エピローグ 「それから」
本日、『冬の楓』最終話です。
楓と冬吾の物語を、最後まで見届けていただけましたら嬉しいです。
1
東京を離れて、二年が過ぎた。
職場にももう馴染んで、こっちでの暮らしがちゃんと日常になっている。
今日は金曜日で、恋人と博多駅で待ち合わせをしていた。
付き合い始めて、まだ半年。
前に好きだった人とは、性格も雰囲気もまるで違う。
でも今回は、好きだと気づいたとき、ちゃんと言葉にした。
年齢のこともある。
仕事のことも、この先のことも、曖昧なままではいられないと思うようになった。
そういうふうに、少しずつ考え方が変わった。
改札の向こうから、手を振りながらこっちへ来る姿が見えた。
「ごめん。待っとった?」
「待った。十分くらい」
「それ、怒っとうと?」
「会いたいって言ったの、俺だから待つよ」
そう言うと、梨沙はふふっと笑って、当たり前みたいに俺の手を握った。
そのまま天神で飯を食うつもりだった。
握られた手を握り返して、俺は聞いた。
「来週の日曜、空いてる?」
「うん。大丈夫」
「じゃあ、会おう」
口に出してしまえば、それで済むこともある。
いまはもう、変に探り合ったりはしない。
会いたければ会いたいと言う。
好きなら、好きだと言う。
織田さん方式だ。
「ねえ、康太。今日、屋台行くっち言いよったやろ」
「うん」
「私が案内しちゃるけん」
「梨沙が知ってるところ?」
「うん。まかして」
得意そうに笑う彼女に手を引かれて、俺たちは中洲のほうへ歩き出した。
あの七年を、なかったことにしたいわけじゃない。
あれはあれで、確かに自分の時間だった。
でももう、あのころとは違う。
いまの俺には、こうして隣で笑う彼女と始まっていく、別の時間がある。
2
公演は大成功のうちに終わった。
張りつめていたものが切れた途端、私は大きく息を吐いた。
舞台袖を抜けて楽屋に入り、椅子に腰を下ろしたところで、すぐにドアが開いた。
入ってきたのは、事務所の担当マネージャーだった。
その手には、見慣れた週刊誌がある。
「美紗さん、また載ってます」
「今度はどなたですか?」
「どなたじゃありませんよ。ご自分のことでしょう」
テーブルに放られた週刊誌へ、私は目だけを向けた。
人気俳優、歌手、共演した演奏家、外国人指揮者。
これまで噂になった相手の名前が、写真つきで並んでいる。
全部が事実というわけではない。
でも、中には本当のこともある。
「先月は、歌手の方でしたよね」
「その方とは、もう終わりました」
「早くないですか?」
「合わなかったので」
私は、誰でもいいから恋をしているわけではない。
好きになったから、お付き合いが始まる。
でも、合わなければ仕方がない。
終わった恋に、いつまでもしがみつくつもりもなかった。
そしてまた心が動けば、私はちゃんと恋をする。
マネージャーは呆れた顔のまま、誌面をこちらへ向けた。
「もう少し、気を付けてください」
「今回は綺麗に撮れていますね」
「そこじゃありませんよ」
「演奏会の記事より大きいですね」
「喜ばないでください」
思わず笑いそうになったとき、テーブルの上に置いていたスマートフォンが震えた。
LINEだった。
〈今日もよかったよ。これから会えない?〉
彼からだ。
返事を打とうとした、その前にマネージャーが釘を刺すように言った。
「今夜は、まっすぐ帰ってくださいよ」
「あ、今予定が入りました」
「今度は誰ですか?」
「まだ、内緒です」
そう答えながら、私はハンガーに掛けてあった着替えを外した。
誰かに選ばれるための恋は、もうやめた。
心が動けば、私は自分からその人を選ぶ。
演奏も、恋も、そのどちらも。
3
玄関のドアを開けた途端、楽しそうな笑い声が聞こえた。
楓の声だ。
客でも来ているのかと思ったが、玄関にはそれらしい靴がない。
リビングへ入ると、楓がスマートフォンを耳に当てたまま、くるりと振り向いた。
「あ、帰ってきた。じゃあ、あさって」
声が弾んでいる。
俺に向けるのとは少し違う、よそいきでもない、けれど機嫌のいい声だった。
「ええ、十一時。はーい」
そこでようやく通話が切れた。
楓は何事もなかったみたいな顔で、俺を見る。
「おかえり」
ずいぶん機嫌がいい。
その理由を知らないのは、たぶん俺だけだ。
「誰?」
「電話? お義母さん」
一瞬、意味がわからなかった。
お義母さん。
つまり、俺の母親だ。
楓は、自分の母親をママと呼ぶ。
「なんで」
「なんでって、よく話すけど?」
そんなの、聞いていない。
「聞いてない」
「言ってないから」
悪びれもせず言う楓に、返す言葉が遅れた。
知らなかったのが俺だけみたいで、落ち着かない。
「あさって何?」
「お義母さんとランチ」
また、知らない予定が増えている。
「聞いてない」
「今、言った」
さらっと言って、楓はスマートフォンをテーブルに置いた。
たしかに今聞いた。
でも、そういうことじゃないだろうと思う。
俺の母親なのに。
どうして俺の知らないところで、楓と母さんが気安く予定を決めている。
「何、笑ってたんだよ」
そう聞くと、楓はスマートフォンを見たまま、肩を揺らした。
「お義母さんに、冬吾の小さいころの写真送ってもらったの」
「見せて」
「やだ」
即答だった。
楓は楽しそうに画面を覗き込んだまま、また笑う。
その顔を見ていると、ますます気になる。
俺の知らないところで、俺の昔の話をされていたことにも少し引っかかるし、何より、楓だけがその写真を見て笑っているのが面白くない。
「小さい冬吾、かわいい」
「……今は?」
そう返すと、楓が顔を上げた。
口元はまだ笑っている。
「今も……まあ」
「まあ?」
聞き返すと、楓はごまかすみたいにまたスマートフォンへ視線を落とした。
相変わらず、どうでもいい話をしている。
どうでもいいはずなのに、楓が笑っているだけで、その場の空気はやわらかくなる。
そんな時間を、俺は嫌いじゃない。
楓は写真を見ながら、ふと言葉に出した。
「小さい冬吾、見てみたい」
俺に似た子が欲しいってことか。
「じゃあ、今日作る?」
楓が顔を上げた。
唇を薄く開けて、目は俺を見ている。
「今日?」
「今日」
冬の楓 エピローグ 「それから」 おわり
『冬の楓』を最後までお読みいただき、ありがとうございました。
国際線の機内で偶然隣り合わせた楓と冬吾。
フィレンツェで再会し、東京へ戻ってからも、ふたりは短い時間のなかで急速に惹かれ合っていきました。
迷いながら少しずつ近づく恋ではなく、「この人なのだ」と気づいてしまった大人ふたりの恋を書きたくて始めた物語です。
ふたりの時間を最後まで見届けてくださったこと、心より感謝いたします。
本当にありがとうございました。
次回作は、社会人恋愛小説『蒼い雨』です。
夜の店「白夜」で、“紫乃”として働く三十歳の美雨。
ある夜、十五年ぶりに再会したのは、かつて心を残したまま別れた初恋の人、蒼真でした。
今の自分を知られたくない美雨と、過去の思い出ではなく、目の前にいる彼女を知ろうとする蒼真。
『蒼い雨』は、初恋との再会をきっかけに、それまでの自分を否定することなく、新しい人生を選び直していく女性の物語です。
引き続き、お付き合いいただけましたら嬉しいです。
次回作『蒼い雨』は、10月19日(月)午前9時より連載を開始します。




