第15話 「共鳴」
1
部屋のカーテンを開けたら、背の高いケヤキの葉は、もうすっかり落ちてしまっていた。
枝だけになった木を見上げて、冬が来たのだと思う。
冬。
その言葉を頭の中で転がして、不意に冬吾さんのことを思った。
冬吾さんは、冬生まれなのだろうか。
そんなことも、私は知らない。
よく考えたら、私はあの人のことを、ほとんど何も知らなかった。
これまで何度か食事を一緒にしたのに、話していたのは、いつも私のことばかりだった気がする。
楽器のこと。
稽古のこと。
次の公演のこと。
冬吾さんの仕事の話を聞きたいと思っても、あの人はいつも、そんな話をしてもおもしろくないからと、やんわり笑って終わらせてしまった。
あのときは、それでもよかった。
聞かせたくないこともあるのだろうと、勝手に都合よく思っていた。
でも今になってみれば、ただ私が、踏み込ませてもらえていなかっただけなのかもしれない。
もう、これから先は、自分の話をする機会もないのだろうと思う。
十一月のヴェルティア公演から三週間。
私は冬吾さんと連絡を取っていない。
もともと、私が送らなければ、あの人から連絡が来ることなんてなかった。
それでも私は、記憶が薄れてしまう前にと、何度も自分から誘ってきた。
出張だと聞けば挨拶のメッセージを送って、公演があれば案内を送って。
細い糸でもいいから、切れないようにつないでいたかった。
けれど、もうそんなことをしても、きっと意味はない。
何度かLINEのトーク画面を開いて、時間があるかどうかだけでも聞こうとした。
短い文なら送れる気がした。
お疲れさまです、でもいい。
お元気ですか、でもいい。
それなのに、途中まで打っては消して、また閉じることを繰り返すばかりだった。
断られるのが怖いわけじゃない。
たぶん私は、もう知ってしまったのだ。
断られる理由を。
レセプションルームで見た冬吾さんは、私の知っている人ではなかった。
少なくとも、私の前にいるときのあの人とは違っていた。
「楓」と彼女の名を呼ぶ声、ふたりで並んで立つその空気。
食事に行こうとその場で決める自然な流れ。
楓さんを見る目が、あまりにもやさしかった。
甘くて、静かで、迷いがなくて。
ああいう目をする人なのだと、そのとき初めて知った。
私には、一度も向けられなかった目だった。
それを知ってしまったら、もう前みたいに無邪気ではいられない。
知らなかったころには戻れない。
冬の枝みたいに、余計なものはみんな落ちてしまって、残ったものだけが、いやにはっきり見えてしまう。
窓の外で、風が枝を揺らしていた。
私は指先でトーク画面を閉じて、スマートフォンを伏せる。
冬が来たんだと思った。
木々にも、私にも。
きっともう、同じ季節には戻れないのだと、そんなことまで思ってしまった。
2
私には、半年という月日があったのに。
それなのに、何ひとつ届かなかった。
いったい、何が足りなかったのだろう。
服装だろうか。
楓さんみたいに、洗練されていて、いかにも大企業の最前線で働く女性らしい雰囲気があれば違ったのだろうか。
私の選ぶ服は、舞台の外では無難で、たぶん印象にも残りにくい。
話し方だろうか。
楓さんは、思ったことをまっすぐ口にしていた。
ためらいがなくて、相手との距離を怖がらない人だった。
ああいうふうに振る舞えたなら、何か変わっていたのだろうか。
それとも、もっと頻繁に誘っておけばよかったのだろうか。
遠慮なんてしないで、もう少し強く、わかりやすく、私が会いたいと思っていることを伝え続けていたら。
違っているなら直せばいい。
足りないなら埋めればいい。
私はずっと、そういうふうにしてきた。
そうやって少しずつ前に進むものだと、思っていた。
でも、たぶんそういうことではなかったのだ。
私は、そのやり方しか知らなかった。
足りないものを探して、見つけて、直していくこと。
うまくいかない理由を考えて、次は間違えないようにすること。
けれど恋愛は、きっと稽古みたいにはいかない。
正しいやり方を覚えたからといって、同じように報われるものではないのだろう。
そう思ってしまったら、急に苦しくなった。
半年あった。
半年もあった。
それでもだめだったという事実だけが、冷たく胸の中に残った。
3
楽器を手に取って、エチュードを弾く。
音がうまく鳴らなければ、何度だってやり直す。
指の角度を変えて、弓の速さを調整して、耳に引っかかる響きがなくなるまで繰り返す。
そうすれば、少しずつでも、納得のいく音に近づいていける。
でも、冬吾さんに対しては、次に何を努力すればいいのかわからなかった。
もっと話しかければよかったのか。
もっと自然に笑えればよかったのか。
もっときれいな服を選んで、もっと軽やかに、相手の懐に入っていけたなら違ったのか。
考えても、答えはどこにもなかった。
楓さんのようになればいいのかとも思う。
思ったことをためらわずに口にして、相手の目をまっすぐ見て、自分のいる場所を迷いなく選べる人に。
でも、それはもう私ではない。
私は、楓さんになりたいわけじゃない。
楓さんから冬吾さんを取り返したいわけでもない。
そんなふうに誰かと競いたいわけでは、たぶん最初からなかった。
では、何なのだろう。
ただ私は、冬吾さんのそばにいたかった。
あの人にとって気楽に会える相手でいたかった。
私と過ごす時間を、心地いいと思ってほしかった。
それだけだったはずなのに、気づけば私は、足りないものを探してばかりいる。
自分の気持ちだけが、行き場をなくして浮き上がっていく。
どこにも置けないまま、胸の内側で頼りなく揺れている。
音なら、外に出せる。
形にして、響かせることができる。
でもこの気持ちは、どこへも届かない。
弓を持つ右手を止めると、部屋の静けさが急に広がった。
弓を置いて、私はスマートフォンを手に取った。
LINEのトーク画面を開く。
何度も閉じては開いた画面に、今度こそ文字を打ち込む。
〈一度だけ、お時間をいただけませんか〉
送信ボタンを押したあとで、息を止めていたことに気づいた。
これを最後にするつもりだった。
返事が来ても来なくても、もうこれ以上、自分から追いかけるのはやめようと思っていた。
しばらくして、画面が光る。
織田冬吾
〈わかりました〉
〈来週の水曜日なら、19時から1時間くらい時間をとれます〉
その文を見た瞬間、胸の奥が揺れた。
会える。
その事実に、まずほっとした。
でも次の瞬間には、別の冷たさがゆっくり広がっていく。
これまでなら、食事でもしましょうか、だったかもしれない。
けれど今回は、十九時から一時間くらい。
まるで予定表の空白を切り分けるみたいな、きっちりとした言葉だった。
私はその一文を、何度も見返した。
断られてはいない。
ちゃんと時間をくれる。
たぶん私は、会えるかどうかだけじゃなくて、会いたいと思われているかどうかを、知りたかったのだ。
指先が少しだけ冷えていた。
それでも、返事を返さないわけにはいかない。
〈ありがとうございます〉
短い文字を送ってから、私はしばらくその画面を閉じられなかった。
4
水曜日の十九時、パレスホテルのロビーで待ち合わせた。
先に来ていた冬吾さんに促されて、一階のラウンジに入る。
冬吾さんはいつものようにコーヒーを頼み、私はサラトガクーラーを注文した。
ライムの酸味をジンジャーエールで割った、少しだけ強い味のするノンアルコールのカクテルだ。
「今日は、わざわざお時間をとっていただいて、ありがとうございます」
そう言うと、冬吾さんは少し硬い表情のままうなずいた。
やがて飲み物が届き、私はグラスに口をつける。
「珍しいですね」
「何がですか?」
「片桐さんは、いつも温かい飲み物を頼んでいることが多かったので」
「クーラー、好きなんです」
「そうでしたか」
私はそのまま、静かに言った。
「知らなかったでしょう?」
冬吾さんは少し考えるような顔をしてから、ぽつりと言った。
「今日、ちょっと雰囲気が違いますね」
「変ですか?」
「変ではないですけど、俺の知ってる人ではない気がします」
私はグラスを置いた。
細い水滴が、コースターに丸くにじんでいく。
「冬吾さんの知ってる私って、どんなイメージですか?」
「そうですね。上品で綺麗で、落ち着いてて、ヴァイオリンがすごい人」
思わず、自嘲気味に笑ってしまった。
すぐに返ってきたその言葉は、全部褒め言葉だった。
けれど、公演のたびに誰もが口にするものと何も変わらない。
数回とはいえ食事をして、二時間ほど向き合って話したこともあるのに、それでも私は、その程度の輪郭しか持てなかったのだと思い知らされる。
たぶん私自身が、そういうふうに見せてきたのだ。
素顔を差し出すより、少しでも好意を持ってもらえそうな私を、丁寧に選んで並べていたのかもしれない。
「今日、お会いしたかった理由、たぶんわかっていますよね」
そう言うと、冬吾さんは静かにうなずいた。
「ええ、たぶん」
私は一度だけ息を整えてから、言った。
「私、冬吾さんが好きです」
ほんの少し間があって、冬吾さんは視線を落とした。
「……そうなんだろうなとは、思ってました」
その答えに、私は少しだけ笑ってしまった。
そんなにわかりやすかったのかと思うと、情けないような、可笑しいような気持ちになった。
「やっぱり気づいていたんですね」
「確信なんてありません。何も言われていないのに、それを前提に俺が何か言うのも、おかしいでしょう」
そう言って、冬吾さんはカップを皿の上に戻した。
小さな音が、妙にはっきり耳に残る。
「だから、誘われても断るようにしました」
その言葉で、これまでのやり取りが胸の中でひとつにつながった。
代わりの日を示さない返信は、この人なりの答えだったのだ。
「じゃあ、どうして最初は会ってくださったんですか?」
聞かずにはいられなかった。
冬吾さんはちょっと考えてから、まっすぐに言った。
「最初は、何度か会ううちに、俺もあなたを好きになるかもしれないと思っていました」
最初から可能性がまったくなかったわけではない。
その事実は、かえって残酷だった。
半年という時間のどこかに、分かれ道のようなものがあったのではないかと、どうしても考えてしまうからだ。
けれど、そうではないのだろう。
私は間違ったわけではない。
冬吾さんが、私を騙していたわけでもない。
ただ、恋にならなかった。
そのことが、どうしようもなく重かった。
「そうですか……」
それしか言えなかった。
そう考えてしまう自分が、まだ惨めでいやだった。
冬吾さんが、膝に置いた左手へちらりと目を落とした。
シャツの袖口からのぞく腕時計を見たのかもしれない。
時間を気にしているのだろうか。
もしかしたら、このあと楓さんとの約束でもあるのかもしれない。
それでも、ここで終わらせるには、どうしてもひとつだけ知りたかった。
「楓さんの、どこが好きなんですか?」
言った瞬間、冬吾さんの肩がわずかに揺れた。
冬吾さんはすぐには答えず、言葉を探すように少し黙った。
「……打てば響くっていうか」
「打てば響く?」
聞き返すと、冬吾さんは困ったようにわずかに眉を寄せた。
「どう言えばいいか、よくわからないですけど。俺が何か言うと、予想外の言葉が返ってくるんです。でも、嫌じゃない。心地いいというか……響くんですよ」
その言い方が、胸に残った。
私はたぶん、響かなかったのだ。
きれいに受け答えすることや、相手に合わせて穏やかに返すことばかり考えていたのかもしれない。
「……共鳴する、ということですか?」
自分でも驚くほど静かな声でそう言うと、冬吾さんは表情をやわらげた。
「ああ、たぶん、それです」
共鳴。
その言葉は、私にはあまりにもわかりやすかった。
同じ空気に触れただけでは足りない。
片方が鳴ったとき、もう片方の中でも自然に音が震えること。
私は音楽ではそれを知っているのに、恋では最後までわからなかったのだと思った。
上手い演奏家を集めたからといって、必ずいいアンサンブルになるわけではない。
技術がある。
音程も正しい。
テンポも合っている。
外から見れば、きっと十分に整っている。
それでも、なぜか響かないことがある。
逆に、たった一音合わせただけで、この人とは合うとわかることもある。
無理に揃えようとしなくても、呼吸の置き方や音の受け取り方が自然に重なる。
そういう相手がいることを、私は知っている。
それは楽器も同じだ。
同じ腕で弾いても、楽器によって返ってくる音は違う。
こちらの力をそのまま受け止めて、思いがけないほど豊かに返してくるものもあれば、どれだけ丁寧に触れても、最後までどこか噛み合わないものもある。
努力で近づけられるものは、たくさんある。
技術も、表現も、距離の詰め方だって、きっとそうだ。
でも、共鳴だけは違う。
それは、正しく積み重ねた人間から順番にもらえるものではない。
私が楓さんに劣っていたわけではない。
ただ、冬吾さんの中で鳴るものに、私の音は響かなかった。
それだけなのだと、やっとわかりはじめていた。
「……なんだか、ずるいですね」
「俺がですか?」
「いいえ。努力してどうにかなるのなら、まだ楽だったんですけど」
そう言って、私は笑った。
せめてきれいに見せたかった。
冬吾さんが最後に見る私の顔が、少しでも穏やかで、美しくあればいいと思った。
「冬吾さん」
「はい」
「楓さんと、必ず幸せになってください」
冬吾さんは、息を止めたように見えた。
それから静かに、「……はい」と答える。
「必ずですよ」
自分でも驚くほど、声は落ち着いていた。
冬吾さんは何も言わず、ただじっと私を見ていた。
「……そうでないと、私がかわいそうすぎます」
冗談みたいに言ったのに、喉の奥が熱かった。
私はそのまま席を立った。
「……はい」
その返事を背中で聞きながら、ホテルの正面玄関を抜ける。
冷たい外気に触れた瞬間、ようやく呼吸ができた気がした。
タクシーに乗って行き先を告げ、背もたれにもたれる。
流れていく夜の灯りをぼんやり見ていたら、膝に置いた手の甲へ、涙がひとつ、静かに落ちた。
冬の楓 第15話 「共鳴」 おわり




