第14話 「和音」
1
あの日から、ずっと考えていた。
社員ラウンジで、和倉が言った。
もう、ふたりで飲みに行くのはやめようと思ってると。
それだけじゃない。
彼女は、織田さんが好きだとも言った。
同じ会社にいる以上、これからも顔を合わせることはある。
廊下ですれ違うこともあるし、仕事でまったく関わらなくなるとも限らない。
けれど、和倉の態度は少しも変わらなかった。
露骨に避けることもない。
気まずさを隠しきれずに目をそらすこともない。
今日だって廊下で会ったとき、いつもと同じように軽く会釈して、そのまますれ違った。
変わったのは、定時後に気軽に誘えなくなったことだけだ。
それ以外は、本当に何も変わらない。
だから、このままでいいんだと思う。
時間が過ぎれば、いずれ元の同僚に戻っていける。
自分の気持ちを整理したいだけで、彼女を困らせる必要なんてない。
答えは、もう出ている。
出ているはずなのに、和倉を見かけるたびに考えてしまう。
この人は、俺が好きだったことを知らない。
俺は一度だって自分の口で言わなかった。
言わなかったから、なかったことになるわけじゃない。
言わなかったから、傷つかずに済んだわけでもない。
ただ、言わなかったことで、和倉を困らせずに済んだ。
そう思うしかない。
たぶん俺は、最後まで優しいふりをして、 ほんとうは、自分が拒まれる瞬間を見るのが怖かっただけなんだろう。
2
あの、社員ラウンジで和倉と話してから、数日が経っていた。
定時後、エレベータホールに向かっていると、和倉が向かい側から歩いてくるところだった。
少し迷った。
でも、そのまま通り過ぎたら、たぶん俺はまた何も言えなくなる気がした。
「和倉」
声をかけると、彼女は足を止めた。
「ん? なに?」
「ちょっと時間ある?」
一瞬、迷ったような顔をしたあとで、和倉はうなずいた。
「……あるけど」
その間に、彼女が何を思ったのかはわからない。
これ以上、何の話があるんだと思ったのかもしれないし、これから俺が何を言うつもりなのか、もう察していたのかもしれなかった。
「上、行かない?」
和倉は何も言わず、俺のあとについてきた。
エレベーターに乗って、十五階のボタンを押す。
数字が上がっていくあいだ、狭い箱の中には気まずい沈黙だけがあった。
昼間とは違って、定時後の社員ラウンジは人が少ない。
奥まった隅の席へ促すと、和倉もおとなしく腰を下ろした。
向かい合って座ったのに、すぐには言葉が出てこなかった。
ここまで来ておいて、何から口にすればいいのかもわからない自分が情けない。
仕方なく、自嘲するみたいに笑って言った。
「この前もここだったな」
「うん」
短い返事が返ってくる。
「あのとき、言えなかったから」
和倉はうつむき加減だった顔を上げて、まっすぐ俺を見た。
俺が何を話そうとしているのか、たぶんもうわかっている。
その目を見たら、余計に喉が詰まりそうになった。
それでも、もう逃げるのはやめようと思った。
「俺さ、和倉のこと、好きだった」
言った瞬間、胸の奥に引っかかっていたものが、少しだけ形を持った気がした。
今さらだ。
そんなこと、自分でもわかってる。
和倉は驚いた顔をしなかった。
「……うん」
その返事で、少しだけわかった気がした。
「知ってた?」
「ああ、この前、ここで話してわかった?」
和倉は首を横に振った。
「もっと前から」
「知ってたっていうより、そうかもしれないって思ってた」
感づいていた、ってことか。
「じゃあ、なんで俺と飲みに行ってたの」
責めるつもりなんかなかった。
それなのに、言葉は勝手に口をついて出た。
和倉は困ったように眉を下げた。
「楽しかったから」
「坂上くんと飲みに行くの、普通に楽しかった」
「好きだって言われたわけでもなかったし、私も本当にそうなのかは、わからなかったから」
「気づいてたのに?」
自分でも、嫌な聞き方だと思った。
「そうかもしれないって思うしかないでしょ」
「でも、それだけで私のほうから、私のこと好きなのって聞くのも変だし」
「違ったら、それこそ気まずいし」
「冬吾のことが好きだって、自分でちゃんとわかるまでは、坂上くんと飲みに行くのをやめようとも思ってなかった」
そうか。
俺はずっと、和倉の気持ちが自分に向くのを待っていた。
和倉が俺だけを見てくれていると感じたら、そのとき言おうと思っていた。
確信が持てたら、そこでようやく動こうとしていた。
でも、和倉は俺の気持ちに薄々気づいていた。
気づいていてもなお、俺だけを見ることはなかった。
その事実が、思っていたよりずっと静かに、深く刺さった。
3
「一年くらい前からかな」
「もっと前からかもしれないけど」
そう言ってから、自分でも少し遅すぎると思った。
和倉を好きだった時間を、こんなふうに初めて本人に伝えている。
和倉は何も言わず、ただ俺を見ていた。
「いまさら言っても、何も変わらないのはわかってる」
「織田さんじゃなくて、俺を選んでほしいとか、そういうんじゃない」
「ただ……」
そこまで言って、声が詰まった。
情けないと思う。
ここまで来ておいて、まだ言葉にするのに手間取っている。
それでも、もう黙ったままで終わるのは嫌だった。
「俺が和倉を好きだったことくらいは、知っててほしかった」
言い切ると、喉の奥に引っかかっていたものが、落ちた気がした。
楽になったわけじゃない。
ただ、もうごまかせなくなっただけだ。
「うん」
「……ごめん。ありがと」
和倉の声は静かだった。
「それは、まぁ、仕方ない」
できるだけ軽く言ったつもりだった。
でも、たぶん少しも軽くは聞こえていない。
仕方ない。
そんなこと、最初からわかっていた。
わかっていたのに、こうしてちゃんと傷ついている自分が、どうしようもなく間抜けだった。
それでも、言えてよかったと思うしかない。
言わないまま、なかったことみたいに終わらせるよりは。
ちゃんと駄目だったんだと、自分で認めるほうがまだましだった。
和倉は何か言いかけて、でも結局、口を閉じた。
その沈黙に救われた気もしたし、きついとも思った。
たぶん今の俺には、慰めの言葉も優しすぎる言葉も、どっちも痛い。
だから俺は、息を吐いて笑った。
「これで、やっと諦めつくかも」
自分で言っておいて、すぐには無理だとわかった。
たぶん、しばらくは顔を見るたびに思い出す。
廊下ですれ違うだけでも、今日のことを何度も反芻するんだろう。
それでも、言葉にしたことで、ようやく終わりの形だけはできた気がした。
4
少し笑ったことで、張っていた空気がわずかに緩んだ。
「織田さんの、なにがそんなにいいの」
和倉が目を丸くする。
「なにそれ」
「いや、聞いてみたい」
半分は嫉妬だった。
もう半分は、ただ知りたかった。
自分と何が違ったのか。
七年を知っている俺じゃなくて、まだ二か月にも満たない織田さんだった理由を。
和倉はすぐには答えず、少し考えるように視線を落とした。
「うまく言えないけど、響くの」
「響く?」
「うん。打てば響く、っていうか」
「なにそれ」
思わずそう返すと、和倉は笑った。
自分でも言葉を探しながら話しているみたいだった。
「坂上くんと合わないわけじゃないの」
「むしろ、合うと思う」
俺は黙って聞いていた。
「私がドの音を投げたら、坂上くんもドを返してくれる感じ」
「ミならミが返ってくる」
「だから、安心するし、楽なんだと思う」
「それ、悪くないじゃん」
「うん。悪くない」
その違いが、まだうまくわからなかった。
「でも、冬吾は、私がドを投げたらミとかソが返ってくるの」
「全然違うじゃん」
「違うんだけど、合うの」
和倉は、また笑った。
「なにが返ってくるかわからないのに、重なると気持ちいいっていうか」
「違う音なのに、ちゃんとひとつになる感じ」
「……和音みたいな」
全部わかったわけじゃない。
ただ、ひとつだけははっきりした。
俺と和倉は、合わなかったわけじゃない。
それでも、織田さんといるときの和倉には、俺といるときにはなかった何かがある。
たぶん俺は、その場所には入れなかった。
「じゃあ、俺はドしか返してなかった?」
和倉は少し考えるような顔をしてから、首を横に振った。
「ドだけじゃないけど」
「じゃあ、なに」
「たまにレ?」
「隣の音か」
思わずそう返すと、和倉がくすっと笑った。
つられて俺も笑う。
その一瞬だけ、昔みたいだった。
気を遣わずに話せて、くだらないことで笑えて、変に構えなくていい空気があった。
たぶん、俺が好きだったのは、こういう時間ごとだったんだと思う。
もちろん、だからって元通りになれるわけじゃない。
さっき告げた言葉も、和倉が返した気持ちも、なかったことにはならない。
それでも、七年積み重ねてきたものまで、全部だめになるわけじゃないんだと思えた。
好きだったことも。
報われなかったことも。
一緒にいて楽しかったことも。
どれかひとつだけが本当だったわけじゃない。
うまくいかなかったからって、過ごしてきた時間まで嫌なものにしなくていい。
そう思えたのは、たぶん和倉が最後まで、和倉のままでいてくれたからだ。
笑ったあとの静かな空気の中で、俺はふぅっと息を吐いた。
ちゃんと終わるって、全部失くすことじゃないのかもしれない。
そう思ったら、いくらか救われた気がした。
5
ふたりでラウンジを出て、一階まで一緒に降りた。
玄関まで来たところで、俺は足を止めて和倉に手を振る。
「じゃあ、また明日」
「うん。明日ね」
明日になれば、また会社で顔を合わせる。
駅まで一緒に歩くこともできた。
けれど、今はその先までついていかないほうがいい気がした。
和倉はたぶん、ひとりで帰りたいだろうと思ったからだ。
遠ざかっていく背中を、俺はその場でしばらく見送った。
姿が見えなくなってから、自分も歩き出す。
俺は、彼女が好きだった。
たぶん、まだしばらくは好きなままだ。
でも、その気持ちはもう伝えてしまった。
だから、もう言い残したことはなかった。
冬の楓 第14話 「和音」 おわり




