第17話 「いつから」
1
三十一日から実家に帰って、昨日の夕方にはもう自宅に戻っていた。
楓も大みそかに帰ると言っていたのに、結局、元旦に顔を出して日帰りしたらしい。
ひとり暮らしが長くなると、実家は落ち着かない。
そんな話をしていて、俺にはその感じがわかる気がした。
正月二日の今日は、会うことだけ決めて、どこへ行くかも何をするかも決めていない。
待ち合わせの東京駅には、約束の十五分前に着いた。
着いたと知らせるか迷いながら、LINEのトーク画面を開く。
そこで昨日のチャットログが目に入って、俺はひとりで頬がゆるんだ。
〈楓がいないし〉
KAEDE
〈横浜にも冬吾はいなかった〉
あの返事を見たとき、会いたかったのは俺だけじゃなかったのだとわかって嬉しかった。
時計を見て顔を上げると、楓がちょうどこっちへ歩いてくるところだった。
「冬吾」
呼ばれて、俺は軽く手を上げた。
近づいてきた楓へ手を差し出すと、ためらいなく握ってきた。
「どこ行く?」
歩き出しながら、楓が俺を見上げる。
「まだ決めてない」
「昨日、聞いたよね」
「楓だって答えてないだろ」
「冬吾が決めると思ってた」
「とりあえず飯」
「またそれ」
楓は呆れたみたいに笑って、でもつないだ手は離さなかった。
行き先も決まっていないのに、こうして一緒に歩き出しただけで、目的なんかどうでもいい。
街は、初売りの福袋を提げた人や、これから買い物に向かうらしい人でひどく混み合っていた。
「初詣、行く?」
楓がそう言った。
行ってもいいが、神社もきっとかなり混んでいる。
結局、今日はどこへ行っても人ばかりだろう。
「混んでると思う」
「じゃあ、いいか」
昼を食べようにも、まだ十一時だというのに、店の前にはもう列ができていた。
二十分ほどで入れたのは、むしろ運がよかったのかもしれない。
昼食のあとは、そのへんの店をのぞきながら歩いた。
福袋を買うかどうか迷う楓に付き合っていたが、結局、楓は化粧品の入ったものをふたつ買った。
中身そのものに俺は興味がなかったが、何が入っているのか、楓にはだいたい見当がついているらしかった。
しばらく歩いたところで、楓が座りたいと言ったので、近くのカフェに入った。
ここもかなり混んでいたが、楓は慣れた様子でさっさとテーブルを確保していた。
俺はオーダーカウンターの列に並び、楓のカフェラテと自分のコーヒーを注文した。
テーブルは小さく、隣の席との距離も近かったが、それでも座れただけマシだった。
飲み物を持ってテーブルへ戻り、椅子に座ってから、今夜のことを聞いた。
「今日、どっち?」
「うち」
「明日は?」
「冬吾のところ」
「はい」
十六時を過ぎるころには、外はもう暗くなっていて、そろそろ帰るかという流れになった。
何か食べて帰るかと聞いたが、楓はそこまで腹は減っていないらしい。
「帰ってお腹すいたら、なんか適当に作るし」
「一階、コンビニだしな」
何かをきっちり決めなくても、どちらかがひとこと言えば、それで話は済んだ。
気を使って合わせているわけでも、いつも意見が同じなわけでもない。
出会ってまだ三か月しか経っていない。
それでも、楓と何かを決めることは、ひとりで決めるより簡単だった。
2
木場駅で降りて、楓の住むマンションまでは歩いて三分ほどだ。
いつものように、部屋に上がる前に一階のコンビニへ寄る。
楓はまた、アイスケースの前で立ち止まっていた。
楓は、悩んでもよさそうなことほどあっさり決める。
初めて俺が「楓」と呼んだときも、自分も冬吾と呼ぶと言って、ほとんど迷わなかった。
帰国して初めて東京の和食屋で飲んだ帰りも、次はないのかと返したら、「あります」とすぐに言った。
そのくせ、アイスひとつ選ぶのにはやたら時間がかかる。
「まだ決まらない?」
「冬吾、先に上がってていいよ」
「待つよ」
「だって、ほら、見てよ。シャインマスカットとピーチ」
「両方買えばいい」
「いつも買うチョコも捨てがたい」
「三つ買えばいい」
「冷凍庫が小さいから、それはダメって言ったでしょ」
結局、楓はチョコとピーチを選んでいた。
「ふたつ食べるの」
「ひとつは冬吾の分」
「俺が選んでないけど」
「こっちが冬吾」
どうやら、チョコレートのほうが俺の分らしかった。
部屋に上がってこたつに入るころには、楓はさっさとアイスを開けていた。
冷凍庫に入らないとか言っていたくせに、入れる間もなく食べ始めている。
ふたりでアイスを食べながら、楓が実家でのことを話し始めた。
「昨日、母に聞かれたの。今日は誰と約束があるのって」
「なんて言った?」
「友達と出かけるって」
「なんで友達」
「じゃあ、なんて言えばよかったの」
「付き合ってる相手でいいだろ」
そう言うと、楓はスプーンをアイスに刺したまま、じっと俺を見た。
「私たちって、いつから付き合ってるの?」
いつから。
そう聞かれて、俺も一瞬言葉に詰まる。
楓は、俺の顔をのぞき込むようにして聞いた。
「付き合ってないの?」
「いや、付き合ってるだろ」
「いつからかって聞いてるの」
楓が、何か思いついたみたいに続けて言った。
「手をつないだ日?」
「その前から、そういうつもりではいたけど」
「私は聞いてない」
「言ってないから」
「じゃあ、キスした日?」
俺もスプーンをアイスに刺したまま、少し考えた。
「そのときには、もう付き合ってるつもりだった」
「だから、いつから?」
「……わからない」
楓は、こらえきれないみたいに声を立てて笑った。
「冬吾もわからないんじゃん」
いや、待て。
いつからかははっきりしなくても、キスしたときには、楓はもう俺の恋人だと思っていた。
「片桐さんと坂上くんのこと話した日?」
「それだと、キスしたときはまだ付き合ってなかったことになる」
「そうなるね」
「それは違う」
「じゃあ、いつ?」
「だから、わからない」
楓は、まだ笑っていた。
「キスしたあと、うちに来たよね」
「楓が『寄っていく?』って聞いたから」
「あれ、帰るつもりだった?」
「帰るつもりなら、タクシーに一緒に乗ってない」
実際、バーを出たあと、楓を送ると言ったのは俺のほうだった。
大通りでタクシーを拾って、ここまで来た。
マンションの前でタクシーを降りると、楓が当たり前みたいに聞いた。
「寄っていく?」
あのとき俺は、迷わず頷いた。
翌日起きたのは昼前で、ふたりで歩いて昼飯を食いに行った。
またここへ戻って、俺が着替えを取りに帰ると言うと、楓が言った。
「私も行く」
その夜は、楓が俺の部屋で寝た。
「最初から、ずっと一緒にいたんだね」
「そうだな」
「でも、付き合うって言ってない」
「まだ言う?」
「事実でしょ」
俺にとっては、言葉にする前から答えは決まっていた。
「じゃあ、記念日ないの?」
「そんなのいる?」
「あっても、冬吾、忘れそう」
「決まってないものは忘れようがない」
「ずるい」
ずるくないようにするなら、どうすればいいのかと少し考えて、俺は言った。
「初めて会った日でいいんじゃない?」
「飛行機?」
「そこから始まったんだから」
「その日は、まだ他人だった」
「でも、覚えてるだろ」
「記念日を忘れないために、覚えてる日を記念日にするの?」
「合理的だろ」
「ずるい」
くだらない話のはずなのに、いつまでも続けていられる。
半導体素材も、楓が扱う映像機器や医療機器も、日進月歩の世界だ。
普段は、新しい情報を追うだけでも頭を使う。
楓も、たぶん同じなんだろうと思う。
だからなのか、ふたりでいるときくらい、こういうどうでもいい話で夜をつぶせるのが、俺はわりと好きだった。
楓が空になったアイスのカップを、こたつの上に置いた。
その横顔を見ながら、俺はふと思う。
「まだ三か月なんだな」
「何が?」
「楓と会ってから」
楓は少し考えてから、俺を見た。
「短い?」
「逆。もっと前から知ってる気がする」
「飛行機で十二時間も隣にいたからじゃない?」
「それだけじゃない」
「じゃあ、何?」
うまく説明はできなかった。
いつから恋人だったのかも、結局はわからない。
それなのに、こうして同じ部屋にいることは、ずっと前から決まっていたことみたいに思える。
「こうしてるのが、もう普通だから」
楓が俺を見たまま、笑った。
「私も」
俺は手を伸ばして、楓の頬に触れた。
指先に伝わる体温がやわらかくて、胸が静かに熱を持つ。
「何?」
「楓が好きだから」
楓が目を瞬く。
「今まで言ってなかったくせに」
「今言った」
「ずるい」
「そればっかりだな」
そう言うと、楓は声を立てずに笑った。
その笑い方が近くて、もう少し触れたくなる。
「楓は?」
「知らないの?」
「知ってるけど、言って」
楓の手が、頬に触れていた俺の手にそっと重なった。
そのぬくもりに引かれるみたいに顔を寄せる。
「好き」
その声を聞いた瞬間、たまらなくなって、俺は楓にキスをした。
最初は、ゆっくり触れるだけだった。
けれど、重なった唇のあいだから楓がわずかに息を漏らし、俺の指先を握る。
それだけで足りなくなって、もう一度深く口づけた。
何度か唇を重ねて、ゆっくり離れても、楓の手は俺から離れなかった。
次は楓のほうから、ためらいなく唇を重ねてきた。
やわらかく触れたあと、甘えるみたいにもう一度重なって、今度は俺が受け止める。
どちらから始まったのかなんて、やっぱりもう、よくわからなかった。
離れたところで、俺は聞いた。
「寝る?」
「寝る」
3
翌日、目が覚めるともう昼だった。
スマートフォンを見ると、時刻は十一時五十分。
隣では楓がまだ眠っていたが、俺が起きた気配で、ほどなくして目を開けた。
「何時?」
「もう昼」
「お腹空いた」
「起きて最初がそれ?」
「だって昼なんでしょ」
少しかすれた声でそんなことを言う楓に、俺は笑った。
支度をして部屋を出て、駅へ向かう途中のカフェで昼を食べた。
そのあと電車に乗って、今度は俺の家へ向かう。
楓の荷物は、小さなトートバッグひとつだけだった。
それを見て、俺は言う。
「それだけ?」
「冬吾のところにもあるから」
服も日用品も、必要なものはだいたい揃っている。
そうなると、もう泊まりに来るというより、ただ一緒に移動しているだけみたいだった。
電車が動き出してから、楓が言った。
「休みになると、家から家へ移動してるね」
「面倒?」
「少しね。でも楽しい」
「ならいいだろ」
「冬吾は平気?」
「移動は好きだから」
「寝てても目的地に近づくから?」
その言い方で、飛行機の中でした話を思い出した。
移動は嫌いじゃないと俺が言ったら、楓が笑っていた。
「覚えてた?」
「覚えてるよ」
楓がそう言って、少しだけ得意そうに笑う。
「今日は寝ないけど」
「なんで?」
「楓がいるから」
「寝てもいいよ」
そう言うと、楓はすぐにこっちを見た。
「何、その言い方」
「そのままだけど」
「絶対、素直な意味じゃないでしょ」
「どう受け取ったんだよ」
楓は答えずに笑って、俺の腕を軽く叩いた。
大井町駅で降りて、駅前のスーパーに寄る。
そのあと、家まで少し歩いた。
ひとりだと少しある距離に思えるのに、楓と一緒だと、そうでもなかった。
その夜は、楓が俺の部屋に泊まった。
翌日の夕食を食べ終えると、楓は帰る支度を始めた。
その様子を見ながら、俺は言った。
「今日も泊まれば?」
「明日の朝、ここからだと遠い」
「送るけど」
「会社まで?」
「駅まで」
「それじゃ通勤時間は変わらないよ」
「そうだけど」
それ以上は言わなかった。
引き止めようと思えば、たぶん引き止められる。
でも、楓が帰ると決めたなら、それでいいとも思った。
ふたりで駅まで歩いた。
楓と歩く駅までの道は短く感じた。
改札の前で、俺は聞いた。
「金曜は?」
「会う」
「どっち?」
「それは金曜に決めればいいんじゃない?」
「わかった」
「じゃあね」
「うん」
楓が改札を通って、人の流れに紛れていった。
姿が見えなくなるまで、俺はそのまま見ていた。
俺はひとりで駅から戻る。
楓と一緒に歩いたときには短く感じた道が、帰りは少し長かった。
部屋に戻る。
テーブルには、使ったままのグラスがふたつ。
洗面所には楓の歯ブラシも残っていた。
生活に困ることは何もない。
明日からはまた仕事で、金曜になれば楓にも会う。
それでも、俺はスマートフォンを手に取った。
〈着いた?〉
すぐに返事が来る。
〈着いた〉
それを見てから、もうひとつ送る。
〈金曜〉
〈うん〉
困っているわけじゃない。
ただ、楓のいない部屋は、思っていたより静かだった。
冬の楓 第17話 「いつから」 おわり




