↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
冬の楓  作者: mamio


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
14/21

第14話 「和音」

1


あの日から、ずっと考えていた。


社員ラウンジで、和倉が言った。


もう、ふたりで飲みに行くのはやめようと思ってると。


それだけじゃない。

彼女は、織田さんが好きだとも言った。


同じ会社にいる以上、これからも顔を合わせることはある。

廊下ですれ違うこともあるし、仕事でまったく関わらなくなるとも限らない。


けれど、和倉の態度は少しも変わらなかった。

露骨に避けることもない。

気まずさを隠しきれずに目をそらすこともない。

今日だって廊下で会ったとき、いつもと同じように軽く会釈して、そのまますれ違った。


変わったのは、定時後に気軽に誘えなくなったことだけだ。

それ以外は、本当に何も変わらない。


だから、このままでいいんだと思う。

時間が過ぎれば、いずれ元の同僚に戻っていける。

自分の気持ちを整理したいだけで、彼女を困らせる必要なんてない。


答えは、もう出ている。


出ているはずなのに、和倉を見かけるたびに考えてしまう。


この人は、俺が好きだったことを知らない。


俺は一度だって自分の口で言わなかった。


言わなかったから、なかったことになるわけじゃない。

言わなかったから、傷つかずに済んだわけでもない。


ただ、言わなかったことで、和倉を困らせずに済んだ。

そう思うしかない。


たぶん俺は、最後まで優しいふりをして、 ほんとうは、自分が拒まれる瞬間を見るのが怖かっただけなんだろう。



2


あの、社員ラウンジで和倉と話してから、数日が経っていた。


定時後、エレベータホールに向かっていると、和倉が向かい側から歩いてくるところだった。

少し迷った。

でも、そのまま通り過ぎたら、たぶん俺はまた何も言えなくなる気がした。


「和倉」


声をかけると、彼女は足を止めた。


「ん? なに?」


「ちょっと時間ある?」


一瞬、迷ったような顔をしたあとで、和倉はうなずいた。


「……あるけど」


その間に、彼女が何を思ったのかはわからない。

これ以上、何の話があるんだと思ったのかもしれないし、これから俺が何を言うつもりなのか、もう察していたのかもしれなかった。


「上、行かない?」


和倉は何も言わず、俺のあとについてきた。


エレベーターに乗って、十五階のボタンを押す。

数字が上がっていくあいだ、狭い箱の中には気まずい沈黙だけがあった。


昼間とは違って、定時後の社員ラウンジは人が少ない。

奥まった隅の席へ促すと、和倉もおとなしく腰を下ろした。


向かい合って座ったのに、すぐには言葉が出てこなかった。

ここまで来ておいて、何から口にすればいいのかもわからない自分が情けない。

仕方なく、自嘲するみたいに笑って言った。


「この前もここだったな」


「うん」


短い返事が返ってくる。


「あのとき、言えなかったから」


和倉はうつむき加減だった顔を上げて、まっすぐ俺を見た。

俺が何を話そうとしているのか、たぶんもうわかっている。

その目を見たら、余計に喉が詰まりそうになった。


それでも、もう逃げるのはやめようと思った。


「俺さ、和倉のこと、好きだった」


言った瞬間、胸の奥に引っかかっていたものが、少しだけ形を持った気がした。

今さらだ。

そんなこと、自分でもわかってる。


和倉は驚いた顔をしなかった。


「……うん」


その返事で、少しだけわかった気がした。


「知ってた?」

「ああ、この前、ここで話してわかった?」


和倉は首を横に振った。


「もっと前から」

「知ってたっていうより、そうかもしれないって思ってた」


感づいていた、ってことか。


「じゃあ、なんで俺と飲みに行ってたの」


責めるつもりなんかなかった。

それなのに、言葉は勝手に口をついて出た。


和倉は困ったように眉を下げた。


「楽しかったから」

「坂上くんと飲みに行くの、普通に楽しかった」

「好きだって言われたわけでもなかったし、私も本当にそうなのかは、わからなかったから」


「気づいてたのに?」


自分でも、嫌な聞き方だと思った。


「そうかもしれないって思うしかないでしょ」

「でも、それだけで私のほうから、私のこと好きなのって聞くのも変だし」

「違ったら、それこそ気まずいし」

「冬吾のことが好きだって、自分でちゃんとわかるまでは、坂上くんと飲みに行くのをやめようとも思ってなかった」


そうか。


俺はずっと、和倉の気持ちが自分に向くのを待っていた。

和倉が俺だけを見てくれていると感じたら、そのとき言おうと思っていた。

確信が持てたら、そこでようやく動こうとしていた。


でも、和倉は俺の気持ちに薄々気づいていた。


気づいていてもなお、俺だけを見ることはなかった。


その事実が、思っていたよりずっと静かに、深く刺さった。



3


「一年くらい前からかな」

「もっと前からかもしれないけど」


そう言ってから、自分でも少し遅すぎると思った。

和倉を好きだった時間を、こんなふうに初めて本人に伝えている。


和倉は何も言わず、ただ俺を見ていた。


「いまさら言っても、何も変わらないのはわかってる」

「織田さんじゃなくて、俺を選んでほしいとか、そういうんじゃない」

「ただ……」


そこまで言って、声が詰まった。


情けないと思う。

ここまで来ておいて、まだ言葉にするのに手間取っている。


それでも、もう黙ったままで終わるのは嫌だった。


「俺が和倉を好きだったことくらいは、知っててほしかった」


言い切ると、喉の奥に引っかかっていたものが、落ちた気がした。

楽になったわけじゃない。

ただ、もうごまかせなくなっただけだ。


「うん」

「……ごめん。ありがと」


和倉の声は静かだった。


「それは、まぁ、仕方ない」


できるだけ軽く言ったつもりだった。

でも、たぶん少しも軽くは聞こえていない。


仕方ない。

そんなこと、最初からわかっていた。


わかっていたのに、こうしてちゃんと傷ついている自分が、どうしようもなく間抜けだった。


それでも、言えてよかったと思うしかない。


言わないまま、なかったことみたいに終わらせるよりは。

ちゃんと駄目だったんだと、自分で認めるほうがまだましだった。


和倉は何か言いかけて、でも結局、口を閉じた。

その沈黙に救われた気もしたし、きついとも思った。


たぶん今の俺には、慰めの言葉も優しすぎる言葉も、どっちも痛い。


だから俺は、息を吐いて笑った。


「これで、やっと諦めつくかも」


自分で言っておいて、すぐには無理だとわかった。

たぶん、しばらくは顔を見るたびに思い出す。

廊下ですれ違うだけでも、今日のことを何度も反芻するんだろう。


それでも、言葉にしたことで、ようやく終わりの形だけはできた気がした。



4


少し笑ったことで、張っていた空気がわずかに緩んだ。


「織田さんの、なにがそんなにいいの」


和倉が目を丸くする。


「なにそれ」


「いや、聞いてみたい」


半分は嫉妬だった。

もう半分は、ただ知りたかった。

自分と何が違ったのか。


七年を知っている俺じゃなくて、まだ二か月にも満たない織田さんだった理由を。


和倉はすぐには答えず、少し考えるように視線を落とした。


「うまく言えないけど、響くの」


「響く?」


「うん。打てば響く、っていうか」


「なにそれ」


思わずそう返すと、和倉は笑った。

自分でも言葉を探しながら話しているみたいだった。


「坂上くんと合わないわけじゃないの」

「むしろ、合うと思う」


俺は黙って聞いていた。


「私がドの音を投げたら、坂上くんもドを返してくれる感じ」

「ミならミが返ってくる」

「だから、安心するし、楽なんだと思う」


「それ、悪くないじゃん」


「うん。悪くない」


その違いが、まだうまくわからなかった。


「でも、冬吾は、私がドを投げたらミとかソが返ってくるの」


「全然違うじゃん」


「違うんだけど、合うの」


和倉は、また笑った。


「なにが返ってくるかわからないのに、重なると気持ちいいっていうか」

「違う音なのに、ちゃんとひとつになる感じ」

「……和音みたいな」


全部わかったわけじゃない。

ただ、ひとつだけははっきりした。


俺と和倉は、合わなかったわけじゃない。

それでも、織田さんといるときの和倉には、俺といるときにはなかった何かがある。


たぶん俺は、その場所には入れなかった。


「じゃあ、俺はドしか返してなかった?」


和倉は少し考えるような顔をしてから、首を横に振った。


「ドだけじゃないけど」


「じゃあ、なに」


「たまにレ?」


「隣の音か」


思わずそう返すと、和倉がくすっと笑った。

つられて俺も笑う。


その一瞬だけ、昔みたいだった。


気を遣わずに話せて、くだらないことで笑えて、変に構えなくていい空気があった。

たぶん、俺が好きだったのは、こういう時間ごとだったんだと思う。


もちろん、だからって元通りになれるわけじゃない。

さっき告げた言葉も、和倉が返した気持ちも、なかったことにはならない。


それでも、七年積み重ねてきたものまで、全部だめになるわけじゃないんだと思えた。


好きだったことも。

報われなかったことも。

一緒にいて楽しかったことも。


どれかひとつだけが本当だったわけじゃない。


うまくいかなかったからって、過ごしてきた時間まで嫌なものにしなくていい。

そう思えたのは、たぶん和倉が最後まで、和倉のままでいてくれたからだ。


笑ったあとの静かな空気の中で、俺はふぅっと息を吐いた。


ちゃんと終わるって、全部失くすことじゃないのかもしれない。


そう思ったら、いくらか救われた気がした。



5


ふたりでラウンジを出て、一階まで一緒に降りた。

玄関まで来たところで、俺は足を止めて和倉に手を振る。


「じゃあ、また明日」


「うん。明日ね」


明日になれば、また会社で顔を合わせる。

駅まで一緒に歩くこともできた。

けれど、今はその先までついていかないほうがいい気がした。

和倉はたぶん、ひとりで帰りたいだろうと思ったからだ。


遠ざかっていく背中を、俺はその場でしばらく見送った。

姿が見えなくなってから、自分も歩き出す。


俺は、彼女が好きだった。

たぶん、まだしばらくは好きなままだ。


でも、その気持ちはもう伝えてしまった。

だから、もう言い残したことはなかった。




冬の楓 第14話 「和音」 おわり



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。