し考えて、唐揚げはやめた。

後片付けが面倒だ。


「うん。焼こう」


ガーリックソテーなら、名前だけはかっこいいけれど、要するに焼くだけだ。

あとは袋入りのサラダを出して、冷凍のブロッコリーを電子レンジに任せればいい。


ご飯が炊き上がるころ、冬吾が帰ってきた。


「おかえり」


「ただいま」


それからすぐに、冬吾は私の名前を呼んだ。


「楓」


「なに?」


「会いたかった」


「うん。でも、今は料理中だから」


私だって会いたかった。

けれど、毎回こんな調子なので、もう慣れている。

感動の再会はどうせあとでやる。

今でなくてもいい。


「冷たいな」


そう言って、冬吾は笑ったまま着替えに行った。



ローテーブルを挟んで、床に座ってご飯を食べる。

この家にはダイニングテーブルがない。

うちにもない。

置く場所がないのだから仕方ない。

ひとりで暮らすだけなら、それで困らなかった。


「冬吾」


缶ビールを手渡しながら、私は声をかけた。


「ん?」


「来週、ドイツに出張になった」


冬吾はプルトップにかけた手を止めた。


「いつ?」


「十四日から。十日くらい」


「長いな」


「十日だよ」


「長いだろ」


そう言われて、笑いたくなった。


「寂しい?」


「寂しい」


今日も冬吾は即答だった。


「行くなって言わないんだ」


「言ってほしい?」


「言われても行く」


「じゃあ、言わない」


「でも、嫌?」


「楓に会えないのは嫌だ」


そういうところが、ずるいと思う。

まっすぐで、変に駆け引きもしないくせに、ちゃんと欲しい言葉を置いていく。



3


一週間後の金曜日、冬吾がうちに来た。

明日から出張で、荷物をまとめるためだった。

十日分となると、さすがに荷物も増える。


去年の十月にイタリアへ行ったときは、四泊六日だった。

今回は少し長い。


医療機器の導入に向けて、現地で運用全体の流れまで説明しなければならない。

診断装置だけではなく、地域の医療機関との連携や業務改善まで含めた提案になる。

資料を作るだけでもずいぶん時間がかかった。


支度を終えて、外に食事に出た。

そして夜になって、「感動の再会」をした。




翌朝、荷物を持って冬吾と一緒に玄関を出る。


駅までは五分もかからない。

それでも、階段があるからと言って、冬吾は私の荷物までずっと持ってくれた。

このまま羽田空港まで送るつもりでいる。


「遠いのに、送らなくてもひとりで行けるよ」


「俺が行きたい」


「帰り、ひとりだよ?」


「うん。知ってる」


羽田空港に着いて、チェックインを済ませる。

フランクフルトまでは、十四時間だ。


「最初に会ったときは、成田からイタリアだったね」


「会ったのは飛行機の中」


「細かい」


「十二時間、隣だった」


「長かったね」


「十日も長い」


保安検査場の列に並ぶ前に、冬吾が言った。


「着いたら連絡して」


「冬吾、寝てるよ」


「起きたら見るから」


つないでいた手を離すのが、少し惜しかった。


列が進むたびに、私は何度か振り返った。


最後に振り返ったときも、冬吾はまだ同じ場所に立っていた。



4


ドイツに来てから、冬吾とまともに話せていない。


話せていない、というのも少し違う。

LINEはしている。

毎日している。

ただ、時差のせいで、会話にならないだけだ。


私がホテルに戻って、やっとひと息つく頃、日本はもう朝方だったりする。

寝る前にメッセージを送っても、冬吾にとっては仕事に出る前の時間で、たいてい返事は短い。

逆に、こちらの朝に送れば、向こうはもう昼間で、普通に仕事中だ。


だから、うまく噛み合わない。


それでも送る。


おはよう、とか、今から寝る、とか、そういうどうでもいいことを、いちいち送る。


今夜もホテルのベッドに腰掛けて、私はスマホを見ていた。

シャワーは浴びた。

髪も乾かした。

資料も一応見直した。

もう寝たほうがいい時間なのに、画面を伏せられない。


少し前に送ったメッセージは、既読になっていない。


仕方がない。

日本は明け方だ。


私は諦めて、どうでもいいことをまた打った。


〈ドイツのパン、固い〉


送ってから、くだらないなと思う。

もっと他に送ることはあるだろうに、出てくるのがそれなのだから仕方ない。


けれど十分もしないうちに、返信が来た。


織田冬吾

〈石か?〉


思わず笑ってしまった。


〈そこまでじゃない。 でも毎回ちょっと口の中の水分持っていかれる〉


織田冬吾

〈生きて帰ってこい〉


〈パンで?〉


織田冬吾

〈パンで〉


ベッドの端に座ったまま、息をつく。

こういう、どうでもいい返事ひとつで落ち着く自分がいる。


〈あと歩行者信号が短い。 びっくりするくらい短い。 渡りきる前に赤になる〉


既読はすぐについた。


織田冬吾

〈走れってことだろ〉


〈毎回せかされてる気分になる。旅行者に厳しい〉


織田冬吾

〈楓がのんびりしてるだけじゃないのか〉


〈普通〉


織田冬吾

〈そうか〉


絶対、そう思っていない返事だった。


〈明日は昼に少し空く?〉


織田冬吾

〈たぶん、12時くらいなら〉


〈じゃあ、連絡できるかも〉


できるかも、なのが今の私たちだった。

できる、ではない。

会議が延びるかもしれないし、移動が押すかもしれない。

冬吾だって仕事がある。

同じ国にいないだけでとても難しくなる。


〈できたらする〉


送ると、しばらくしてから返事が来た。


織田冬吾

〈うん 無理なら寝ろ〉


やさしくないようで、やさしい。


私は画面を見ながら、迷ってまた打った。


〈ホテルにスリッパがない〉


今度の返事は早かった。


織田冬吾

〈買えばいいだろ〉


〈今日それに気づいたのが部屋戻ってから。 もう外出たくない〉


織田冬吾

〈靴のまま過ごしてるのか〉


〈そう 落ち着かない〉


織田冬吾

〈子どもか〉


〈繊細と言ってほしい〉


しばらく既読がついたまま、返事が来なかった。

仕事に出たのかもしれないと思った頃、短く届く。


織田冬吾

〈帰ったら好きなだけ脱げ〉


意味はわかるのに、言い方のせいでおかしくて、でもちょっとだけ甘い。

ずるいと思う。


〈日本語が雑〉


織田冬吾

〈伝わればいい〉


〈まあね〉


そこで会話は途切れた。


冬吾は仕事だし、私も寝なければならない。

いつもそうだ。

話せたと思ったら終わる。

電話をするほどの時間は合わないし、合ったとしても、たぶんそんなに劇的な話はしない。


今日食べたものとか、会議が長かったとか、パンが固いとか、信号が短いとか、その程度だ。


でも、その程度の話をしたいと思う。


誰にでも話せるようなことを、冬吾にだけ送りたい。

送って、返事を待って、短い文字を見て安心する。

それができないだけで、思っていたよりずっとつまらない。


スマホを枕元に置いて、ベッドに入る。


もう一度だけ画面を見たら、最後のメッセージが増えていた。


織田冬吾

〈おやすみ 俺は仕事行ってくる〉


たぶん、明日の朝には私は会議中で、すぐには返せない。


〈おやすみ〉

〈いってらっしゃい〉


送ってから、部屋の明かりを消す。


静かなホテルの部屋で目を閉じると、スリッパがないことより、パンが固いことより、信号が短いことより、冬吾と同じ時間にいないことが、いちばん面倒だった。



5


帰国前日、冬吾からLINEが届いた。


織田冬吾

〈帰り、火曜?〉


〈うん。午後に着く〉


織田冬吾

〈迎えには行けないな〉


〈仕事でしょ〉


織田冬吾

〈終わったら行く〉


〈うん〉


そんなやりとりで、気が緩んだ。

帰る場所がある、みたいな顔をした言葉だと思った。


翌朝、私は空港へ向かった。


フランクフルトを発って、日本に着いたのは火曜日の昼だった。

そこから大きなスーツケースを引きずって帰宅したころには、もう夕方になっていた。


玄関で靴を脱いだ瞬間、全身から力が抜けた。

静かな部屋も、見慣れた床も、放り出したままのクッションも、全部がひどく落ち着いた。


スーツケースを部屋の隅に置いて、シャワーを浴びた。

熱い湯を浴びているあいだは少ししゃきっとした気がしたのに、髪を乾かしてベッドに横になったら、すぐにまぶたが重くなった。


時差ボケで頭がぼんやりする。

少しだけ休むつもりだったのに、そのままうとうとしていた。


LINEの通知音で目が覚めた。


枕元のスマホを手探りで取って、画面を見る。


織田冬吾

〈帰った?〉


〈帰った〉


織田冬吾

〈なんか食った?〉


〈まだ〉


織田冬吾

〈買っていく〉


〈うん〉


返事を打って、スマホを胸の上に置く。


迎えには来られないと言っていたのに、〈終わったら行く〉と言っていた通りに来るつもりなのだろう。

そういうところは、最初からぶれない。


眠い。

だるい。

お腹も減っている。

でも、冬吾が来ると思っただけで、部屋の静けさがましになる。


私はベッドの上で寝返りを打って、天井を見た。


ドイツのホテルとは違って、ここにはちゃんとスリッパがある。

パンも固くない。

信号も、あそこまでせわしなくはない。

そういう細かいことを、また冬吾に話すのだろうと思う。


くだらない話ばかりしていたのに、帰ってきたら結局、最初に会いたい相手は冬吾だった。


あと少しだけ横になっていようと思って、目を閉じる。


冬吾は合鍵で入って来るだろうから寝てても構わない。

起きたら、眠そうな顔のまま冬吾を迎えるのだろう。


でもきっと、顔を見たら笑う。



夜に鍵の開く音がした。


ベッドから起き上がって、玄関のほうを見る。


冬吾が、「おかえり」と言った。


「それ、私が言うほうじゃない?」


「今日は楓」


短くそう返されて、私は笑った。


「……ただいま」


冬吾は、まっすぐこっちへ来た。

仕事終わりの少し疲れた顔をしているのに、その足取りに迷いがない。


冬吾は何も言わず、私を抱き寄せた。

背中に腕が回り、強く引き寄せられる。

私も冬吾の背中へ手を回した。


十日ぶりに触れた身体は、記憶にあるまま温かかった。

顔を上げると、冬吾がキスをした。

一度離れて、すぐにもう一度唇が重なる。

離れたところで、私は冬吾を見上げた。


「会いたかった?」


冬吾は呆れたような顔をした。


「仕事終わってすぐ来たんだから、わかるだろ」


「知ってるけど、言って」


こういうのは、わかっていても聞きたい。

言葉にしてほしいだけだ。


冬吾は一瞬黙って、それから素直に言った。


「会いたかった」


その一言で、頭に残っていた時差ボケのだるさが薄れる。


「私も」


そう返したら、やっと帰ってきた気がした。




冬の楓 第18話 「ただいま」 おわり



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